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第一章 風の音がする部屋
雨の夜だった。
六月の終わり、梅雨が明ける気配もなく、しとしとと降りつづける雨に、町はすっかり沈黙していた。
――ポタ、ポタ、と屋根の端から垂れた雫が、水たまりに落ちる音だけが規則正しく響いている。
芹沢遥(せりざわ はるか)は、裸電球がぶらさがる六畳間の端で、あぐらをかきながら味噌汁をすする。
古いちゃぶ台の上には、昨晩の残りのきんぴらごぼうと、冷めた白ごはん。
味は悪くないが、ひとり分の食事は、どうしても味気なく感じる。
「……ああ、またポタポタ言ってやがる……」
天井を見上げれば、ふすまの向こう――廊下の端にある風呂場から水音がする。
直しても直しても雨漏りが止まらない。戦前から続くこの「三日月荘」は、今では下宿人もいなくなり、まるで時が止まったようだった。
亡くなった祖母から受け継いだこの建物を手放す気にはなれず、遥はこうしてひとり、東京の片隅で生活を続けている。
父も母もいない。誰かを迎え入れる気も、もうなかった。
そう思っていた。
あの男が、現れるまでは。
*
「……すみません、ここって、下宿……やってます?」
その声に、遥は箸を止めた。
ガラリと開け放たれた引き戸の向こう、薄暗い雨空を背景に、ずぶ濡れの青年が立っていた。
長身で細身。
手に提げた風呂敷包みと、肩からかけた革の鞄。
濡れた前髪の下から覗く瞳は、どこか人懐こいのに、ひどく深く見えた。
「ここは……下宿って言っても、もう誰もいないよ」
「ああ、やっぱり。……でも、張り紙、まだあったから」
「祖母が残したままになってるんだ。もう閉じたんだよ」
「そっかぁ……」
ふ、とその青年は肩の力を抜いた。
それから、雨に濡れたまま玄関の庇の下に腰をおろし、ずずっと鼻をすすった。
「……あの、困ってるんです。今夜だけでも泊めてくれませんか」
その言い方が、あまりにも自然すぎて――遥は思わず目を瞬いた。
ずうずうしいとも、情けないとも感じなかった。ただ、「ああ、この人はそうやって生きてきたのか」と思った。
少しだけ迷って、遥は自分でも驚くほどあっさりと口を開いた。
「……風呂と布団はある。畳も湿気てるが、寝れなくはない」
「ほんとですか! ありがとうございます!」
にこっと笑って立ち上がった青年が、ぐしゃぐしゃの髪をかきあげる。
その仕草が、やけに眩しく見えた。
*
その夜――三日月荘の静かな部屋には、二つの茶碗と、二つの湯のみが並んだ。
「名前は?」
「有馬湊(ありま みなと)っていいます。そっちは?」
「芹沢遥。ここを管理してる」
「ふーん、ひとりで?」
「ああ。……放っといてもらえるなら、いても構わない」
「……へえ、そういうタイプか」
そう言って湊は笑った。
遥は、なんとも言えぬ胸の奥のざわめきを感じながら、味噌汁を啜る。
いつもより、少し、味が濃く感じた。
三日月荘に、ふたり分の気配が生まれた。
翌朝、遥が目を覚ますと、台所からカタカタと食器の音が聞こえた。
ふだんは自分しか使わないはずの台所に、誰かの気配がある。
それが、ほんのわずかだが――悪くなかった。
「おはよう、芹沢さん。勝手に冷蔵庫見ちゃいました」
振り返った湊が、フライパンを握っている。エプロンこそないが、手つきはやけに手慣れていた。
「卵があったから、スクランブルエッグ作ってみたんだけど。……あれ? 苦手だった?」
「いや……別に」
「よかった。オレ、これくらいしか取り柄ないんで」
そう言って皿を並べる湊の動作は、なめらかで、小さな音を立てずにすべてを済ませる。
生活に、柔らかいリズムが入り込んでくる。
ふたり並んで、ちゃぶ台についた。
「……うまいな、これ」
「マジで? 嬉しいな。ふふ、毎朝作るよ」
遥は驚いたように湊を見る。
冗談かと思ったが、湊の顔は冗談と本気の中間を揺れていて、なんだかうまく読めない。
「今日、家賃の代わりってわけじゃないけど、掃除とか、庭の手入れもしていい?」
「……好きにすれば」
「おお、許可出た。やった」
気がつけば、遥はもうあまり警戒していなかった。
湊がこの家に溶け込むのが早すぎたのか――それとも、ただ、人のいる暮らしが、恋しかったのか。
*
湊は掃除が得意だった。
畳の目に入り込んだ埃を丁寧に拭き、縁側の隅にまで箒をかける。
庭の苔まで手入れして、「こっちの石、もうちょっと角度変えたら風情あるかも」などと言う。
「……お前、何者だよ」
「ただの流れ者さ。でも、一応……実家は古道具屋やってた。昭和の風景、けっこう好きでさ」
言われてみれば、湊の持ち物にはどこか懐かしいものが多かった。
革の鞄や古い懐中時計、小さなラジオ。どれも手入れが行き届いていて、過去を大切にしているのがわかる。
「なあ、芹沢さんは、どうしてこの家にひとりで?」
「……祖母の家だった。親はいない。……ここしか、残ってなかったんだ」
「そっか」
湊は、それ以上は何も言わなかった。
ただ、庭に咲いた名も知らない白い花をそっと摘んで、縁側に置いた湯呑に挿す。
その小さな彩りに、遥はしばらく目を奪われていた。
*
夜。
電灯を落とした部屋に、ラジオの音が微かに流れている。
和室に並んだ布団、互いの間にはひとつぶんの座布団ほどの距離。
「……芹沢さんって、さ。いつも何考えてるかわかんないけど、ちゃんと優しい人だよね」
「……別に優しくない」
「そう? オレにはわかるよ」
湊の声は、寝息混じりで、あたたかかった。
遥は、壁を見つめながら、ふと呟く。
「……お前、ずっとここにいるつもりか?」
「うん。追い出さないでくれるなら」
「……俺も、うるさくしないなら構わない」
「うん、静かでいいよ。ここ、空気も匂いも、全部やわらかい」
「……」
「ここで暮らしたい。誰かと、静かに、穏やかに……」
その言葉が、布団越しにじんわりと滲んできた。
遥は返事をしないまま、深く息を吐いた。
雨はもう止んでいる。
なのに、心の中にはまだ、ぽつり、ぽつりと音が残っていた。
*
翌朝。
湯呑の中の花が、ひらりと散っていた。
その隣で、湊が笑った。
「今日も、生きてるね、オレたち」
その言葉に、遥は初めて、胸の奥からふっと笑った。
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