2 / 5
第二章 白いシャツと夏の匂い
七月が訪れた。
梅雨が明け、空が高くなった。
三日月荘の縁側には陽の光がよく射すようになり、廊下の木目が濃く際立つ。
芹沢遥は、久々に押入れから扇風機を取り出し、軸の部分に薄く積もった埃を布でぬぐった。
――ぶおん、と鈍くうなる音。懐かしさの混ざった風が、部屋の空気を揺らす。
奥の部屋から、白いシャツを着た有馬湊が出てきた。
少し大きめの襟をふわりと揺らし、麦茶を片手に笑う。
「扇風機、動くんだ。すごいね、これ」
「ああ。たぶん昭和二十年代のやつだ」
「古っ……でも、風が優しいな。電気代もかかんなさそうだし」
「お前、わりと主婦っぽいところあるな」
「主婦じゃなくて下宿人! だけど、この家は気に入ってる。……なんていうか、落ち着くよ」
湊は床にあぐらをかき、まるで何年もここに住んでいるような顔で麦茶を啜った。
ふたりの距離は、不思議なほど自然だった。
言葉少なで、互いの領域に踏み込みすぎず、それでも毎朝、同じ空気を吸って、同じような時間に「おはよう」と言葉を交わす。
そんな日々が、遥にはとても新鮮だった。
*
「ねえ、遥。今夜、花火見に行かない?」
夕方、風鈴が小さく鳴る廊下で、湊がふと口にした。
「花火?」
「このあたり、荒川の河川敷でさ、小さめだけど打ち上げるんだって。下町の商店街が主催してるらしい」
「……興味ない」
「そっか、じゃあオレだけで行こ――」
「待て。別に……嫌とは言ってない」
湊はくすりと笑う。
「いいね、その感じ。素直じゃないけど、本当は行きたいって顔してる」
「……うるさい」
「着替えておいで。浴衣じゃなくていいけど、ちょっと風通しのいい格好がいいよ。……遥、暑さに弱そうだし」
「勝手なことを……」
言いながら、遥は引き戸を閉めた。
その手が、ほんのわずかに震えていたことに、自分でも気づいていた。
*
河川敷は、予想よりも人が多かった。
浴衣姿の子どもたち、屋台の匂い、ゆるやかに流れる昭和歌謡の音――
すべてが懐かしく、そして心地よかった。
「はい、これ。冷たいラムネ」
「……ありがとう」
「ストローで飲んだら風情が台無しだからね、ちゃんとビー玉のとこ押して飲むんだよ」
湊は得意げに言いながら、自分のラムネを勢いよく傾けた。
遥も、言われたとおりにビー玉を押し込む。甘くて涼しい炭酸が喉を通る。
「……思ってたより、いいな。花火って」
「うん、でしょ。たぶん、ふたりで来たからだよ」
「……ああ」
その「ふたりで」という言葉が、遥の胸に静かに染みていく。
そして、最初の一発が、夜空に咲いた。
ドン、と音を立てて、金と赤の光が天に広がる。
空気が震え、人々の歓声があがる。
「きれい……」
湊が、小さな声で呟いた。
遥は、その横顔を見ていた。
花火の光が一瞬、その頬を照らす。長いまつげが揺れ、目尻がわずかに下がっていた。
「……湊」
「ん?」
「……このまま、どこにも行くなよ」
「……行かないよ」
その返事は、迷いなく、あたたかかった。
遥の手が、ふいに動いた。
湊の手の甲に、そっと触れる。
湊は驚いたように目を丸くし、それから――何も言わず、手を重ね返した。
ふたりの間に言葉はなかった。
ただ、手と手が、ゆっくりと重なった。
次の瞬間、夜空に白い菊のような花火が咲いた。
その光の中で、ふたりはそっと笑った。
ありがとうございます。
それでは、第二章後半――
静かに心がほどけていく夜と、交わる想いを綴ります。
⸻
🕯️『この夜を灯して』
第二章 白いシャツと夏の匂い(後半)
――遠雷の音
花火大会の帰り道、ふたりは無言のまま並んで歩いていた。
喧騒の残り香が背後に遠のく。
蝉の声はもう途切れ、夜の風だけが白いシャツの裾を揺らした。
「……ありがとう。誘ってくれて」
静かにそう言ったのは、芹沢遥だった。
湊は、ふと立ち止まり、振り返る。
「うん。嬉しかった?」
「ああ……少し、目が痛くなったけどな」
「それは……最初の花火のとき、ちょっと泣いたから?」
遥は言葉を飲み込む。
湊はそれ以上問いたださなかった。ただ笑って、「俺も、ちょっと泣きそうだった」と呟いた。
*
三日月荘に戻ると、空気はしんと静まり返っていた。
古い木の床を踏むたびに、夜の湿気がじんわりと足元を包む。
「……あ、ちょっとシャワー借りていい? 汗かいたから」
「ああ。風呂場は古いけど、湯は出る」
湊は風呂敷から白いタオルを取り出し、さっさと脱衣所へと消えた。
その背中を、遥はしばらく見つめていた。
玄関に、履き古されたスニーカー。
今朝、縁側に置いたままの麦茶のコップ。
台所に重なった二つの湯呑。
そのどれもに、湊という人間の匂いが染みついている。
「……ずるいやつだ」
遥はぽつりとつぶやいた。
こんなふうに人の生活に溶け込んで、警戒心をほどいて、当たり前みたいな顔で隣にいる。
だが――それが嫌ではなかった。
むしろ、遥自身が、その存在に救われていた。
*
夜十一時。
ふたりはいつものように布団を並べて眠る準備をした。
窓の外では遠くで雷が鳴っていた。夏の夕立の残響だ。
「芹沢さん、今日の晩ご飯、俺が作ってもよかったんだけど、気づいたら外に出たくなってて」
「……それで、花火に誘ったのか」
「うん、まあ。……本当は、家にいたくなかったの。今日だけは」
湊の声が少し低くなった。
それがいつもと違って聞こえて、遥はそっと顔を向ける。
「……今日、何か、あったのか?」
しばらくの沈黙のあと、湊がぽつりと語り始めた。
「……三年前、兄貴が死んだ日なんだ。事故だった。で、その日は、ずっと実家では“何も言わずに過ごす日”になってた」
「……そうか」
「それが嫌でさ。無理に笑わなくても、泣かなくてもいい場所が、欲しかったんだよね。……この家は、そうだった」
遥は、何も言わず、湊の言葉を受け止めた。
そのあと、ふっと布団から半身を起こす。
「……お前、今夜はここで寝ろ」
「えっ?」
「いいから、黙って来い」
遥は自分の布団の端を引き寄せ、ぽんと湊の枕をそこへ投げた。
しばらく呆気に取られていた湊だったが、やがて静かに笑って、布団の隣へ滑り込んだ。
手が、触れそうで触れない距離にある。
顔を向ければ、すぐそこに湊の横顔がある。
「……こういうの、ダメかなって思ってたけど」
「なにが」
「踏み込むの。怖かった。ここで壊したくないって思ってたから」
遥は、少しだけ息を吸って――言った。
「壊さないようにすればいい。……お前が、ここにいたいって言うなら」
「……じゃあ、触ってもいい?」
「……」
沈黙のあと、遥が目を伏せたまま、こくんと頷いた。
その夜、ふたりの指がそっと絡んだ。
そして、遥が目を閉じたその瞬間――湊の唇が、静かに額に触れた。
あたたかい、やさしい、夏の雷みたいなキスだった。
どこにも焦りはなく、ただ「ここにいる」と伝えるようなキス。
外では雷がまたひとつ、遠くで鳴った。
それを合図にするように、ふたりの間に横たわっていた距離が、そっとほどけた。
ともだちにシェアしよう!

