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第二章 白いシャツと夏の匂い

 七月が訪れた。  梅雨が明け、空が高くなった。  三日月荘の縁側には陽の光がよく射すようになり、廊下の木目が濃く際立つ。  芹沢遥は、久々に押入れから扇風機を取り出し、軸の部分に薄く積もった埃を布でぬぐった。  ――ぶおん、と鈍くうなる音。懐かしさの混ざった風が、部屋の空気を揺らす。  奥の部屋から、白いシャツを着た有馬湊が出てきた。  少し大きめの襟をふわりと揺らし、麦茶を片手に笑う。 「扇風機、動くんだ。すごいね、これ」 「ああ。たぶん昭和二十年代のやつだ」 「古っ……でも、風が優しいな。電気代もかかんなさそうだし」 「お前、わりと主婦っぽいところあるな」 「主婦じゃなくて下宿人! だけど、この家は気に入ってる。……なんていうか、落ち着くよ」  湊は床にあぐらをかき、まるで何年もここに住んでいるような顔で麦茶を啜った。  ふたりの距離は、不思議なほど自然だった。  言葉少なで、互いの領域に踏み込みすぎず、それでも毎朝、同じ空気を吸って、同じような時間に「おはよう」と言葉を交わす。  そんな日々が、遥にはとても新鮮だった。 * 「ねえ、遥。今夜、花火見に行かない?」  夕方、風鈴が小さく鳴る廊下で、湊がふと口にした。 「花火?」 「このあたり、荒川の河川敷でさ、小さめだけど打ち上げるんだって。下町の商店街が主催してるらしい」 「……興味ない」 「そっか、じゃあオレだけで行こ――」 「待て。別に……嫌とは言ってない」  湊はくすりと笑う。 「いいね、その感じ。素直じゃないけど、本当は行きたいって顔してる」 「……うるさい」 「着替えておいで。浴衣じゃなくていいけど、ちょっと風通しのいい格好がいいよ。……遥、暑さに弱そうだし」 「勝手なことを……」  言いながら、遥は引き戸を閉めた。  その手が、ほんのわずかに震えていたことに、自分でも気づいていた。 *  河川敷は、予想よりも人が多かった。  浴衣姿の子どもたち、屋台の匂い、ゆるやかに流れる昭和歌謡の音――  すべてが懐かしく、そして心地よかった。 「はい、これ。冷たいラムネ」 「……ありがとう」 「ストローで飲んだら風情が台無しだからね、ちゃんとビー玉のとこ押して飲むんだよ」  湊は得意げに言いながら、自分のラムネを勢いよく傾けた。  遥も、言われたとおりにビー玉を押し込む。甘くて涼しい炭酸が喉を通る。 「……思ってたより、いいな。花火って」 「うん、でしょ。たぶん、ふたりで来たからだよ」 「……ああ」  その「ふたりで」という言葉が、遥の胸に静かに染みていく。  そして、最初の一発が、夜空に咲いた。  ドン、と音を立てて、金と赤の光が天に広がる。  空気が震え、人々の歓声があがる。 「きれい……」  湊が、小さな声で呟いた。  遥は、その横顔を見ていた。  花火の光が一瞬、その頬を照らす。長いまつげが揺れ、目尻がわずかに下がっていた。 「……湊」 「ん?」 「……このまま、どこにも行くなよ」 「……行かないよ」  その返事は、迷いなく、あたたかかった。  遥の手が、ふいに動いた。  湊の手の甲に、そっと触れる。  湊は驚いたように目を丸くし、それから――何も言わず、手を重ね返した。  ふたりの間に言葉はなかった。  ただ、手と手が、ゆっくりと重なった。  次の瞬間、夜空に白い菊のような花火が咲いた。  その光の中で、ふたりはそっと笑った。 ありがとうございます。 それでは、第二章後半―― 静かに心がほどけていく夜と、交わる想いを綴ります。 ⸻ 🕯️『この夜を灯して』 第二章 白いシャツと夏の匂い(後半) ――遠雷の音  花火大会の帰り道、ふたりは無言のまま並んで歩いていた。  喧騒の残り香が背後に遠のく。  蝉の声はもう途切れ、夜の風だけが白いシャツの裾を揺らした。 「……ありがとう。誘ってくれて」  静かにそう言ったのは、芹沢遥だった。  湊は、ふと立ち止まり、振り返る。 「うん。嬉しかった?」 「ああ……少し、目が痛くなったけどな」 「それは……最初の花火のとき、ちょっと泣いたから?」  遥は言葉を飲み込む。  湊はそれ以上問いたださなかった。ただ笑って、「俺も、ちょっと泣きそうだった」と呟いた。 *  三日月荘に戻ると、空気はしんと静まり返っていた。  古い木の床を踏むたびに、夜の湿気がじんわりと足元を包む。 「……あ、ちょっとシャワー借りていい? 汗かいたから」 「ああ。風呂場は古いけど、湯は出る」  湊は風呂敷から白いタオルを取り出し、さっさと脱衣所へと消えた。  その背中を、遥はしばらく見つめていた。  玄関に、履き古されたスニーカー。  今朝、縁側に置いたままの麦茶のコップ。  台所に重なった二つの湯呑。  そのどれもに、湊という人間の匂いが染みついている。 「……ずるいやつだ」  遥はぽつりとつぶやいた。  こんなふうに人の生活に溶け込んで、警戒心をほどいて、当たり前みたいな顔で隣にいる。  だが――それが嫌ではなかった。  むしろ、遥自身が、その存在に救われていた。 *  夜十一時。  ふたりはいつものように布団を並べて眠る準備をした。  窓の外では遠くで雷が鳴っていた。夏の夕立の残響だ。 「芹沢さん、今日の晩ご飯、俺が作ってもよかったんだけど、気づいたら外に出たくなってて」 「……それで、花火に誘ったのか」 「うん、まあ。……本当は、家にいたくなかったの。今日だけは」  湊の声が少し低くなった。  それがいつもと違って聞こえて、遥はそっと顔を向ける。 「……今日、何か、あったのか?」  しばらくの沈黙のあと、湊がぽつりと語り始めた。 「……三年前、兄貴が死んだ日なんだ。事故だった。で、その日は、ずっと実家では“何も言わずに過ごす日”になってた」 「……そうか」 「それが嫌でさ。無理に笑わなくても、泣かなくてもいい場所が、欲しかったんだよね。……この家は、そうだった」  遥は、何も言わず、湊の言葉を受け止めた。  そのあと、ふっと布団から半身を起こす。 「……お前、今夜はここで寝ろ」 「えっ?」 「いいから、黙って来い」  遥は自分の布団の端を引き寄せ、ぽんと湊の枕をそこへ投げた。  しばらく呆気に取られていた湊だったが、やがて静かに笑って、布団の隣へ滑り込んだ。  手が、触れそうで触れない距離にある。  顔を向ければ、すぐそこに湊の横顔がある。 「……こういうの、ダメかなって思ってたけど」 「なにが」 「踏み込むの。怖かった。ここで壊したくないって思ってたから」  遥は、少しだけ息を吸って――言った。 「壊さないようにすればいい。……お前が、ここにいたいって言うなら」 「……じゃあ、触ってもいい?」 「……」  沈黙のあと、遥が目を伏せたまま、こくんと頷いた。  その夜、ふたりの指がそっと絡んだ。  そして、遥が目を閉じたその瞬間――湊の唇が、静かに額に触れた。  あたたかい、やさしい、夏の雷みたいなキスだった。  どこにも焦りはなく、ただ「ここにいる」と伝えるようなキス。  外では雷がまたひとつ、遠くで鳴った。  それを合図にするように、ふたりの間に横たわっていた距離が、そっとほどけた。

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