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第三章 夏の終わりに、灯がともる
八月も半ばを過ぎると、夕暮れが早くなった。
遠くから盆踊りの音頭が流れ、空には蜻蛉が舞う。
三日月荘の縁側では、蝉の声が残り香のように響いていた。
有馬湊はいつものように麦茶を煮出し、ガラス瓶に移して冷蔵庫へしまう。
「……これも慣れたなあ」
独りごちていると、障子の向こうから芹沢遥の足音が近づいてきた。
「湊、今日は早いな」
「うん、バイト先、棚卸しで急に半休もらっちゃって」
「……お疲れ。じゃあ、夕飯は任せた」
「おいおい、いつの間にか家政夫扱い?」
「違う。信頼してるだけだ」
遥は淡々とそう言って台所を通り過ぎたが、湊は頬を緩ませたままだった。
ふたりの距離はこの一か月でずいぶんと縮まり、いつの間にか「二人暮らし」が当たり前になっていた。
*
その夜――
ふたりは縁側に並び、団扇をあおぎながらスイカを食べていた。
「ねえ、遥」
「ん」
「俺たちって……どう見えるかな、他人からしたら」
「何を急に」
「いや、昨日さ、バイト先の同僚が“最近、いい感じの人でもできた?”って聞いてきて。うっかり“同棲中”って答えちゃってさ」
遥はスイカの種を吐きながら、ちらと湊を見た。
「それで?」
「“同棲って彼女?”って聞かれて、否定しなかった。……なんか、変じゃない?」
「いや。俺は別に、変じゃないと思う」
湊は驚いたように目を丸くした。
「……遥、俺たちって“そういう”関係になったの、つい最近だよ? それまではただの下宿人だったんだぞ?」
「ああ。でも、心は最初からそうだった」
「……え」
「お前が最初にうちの扉を叩いたときから、俺はたぶん、惹かれてた。……だから、今さら言葉をつける意味が、あまりない気がする」
その言葉に、湊はしばらく黙り込んだ。
やがて、静かに笑う。
「ずるいなあ、芹沢さんって。ほんとにさ、そういうとこ、ずるい」
「お前に言われたくない」
ふたりは笑い合った。
夜の風が、蚊取り線香の煙をそっと撫でた。
*
翌日、ひとつの来訪者が、三日月荘の静けさを破った。
訪ねてきたのは、湊の母親――有馬佐和だった。
「湊……ここにいたのね。……ずっと、連絡もなくて……」
玄関に立つ佐和は、化粧の濃い顔を伏せ、声を震わせていた。
湊はぎこちなく立ち尽くしていたが、やがて震えた声で言った。
「ここが、俺の“家”だよ。もう東京に戻るつもりはない」
「……そんな勝手なこと……。あんたがいなくなってから、ずっとお兄ちゃんのことも……」
「兄貴の話はするな!」
空気が張りつめる。
遥は静かに、湊の肩に手を置いた。
「……失礼ですが、彼はここで、ちゃんと暮らしています。どうか、少し時間をいただけませんか」
佐和は遥をじっと見つめた。
そして、絞るように言った。
「……あの子を、どうかお願いします」
*
夜――
風呂上がりの湊が、冷えた麦茶を飲みながら、ぽつりと漏らした。
「……母さん、あんなふうに言うなんて、ずるいよな」
「ずるいか?」
「だって、“お願いします”なんてさ、普通、他人に言うことじゃないだろ? 俺、あの人の子どもなのに」
「……他人、じゃないって思ってるんだろ」
「……遥」
「お前が、どう思っていようと。あの人にとっては、たぶん、今でも大切な“家族”なんだよ」
その言葉に、湊は静かに目を閉じた。
そして、ぽつりと呟いた。
「……なら、俺も。ここで誰かを、ちゃんと大切にしたい。そう思ってる」
ふたりは視線を交わした。
遥が、そっと湊の頬に手を伸ばす。
触れるか触れないかの距離で、そっと寄り添う。
唇がまた、重なりそうで、重ならない。
でも――
この夜、ふたりの距離は確かに、未来へと進んでいた。
――灯の名を呼ぶ
八月の終わり、三日月荘の庭には、枯れかけた朝顔がゆれていた。
季節は夏から、確実に秋へと傾いていた。
その変化を誰よりも繊細に感じ取っていたのは、芹沢遥だった。
湊との暮らしは穏やかだった。――だが、穏やかすぎた。
「……やけに、距離が近くなったな」
ふと、風鈴の音が鳴る。
その音に、遠い記憶が重なった。
――あれは、高校の夏。
父が亡くなった年、同じように誰にも言えず、誰にも頼れず、ただ夕暮れの畳に横たわっていた。
この部屋で、孤独と向き合っていた。
そして今。
その同じ部屋で、誰かの寝息が隣にある。
「……俺、変わったんだろうか」
誰にも聞かれない問いだったが、それに答えるように、縁側の向こうから声がした。
「変わってなんかないよ。変わったのは、俺のほうだ」
湊だった。
いつものように、麦茶の瓶を持ち、片手に洗濯物を抱えている。
「遥が変わらないから、俺は安心してここにいられるんだと思う」
「……」
「だから、もし変わるとしても、それは“ふたりで”がいいなって思ってる」
遥は黙ったまま、洗濯物のタオルを受け取る。
指先がふれる。湊の指があたたかい。
「なあ、遥」
「なんだ」
「俺、ちゃんと言いたくて。……言うの、ちょっと照れるけど」
湊は一瞬だけ、顔を背ける。
それから、小さな声で――
「……好きだよ」
空気が静まり返る。
蝉の声すら遠くなった気がする。
遥は目を伏せた。
言葉が喉元で絡んで、出てこない。
――だけど、逃げたくはなかった。
遥は、息をゆっくり吐いて、顔を上げた。
「……俺も、好きだ」
その言葉を口に出すのは、遥にとって勇気が必要だった。
だが、言葉にした瞬間、肩の力が抜ける。
湊の顔がふわりとほどけて、笑った。
「ありがと。……なんか、ちゃんと聞きたかったんだ」
「……言うの、すごく恥ずかしかった」
「俺もだよ。でも、嬉しい」
ふたりはしばらく無言で並び、夕暮れを見つめた。
そのあと、遥がそっと手を伸ばし、湊の手を握った。
熱くて、柔らかくて、確かに「そこにある」もの。
それは、過去にも未来にも縛られない、たったいまの真実だった。
*
その夜、ふたりは一緒に布団に入りながら、語らった。
遥の父のこと。
大学を辞めた理由。
そして、これからのこと。
「この先、どうなるかわからないけど」
湊が言った。
「一緒にいような。ずっと」
遥は少しだけ目を閉じて――答える。
「……ああ、灯してくれ。お前が、俺の夜を」
ふたりの間に交わる灯りは、まだ小さな炎だった。
けれど、それは確かに、夜を照らす光だった。
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