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第四章 秋灯(しゅうとう)の約束
九月の風は、どこか澄んでいた。
蝉の声は鳴りを潜め、代わりに草むらから鈴虫の音が届いてくる。
三日月荘の庭にも、彼岸花が赤く咲き始めていた。
「もう夏が終わるんだな」
有馬湊は縁側で缶コーヒーを片手に、ぼんやりと呟いた。
その隣に、芹沢遥が新聞を畳んで座る。
「お前が来てから、季節が変わるのが早く感じる」
「それって、良い意味?」
「どうだろうな。……でも、悪くはない」
遥の言葉に、湊は笑った。
柔らかく、少し照れたように。
ふたりの関係は、誰の目もないこの家の中で、静かに深まっていた。
言葉より、仕草より、ただそばにいるということが、大事だった。
――だが、その静けさは、ふいに訪れた来客によって破られる。
「こんにちはー……って、あれ? 湊……?」
玄関に立っていたのは、湊のバイト先の同僚・高木だった。
「あ……高木さん? どうしてここに……」
「忘れ物、届けに来ただけ。たまたま近くに来たからって……。で、誰?」
高木の視線が、奥で新聞を片づける遥に向く。
湊が気まずそうに一歩前に出る。
「あー……この人は、えっと……」
「同棲相手?」
「……!」
湊の顔が一気に赤くなった。
遥は視線を高木に戻し、無言で頭を下げる。
「……ああ、そういうこと。ふーん。そっか。意外。けど、なんか納得」
「ごめん、高木さん、今日は……ちょっと」
「あ、うん。邪魔しない。じゃ、また明日ね」
高木はそれ以上何も言わず、去っていった。
玄関の戸が閉まると、沈黙が落ちた。
「……ごめん、遥」
「何がだ」
「言い方……もっと、うまくできたのに」
「別に、隠してたわけじゃないんだろ」
「でも……やっぱり、ちょっと怖い。周りに知られるのが」
湊の声は少し震えていた。
遥は静かに、湊の肩を抱いた。
「怖がってもいい。だけど、俺は隠すつもりはない」
「……うん」
「お前が隣にいてくれるなら、それでいい」
*
その夜、ふたりはいつものように布団を並べて横になっていた。
「ねえ、遥。……俺、東京の実家、戻って母さんとちゃんと話そうと思う」
「……急に、どうして」
「高木さんが来たのがきっかけ、かな。……もし今の俺たちが“ちゃんとした関係”だって言うなら、どこかで向き合わないといけない気がして」
「……お前がそう思うなら、止めない」
「ありがとう。……遥がそう言ってくれるから、行ける気がする」
湊は遥の布団の端をぎゅっと握った。
「帰ってきたら、さ。……ちゃんと、言ってもいい?」
「何を」
「“一緒に暮らそう”って……ちゃんと、そうやって、言ってもいい?」
遥はゆっくりと頷いた。
「それが、お前の“約束”か」
「うん。秋灯の夜に交わす、未来の約束」
ふたりの目が合い、どちらからともなく、額を寄せ合う。
何も言わなくても、その距離がすべてを物語っていた。
――約束の灯り
東京へ向かう電車の中、有馬湊はぼんやりと窓の外を眺めていた。
秋の空は高く、どこか心細いほどに澄んでいた。
車窓の向こうを過ぎていく景色を見ながら、彼は芹沢遥の言葉を思い出していた。
――「お前がそう思うなら、止めない」
あの夜、背中を押された感触が、今も手のひらに残っている。
*
東京の実家に着くと、扉の前には母――佐和が立っていた。
目尻に年齢を感じさせるしわ。
そして、少しだけ痩せた身体。
「……帰ってきたのね」
「ああ。ただいま」
たったそれだけの挨拶に、しばらく沈黙が続いた。
やがて佐和が口を開いた。
「三日月荘……あの人の家ね。あなたのおばあ様の」
「そう。もう、俺の場所になったけど」
「……安心した顔をしてた。あのとき会ったときも。あの人と一緒にいたから?」
湊はゆっくりと頷いた。
「うん。芹沢遥って人。……不器用だけど、まっすぐで、信頼できる人」
「……あの子を失ってから、あなたがずっと、心ここにあらずで。私、ずっと……間違ってたかもしれないって思ってた」
「兄貴のこと、俺も……話せなかった。母さんが泣かないように、何も言わないようにしてきた。でも、俺、ようやく自分のことを言いたいと思えるようになったんだ」
佐和はふと目を伏せ、ゆっくりと椅子に腰を下ろす。
「誰かと一緒にいるって、簡単なことじゃない。……でも、それでも選ぶなら――」
「俺は、遥を選びたい」
その言葉に、佐和は目を閉じて小さく笑った。
「……あの子の写真、仏壇に飾ってある。よかったら、手を合わせていきなさい」
「……うん」
静かな灯明の前で、湊は兄に手を合わせた。
そして胸の中で、そっと呟いた。
――俺、自分の人生を歩くよ。そっちに背中を押してもらったから。
*
三日月荘では、遥が静かに掃除をしていた。
湊のいない二日間。
静けさは寂しさに似ていたが、不思議と耐えられた。
「……ちゃんと、帰ってくるからな」
縁側に腰を下ろし、ラジオをつける。
昭和の歌謡が微かに流れる。
そのときだった。玄関の戸が開いた。
「ただいま」
湊の声。
振り返ると、少し疲れて、それでも穏やかな顔がそこにあった。
「……おかえり」
その言葉が、今までで一番あたたかく響いた。
「母さん、ちゃんと話してくれた。……“あの家が、あなたの居場所なら、私も見守るわ”って。……ちょっと泣いてたけど」
「そうか」
「だから――帰ってきた。俺の居場所に」
ふたりは無言で見つめ合う。
そして、遥がゆっくりと立ち上がり、湊の腕を引いた。
「お前の部屋、もうひとつ布団足した」
「え?」
「隣で寝るのも悪くないけど、……たまにはちゃんと、並んで眠るのもいい」
湊は笑った。
その笑みには、安堵と喜びと、これからへの決意があった。
「遥。……俺たち、ちゃんと一緒に暮らそう」
「……ああ。“家族”としてな」
そして、ふたりは今夜も、同じ屋根の下で灯りをともした。
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