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最終章 この夜を灯して

 秋が深まるにつれ、三日月荘の庭には金木犀の香りが漂い始めた。  風は少し冷たくなり、夕暮れが早くなる。  けれど、三日月荘の中にはあたたかい灯りがあった。  それは、二つの湯呑み。二枚の布団。  交わす視線、ふと伸ばされた手。  そんなささやかな日常のなかに、確かに“愛”があった。 *  ある晩。  湊は、台所の棚を整理していた遥の背に、そっと声をかけた。 「ねえ、遥。……来年の春、三日月荘、改装しない?」 「改装?」 「うん。って言っても大げさなことじゃなくて。障子張り替えるとか、キッチンの水道直すとか。……あと、縁側にテーブル置いたり」 「……お前が住み続ける気なら、いくらでも」 「住むよ。だって――ここは、俺たちの家だろ?」  “俺たちの家”  その響きに、遥は静かにうなずいた。 「そうだな。お前がここに来てから、空気が変わった。……悪くない風になった」 「それ、褒めてる?」 「照れ隠しだ」  湊は笑った。  そして、小さな箱を差し出す。 「これ、渡すタイミングずっと迷ってたんだけど……今日がいい気がした」  中には、小さな真鍮のキーリングがふたつ。  表面には、控えめな筆記体で“Tsukikusa 203”と彫られていた。 「部屋番号……」 「うん。“ふたりの部屋”って意味で。新しい鍵もつけといた」 「……ふたりの?」 「そう。芹沢遥と、有馬湊の、ふたりの名前が並んでる」  遥はゆっくりとキーリングを手に取り、しばらく沈黙した。  それから、ぽつりと呟いた。 「……ありがとう。嬉しい」 「ほんと?」 「ああ。……俺、お前に“鍵”もらったの、初めてだな」 「俺は最初から、ずっと預けてるつもりだったけどね」  その言葉に、遥はふっと笑った。 「……ずるいな。お前って、ほんと」 「知ってる」 *  夜、ふたりは縁側に並び、毛布にくるまりながら星を見ていた。  遠くの町から、微かにラジオの演歌が流れてくる。  どこか懐かしく、胸をくすぐるようなメロディ。 「ねえ、遥。……俺たち、いろいろあったけど、こうして今も一緒にいるって、奇跡みたいだね」 「奇跡じゃない。お前が毎朝、麦茶を沸かしてくれたからだ」 「なにそれ、そこ?」 「大事だ。お前がいて、俺の朝が始まる。それが、続いてるだけ」 「……そっか。……そっか」  湊の声が少しだけ震えた。  ふたりの間に、あたたかい沈黙が落ちる。  そして――  遥が、そっと手を伸ばした。  その手が湊の頬に触れ、やがて顎をすくう。 「……いいか」 「……うん」  言葉のあとに、ふたりの唇が重なった。  ゆっくりと、確かに。  音もなく、けれどすべてが伝わるような、やさしいキスだった。  冷たい夜気のなかで、それは炎のように、静かにふたりを包み込んだ。  ふたりの心の中に――  ひとつの灯りがともった。  それは消えることのない、ささやかで確かな“愛の灯”だった。       『この夜を灯して』完

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