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【序章】その檻(うで)は甘美(1)

 女の悲鳴に、レオンハルトは飛び起きた。  触れた己の額が汗で冷え切っていることで、それがただの悪夢だと気付く。  窓の向こうはすぐ森だ。  夢うつつに聞いた野犬の鳴き声を、破瓜に涙する女の悲鳴だと錯覚したのだろう。 「はぁ……はぁ……」  これから幾度こんな夢をみるのだろうか。  後ろめたさに精神を蝕まれながら、幾夜眠れぬ夜を過ごさなくてはならないのか。  ──だが、それもすべて自分のせいだ。 「大丈夫か、レオ。すごい汗だ」  不意に降り注ぐ声に、レオンハルトは弾かれたように身を固くした。  やがて、肩から力が抜ける。 「ヴィルか……」  寝台の傍らに膝をつくのは一人の青年であった。  緋色の髪が額に影を落としている。  同色の眼差しは、優しげにレオンハルトを包んでいた。  名をヴィルターという。  家柄こそ違えど、レオンハルトにとっては幼馴染で親友であった。  普段なら深い輝きを放つ緋色の眼差しにほっとするところだが、今日ばかりはその眼を真っすぐ見返せない。 「心配な飲み方をしていたからな。屋敷まで送ってきた」 「ああ、すまなかった……」  声が掠れたのは酒のせいばかりではあるまい。  昨夜のことだ。  好色な王がレオンハルトの婚約者シンシアを所望したのだ。  王宮での晩餐へ彼女を連れていき、王の目配せに従って自分ひとりで王宮を後にした。  その後、シンシアの身に何が起こったか想像するのはたやすい。  激しい呼吸を制御するかのように、レオンハルトは両手で顔を覆う。  黒髪が汗で額に張りついていた。  濃い瑠璃色の眸に映すのは悔恨の念か。  貴族の若き当主として相応しい整った容貌は、しかし今は大きく歪んでいた。 「俺はなんてことを……」  王宮を出ても街外れの屋敷へ戻る気には到底なれなかった。  街の酒場で独り、浴びるように呑んだことまでは覚えている。  もともと強いわけではない。  酩酊するのに時間はかからなかった。  途中でヴィルターが隣りに座ったことにすら気付かなかったのだろう。  無言で付き合ってくれた幼馴染は、意識朦朧となったレオンハルトをかつぎ屋敷まで送り届けてくれた。  酒臭い衣服を脱がせ汗を拭き、清潔な夜着を着せて寝台に寝かせてくれたのだ。  そればかりでなく、月が頂天を過ぎたこんな時間まで眠らず見守っていてくれたのか。 「ヴィル……」  さして広くない室内を照らしていた燭台の炎が今この瞬間、消えた。  ただよう蝋の匂い。  窓から射しこむ月の光が急に眩しいものに感じられる。  今宵の月はやけに緋(あか)い。 「すまなかった、ヴィル……」  いや、いいんだと背を撫でられ、レオンハルトは瑠璃色の眸を細めた。  初夏のこの季節、ヴィルターの手は冷やりと心地好い。  しかし今夜は彼の手の優しさが、ただうしろめたい。 「すまなかった。シンシア……お前の大事な妹を俺は陛下に差し出したんだ」  冷やりとした手に動揺はみられない。  背を這いあがり、首筋をゆっくりと撫で続ける。 「気に病むな、レオ。陛下は欲しいものは必ず手に入れる方だ。この国の貴族は陛下に逆らっては生きてはいけない」  ヴィルターのシュルツ家は王の傍流でもあり、有力な貴族といえる。  しかしレオンハルトが当主を務める下級貴族のクライン家など、国王の不興を買っては宮廷で生き残れるはずもない。  そう、すべては家のため。  一歳年下の弟のため。  そして、亡き父の名誉のためなのだ。 「……いや、違う。己の保身だ」  冷やりとした指先は、今度はぞわぞわとレオンハルトの黒髪を分け入ってきた。  後頭部をゆっくりとなぞられるたびに、ヴィルターの手首が耳たぶを掠める。 「仕方がなかったんだ。レオ、君には欠片ほどの非もない」 「ヴィル……」  状況を考えれば幼馴染の言葉は口先だけの慰めにすぎない。  それでも、今は彼の思いやりに縋りたかった。

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