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さよなら、緋い闇(3)【完】
「レオに会った瞬間、世界が変わったんだ。女の声なんて聞こえなくなった。レオの愛情がおれを守ってくれたんだ」
──いや、友情だな。
苦い表情で言い直すヴィルター。
友情でも愛情でも、どちらにしろ台無しにしたのは自分だと。
「君を失ったと思ったとき、また……女の悲鳴が聞こえるようになったんだ……」
「ヴィル……」
レオンハルトの指先が親友の前髪を払う。
緋色の闇に囚われている男の頬を、両手でそっと挟んだ。
あのころの自分が彼に助けられたように、ヴィルターを救ってやりたい。
冷やりとした手に心を癒されたように、彼を苦しみから解放してやりたい。
「ヴィル、それは風の音だよ。俺を見ろ。俺の声だけ聞けばいい」
「そんなの、俺はずっとレオだけ見てる。レオの声だけ聞いて……」
「そうだったな」
あのころのように──いや、あのころよりもずっと強く。
レオンハルトはヴィルターを抱きしめた。
冷やりとした身体が心地好い。
トクリと波打つ心臓の鼓動が混ざりあう。
「レオ、あったかい……」
おずおずとヴィルターの手がレオンハルトの背に回される。
夕陽の残照がふたりを緋色に染めあげ、やがて消えていった。
薄藍の夜。
湖面が闇の色に染まる。
「寒くないか、ヴィル?」
夏とはいえ、陽が落ちた途端まとう空気が冷たくなった。
ヴィルターを抱きしめながら、レオンハルトは身を縮める。
「服、乾かなかったね」
自分の上着を脱ぎながら、ヴィルターが微かに微笑んだ。
その笑みに、レオンハルトは心底ほっとしたのだ。
「いいよ、お前が風邪をひく」
上着を押しやってから、自分の濡れた服の裾を今さらながら絞ってみせる。
俯いた拍子に、胸元で存在感を示す金の指輪に視線が止まった。
母の、父の、弟の形見だ。心臓のかたちは復讐の象徴である。
レオンハルトは首から鎖を外した。
右手にヴィルターの手を握り、左手で鎖をくるくると回転させる。
冷たい手に右手を握り返されたそのとき、レオンハルトは左手を空へ掲げた。
指輪を放り捨てたのだ。
数秒後、小さな小さな水音が遠くで聞こえる。
瞬間。
湖が銀色に眩く輝いた。
風に遊ぶ水面が、祝福するかのように小さく踊っている。
黒い雲の向こうから銀に瞬く月が姿を現したのだ。
月光を受けて瑠璃色の眸は煌々と輝いていた。
驚くほど身体が軽い。
閉じた瞼の裏にエドガーが、父が、母が浮かび、そして消えていった。
「レオ、おれはずっと君のそばにいていい?」
冷たい指が頬をなぞる。
いつのまにか零れていた涙を、ヴィルターの手が拭ってくれていたのだ。
そんなことをいちいち聞くなと、レオンハルトはヴィルターに顔を近付ける。
「ずっと一緒だ、俺たちは」
ゆっくりと触れ合う唇。
やわらかい銀の光がふたりに降り注ぐ。
やがて訪れる朝の光は、安らぎの色をしているのだろう。
昼が過ぎて夕焼けの赤が空を染めても、それはきっと優しい緋色に違いない。
すべてを失ったと思っていた。でも、この手には愛が残っていたのだ。
体温を交換しあうように何度も唇を重ね、レオンハルトは愛おしい男の身体を抱きしめた。
そして確信する。
この手を離すことはもうないのだと。
緋色の耽溺~執愛幼馴染と瑠璃色の貴公子~・完
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