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さよなら、緋い闇(2)
「あいつは?」
今さらながらレオンハルトは周囲を見渡した。
黒い影はもう見えない。
ヴィルターを狙う剣から、自分は彼を守ることができたのだろうか。
湖面を覗きこんでも見えるわけがない。
黒い鎧が重りとなって、ダグはあのまま沈んだのだろう。
弟を手にかけた人物という意識は、もうなかった。
ルーカスを想っていただけであれば、彼女の末路はあまりに哀れだ。
それでも──と思う。
「おまえが無事でよかった」
紛うことなき本心である。
レオンハルトはヴィルターの首に腕をまわした。
「よくここが分かったね、レオ」
「だって、ふたりの隠れ家だろう」
「そうだね」という返事は、しかしレオンハルトが戸惑うくらい沈んだものだ。
冷やりとした手も所在なさげに宙をさ迷っている。
あのころのように抱きしめ返してはくれなかった。
「おれはレオを傷つけて、この手で汚した。ただ大切にしたかっただけなのに……」
「ヴィル?」
「君が嫌なら……おれを許せないというなら、もう二度と触れたりしない」
「ヴィ……」
拒絶されているのだろうか。レオンハルトは思う。もしも今この手を離してしまったら、ヴィルターは自分の前から永遠に姿を消してしまうのではないかと。
「俺はお前に汚されてなんかいないよ」
この腕が鎖のように強ければいいのに。
ヴィルターの背に手をまわし、レオンハルトはその胸に顔を埋めた。
「覚えているだろ。ここで初めて会ったときのことを。あのときお前は俺を救ってくれたんだ」
母の形見の指輪を盗んだ罪の意識と、湖の怪談に苛まれていた幼いレオンハルトの心を救ったのはヴィルターだ。
「違うよ、レオ」
ヴィルターが囁く。
虚ろな視線は幼いあのころをさ迷っているのだろうか。
「救ってもらったのは……おれのほうだ」
「何のことだ。俺は何もしていない」
「いや、レオが救ってくれた。レオがおれのことをギュッて抱きしめてくれたとき、女の悲鳴が聞こえなくなったんだ」
ものごころついたときからヴィルターの父と母は言葉も交わさず、夫婦仲はよくなかったという。
父は仕事に出かけ、母は愛人をつくって二人とも家にいない。
自分や妹も、正直誰の子か分からないと使用人たちが言っていたっけ。
両親が顔を合わせたら諍いが始まり、最後は母の金切り声で終わるという日常は幼いヴィルターの心を殺した。
そして母の男遊びが派手になったころ、長男のヴィルターは邪魔とばかりに湖の側の別荘に追いやられたのだ。
少数の使用人と自分だけの暮らしは、むしろ居心地が良かった。
ほどなくして妹と、それから父の友人の子どもも引き取られてくると聞いたが、さして興味も湧かない。
夕陽に染まる湖を眺め、風の音を聞く日々。
そんななか、幼いヴィルターの耳に女の声が聞こえたのだ。
初めそれは、耳の奥にこびりついた母の金切り声だと思った。
しかし朝な夕な、声は次第に大きくなっていって、最後は耳元で叫ぶようになったのだ。
このまま自分は正気を失ってしまうのか。
それならそれで構わない──そう思っていたときのこと。
湖の孤島でひとりの少年に出会った。
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