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【終章】さよなら、緋い闇(1)
心臓のかたちをした指輪が、胸元で軽やかな音をたてる。
幼いころ、母の墓から盗んだ指輪。
あの後すぐに、家が落ち着いたとレオンハルトはクラインの屋敷に戻された。
怒られるとは分かっていた。
恐る恐る指輪を返したら、父はにっこり笑って頭を撫でてくれたのだ。
ほっとするというより、幼いレオンハルトは父を蝕む哀しみの深さに胸を痛める。
母の死後、父の笑顔を見たのはあのときだけであった。
二年前その父が死に、指輪は再びレオンハルトの元へ戻る。
そして、それはすぐに弟エドガーの手に渡された。
悲しみの縁にいる弟に、父と母の思い出が寄り添ってくれますようにと。
大事なものだろ。おれはいらねぇよ。兄貴が持っていろよ──なんて生意気な口を利く弟の頭を、レオンハルトはあのときの父のように撫でてやったっけ。
そして、心の中でこう続ける。
指輪や思い出なんてなくたって俺は大丈夫だ。
だって俺にはお前がいる。それに、あいつもいてくれるから。
※ ※ ※
「ヴィル……」
暗闇が徐々に緋色に侵食される。
震える睫毛ごしに見えるのは血のような髪の色。
レオンハルトにとって、実に見慣れた色彩だ。
その向こうから射す夕焼けの赤い光に、再び閉じられる瞼。
「レオ……目を開けてくれ、レオ」
名を呼ぶ声に今度こそ意識がはっきり戻ったのは、腕に痛みがともなったからだ。
「痛っ……」
そういえばダグの剣が掠めたっけ。
袖が裂かれ、皮膚に赤い筋が走った。
思いのほか血が流れた記憶がある。
あるいは、水に落ちたことで傷が広がったのかもしれない。
ドクン。ドクン。
波打つ心臓の鼓動に、レオンハルトはようやく状況を理解した。
「……この音は俺の? それとお前のか?」
「レオ、気付いたのか!」
目の前でヴィルターの顔が歪められた。
これは安堵の表情であろう。
「君があのまま湖に沈んでしまったらどうしようと……。このまま目を開いてくれなかったらどうしようと……」
「何言ってるんだよ、ヴィル」
赤く染まる湖のほとりで、レオンハルトはヴィルターの腕の中にいた。
腕にはハンカチが巻かれている。
深い傷ではない。傷口を圧迫すればすぐに血は止まるだろう。
レオンハルトが薄く笑ったのは、緋色の眼差しが涙に潤んでいるからだ。
大袈裟だなと、そっと手を伸ばし髪に触れる。
「オレのほうが怖かった。ここに来たら湖が真っ赤になっていて。もしかしたらお前は死んでるんじゃないかと思った」
「……レオのために死ぬなら構わない」
大真面目な顔で何てことを言うんだと、レオンハルトは赤毛をこずいた。
ヴィルターの視線がゆっくりと動く。
緋色の眼差しはどこか虚ろだ。
聞こえないはずの悲鳴が、今も耳の奥で響いているのだろうか。
「……くしゅん!」
髪から服から、滴を垂らしながらブルリと身を震わせるレオンハルト。
ヴィルターが上着を脱いでかけてくれようとするのを手で制した。
空気は乾燥している。
湖面を泳ぐ夏の風に、服などすぐ乾くだろう。
緋の色に染まる湖は今やシン……と沈んでいる。
先ほどの争いなど嘘のような静けさだ。
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