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第1話

 ベッドの上に横になった男を見下ろしながら、斉木 柊一(さいき しゅういち)はその下肢の間に膝をついた。  慣れたホテルの一室。毎週の、見慣れた光景――のはずだった。 「この斉木課長の姿も見納めかあ」  斉木の下で、男――藤井 陸(ふじい りく)は場違いに朗らかな声で言った。愛嬌に満ちた大きな二重の瞳が、斉木のワイシャツの襟元から鎖骨、胸、腰のラインへと視線を這わせていく。  斉木は眉根を険しく寄せた。 「無駄口を叩くな。最後の夜だろうと『契約』は順守しろ」  藤井は軽く笑う。 「そうでした、失礼しました」  少しも反省していない口調だった。無造作な前髪の隙間から覗く整った顔立ちには、相変わらず人懐っこい笑みが浮かんでいる。  そんな藤井を睨み付けながら、あらためて斉木はシャツの袖を捲った。丁寧に、きっちり三回。  几帳面に整えた髪には一筋の乱れもなく、メタルフレームの眼鏡が冷たく光る。触れさせる気など最初からない、そんな一片の隙もない佇まいのまま、藤井のスラックスに手を伸ばす。しかしベルトに指をかけたとき、ふと手が止まった。  ――最後の夜。  先刻自分で口にした言葉が、脳裏をよぎる。いつもと同じ動作のはずなのに、指先が微かに震えているのを自覚し、一度きつく握り込む。なぜ動揺しているのか。  そもそもこれは、斉木自身が提案した『契約』に過ぎなかった。週に一度、セフレとして行為をする。感情の持ち込みは一切禁止。、互いの連絡は契約に関する事項のみ。ただ行為だけを行う、明確なルールに基づいた関係。大手コンサルタント会社の法務部課長として、完璧なリスク管理に基づいた関係のはずだった。  そして藤井は、契約相手として申し分なかった。斉木より五つ下の、マネジメント部のホープ。甘いルックスと明るく快活な人柄に加え、機知に富み頭の回転も速い。「余計な勘違い」をすることなく従順に、契約を守ることを――斉木に従うことの意味を十全に理解している、「使える」男。  そのはずだったのに。 『明日で終わりにします』  短いメッセージが届いたのは昨夜のことだ。契約に関する事項以外の連絡を禁じていたからこそ、その一文が持つ意味は明白だった。藤井からの、明白な契約破棄の通告だ。  思い出すだけで、心臓が喉元にせり上がるような不快な動揺が斉木の胸をかき乱す。あり得ない。何の理由があって。  バックルを外す指が震え、小さな金属音が響く。 「斉木課長?」  藤井の声が笑っている。弾かれたように視線を上げてきつく藤井を睨む。 「此方を見るなと言ったはずだ」 「はいはい」  これも「契約」で規定した一文だ。行為中、不必要に顔や肢体を見ないこと。ただ、今のように藤井はその規定を破りがちではあった。  解いたベルトをベッドの外に放る。  下着をずらし、藤井の性器を事務的な手付きで引き摺り出す。見慣れた形と温度に指を這わせ、唇を寄せる。先端に口付け、亀頭に舌先を這わせる。  常人ならば淫らな行為と呼ぶのだろう。しかし斉木にとって、これは血流を促すための業務上の工程に過ぎない。指も舌も、機械のように正確に、藤井のそれを勃起させるという「タスク」をこなす。これまで何度も繰り返してきた動き。そのはず、なのに。  ――明日で終わりにします。  短い文面が、脳裏にまとわりついて離れない。  単なる契約の終了だ。感情など介在しない。ならば、最後のこの夜を、いつものように斉木自身が主導して完結させる。それでいい、それだけの話だ。  そう思えば思うほど、漏れる吐息が震え、幹に這う指がぎこちなく引き攣る。震えを、強張りを、無視しようとすればするほど、身体の感覚が遠のいていく。いつもなら意のままに操れるはずの指も舌も、まるで他人のもののようにぎこちない。 「なんか焦ってません? せっかく『最後の夜』なのに」  藤井の笑み交じりの声は、最初と変わらず場違いに朗らかだ。しかしその声音よりも、「最後の夜」という単語に、斉木の肩が跳ねる。視線を上げると、また藤井と視線が合った。見るな、と言ったはずなのに。 「――気のせいだ」  押し殺した声で答え、再び顔を伏せる。自分の唾液で濡れた幹に指を絡め、先端を口唇に含んだ。境界を確かめるように、傘の縁にも丹念に舌を滑らせ、唾液で濡らしていく。 「……でも、最初はびっくりしましたよ。あの法務部が誇るスーパーエリートの斉木課長から、直々にセフレ契約を持ちかけられるなんて」  斉木は答えない。答える必要を認めないし、そもそもそれどころではない。含んだ先端を窄めた唇で吸い上げながら、飴をしゃぶるように舐め回す。勃起する兆しすらないことが、これほど焦りを生むことを斉木は初めて思い知った。 「今日はお疲れモードですか? いつもみたいにもっと効率よくお願いしますよ」  いつもならここで藤井が勃起し、その上に斉木が自らを解して跨る。そうして斉木の主導権が確立されるはずだった。だが、今夜は違った。藤井の身体は反応するどころか、まるで斉木の動きを試すように静かなままだ。 「疲れているのはお前のほうじゃないのか。無駄口を叩いてないで、さっさと勃たせろ」  掠れた吐息を漏らし、斉木は一度身体を起こした。舌が疲れてしまっている。 「無駄口、ね」  藤井は薄く笑った。鼻で笑い飛ばすように。斉木には普段決して向けられることのない類の、嘲るような笑い。 「私語も前戯も愛撫も禁止。斉木さんがやりたいようにやらせる。俺はただ丸太みたいに寝っ転がって、勃たせて、斉木さんの中で出すだけでいい。そういう契約でしたね」  藤井は薄い笑みを貼り付けたまま、斉木を見上げていた。 「後腐れなく性欲を解消したい。でもディルドやバイブは嫌だ。自分より年齢も立場も下の、勘違いしそうにない、そこそこ話が通じる社内の同性を『使う』のが一番都合がいい。――そう思ってるんでしょ?」  額に滲む汗を指先で拭いながら、藤井の視線を無表情に受け止める。藤井の言うとおり、行為中にこんな話をすることは「契約」では認めていない。なのに、なぜ止めないのか。自分で自分の反応を説明できず、斉木の鼓動は密かに律動を速めていく。 「だから俺を選んでくれた」  藤井の手が伸びた。手首を優しく取られる。  反射的に振り解こうとして、斉木は、びくりと全身を強張らせた。  目の前にあるのは、見慣れたはずの軽薄な笑み。だが、その瞳は違った。斉木だけをまっすぐに見据え、射抜く――獲物を狙う猛禽の瞳だ。  動揺を皮膚の下一枚に押し殺し、冷然と答える。 「無駄口を叩くな、と言っている。最後だからと言って調子に乗るな」  今度こそ手首を振り解こうとする。  しかし、藤井は離さなかった。熱い掌。長い指が手首に食い込む。 「――俺に、そんな口聞いていいと思ってるんですか?」

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