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第7話
あたたかい。
身体に優しく触れるそれが何か、すぐには判別がつかなかった。
ゆっくりと肌を滑る柔らかい感触。ぼんやりと意識が浮上する。
額から頬を拭ったそれが、首を、肩を、丁寧に滑り降りていく。誰かが自分の身体を拭いているのだと、遅れて理解した。
薄く開いた視界はぼやけていた。眼鏡がない。自分がベッドに仰向けに寝かされていて、その隣に誰かが座って自分を清めているらしいことはわかった。
身体を動かそうとして、諦めた。どこもかしこも怠い。自分のものではないように重い。
ぼんやりとした視界の中で、誰かの顔が近づいてくる。眼鏡なしでもそれが誰かは自明だ。
焦点が合う。藤井は、にっこりと笑った。心底幸福そうに、まるで恋人に微笑みかけるように。
「よかった。おはようございます、柊一さん」
――そんな呼び方、許した覚えはない。
否定しようとしたが、声が出なかった。声帯すら、本来の用途を放棄しているらしい。
ふざけるな、と吐き捨てる代わりに視線だけで応えた。
すると、ほんのわずか藤井の瞳が細められた。
斉木は小さく息を飲んだ。その瞳の奥に灯る、獲物を前にした猛禽の光。全身が強張る。
タオルを放り捨てた藤井の指先が、斉木の鎖骨のラインを辿った。鉛のように指一本動かせなかったはずの身体が、反射的にびくりと小さく跳ねる。ただそれだけの刺激で、同時に腰に落ちる甘い感覚。上擦る吐息。
一瞬ですべてが蘇る。
先刻までの地獄のような快楽。自分のものだったはずの身体が、快感と支配に蕩けて崩れ落ちていった感覚。何度も何度も、限界のその先に追いやられた記憶。
――もういやだ。
呼吸が浅くなる。身体の奥から震えが這い上がってくる。目を逸らしたいのに逸らせない。大きく瞠った瞳がわななく。
「大丈夫ですよ。柊一さん」
ふわり、と優しい笑みが戻る。
静かに顔が近づく。ちゅ、と甘い音と共に贈られるキス。抵抗など無意味だった。
「もう『契約』なんかいりません。俺がちゃんと、柊一さんを大事にしてあげますから」
繰り返し唇を啄まれる。斉木は、焦点の合わない瞳でぼんやりと藤井を映す。熱い掌に頬を包まれても、もうぴくりとも反応しなかった。
「ねえ、陸って呼んでください」
笑いたくなった。バカらしい。恋人同士でもあるまいし。藤井と重なったままの唇が奇妙に歪む。
「――柊一さん?」
藤井が唇を離した。視線を向けてくるのがわかる。笑いそうになったことがバレただろうか。また、恐怖が蘇りそうになる。その瞳を見返すことすら、今の斉木には恐ろしい。そして、思い知る。こんな些細な視線にすら怯える自分が、どうやって逃げられるというのか。
最初から選択肢など存在しなかったのだ。
「……り、く」
返した声は、みっともなく掠れ、空調音にかき消されそうなほど細かった。自分でも聞いたことがない声。一体どれだけ声を上げたのか。
「…陸」
もう少しはっきりとした声でもう一度呼び直す。
その瞬間、藤井が嬉しそうに斉木を抱きしめる。全身を包む、優しい腕。
「好きです。柊一さん」
返された声は幸福に満ちていた。斉木を抱き締める腕はあたたかい。その熱も、執着も、甘さも全部、本物なのだろう。
何もかもが滑稽だ。
天井を見上げたまま、斉木は小さく息を吐いた。
この腕の温もりに、いずれ自分から縋ってしまう日が来ることを、まだ彼は知らない。
<了>
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