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Chapter.1-2
「――ごめんね」
突然公園内に吹き荒んだ突風に乗ってマサミチの言葉が冬榴の耳に届く。心臓を直接握り込まれているような衝撃に咄嗟の言葉が何も出てこない。
「な……」
「本当は年上の俺が先に言わないといけないことだったのに」
マサミチは掴まれていない片腕を冬榴の腰へ回して抱き寄せる。衣服越しにお互いの身体が密着し、触れた箇所から直接鼓動の高まりを悟られてしまいそうだった。
これは期待してしまっても良いのか、仕事上がりの疲れから見ている幻ではないのだろうか。黒い前髪が翳を射すマサミチの顔を冬榴は不安そうに見上げる。マサミチは冬榴を見下ろし優しく笑みを浮かべていた。
毎日同じことを繰り返すだけのファミリーレストランでのアルバイト。特に生活費に困っている訳でも無かったが、社会勉強の体で出てきているので親戚の厚意に甘えて何もしない訳にもいかなかった。そんな日々の中、マサミチとの出会いだけが冬榴にとって人生を変えるような出来事だった。余裕のある落ち着いた男性で、その器量から決してモテない訳ではないので女の影がチラつくことも無かった。
マサミチは掴んでいる冬榴の手ごと片手を上げ、その指先にちゅっと音を立てて口付ける。ちらりと向けられた視線にどきりと冬榴は心が射抜かれるのを感じた。
「――一目惚れ、なんて安易な言葉は使いたくないけど、ランチタイムにワンオペでひとり頑張る君の姿を見ている内に、俺は」
マサミチの言葉よりも大きく、心臓の音が冬榴の中で大きく鳴り響く。それは冬榴にとっては初めての経験であり、少しずつ成長していたその感情を的確に表現する言葉を冬榴はまだ知らなかった。
びくりと冬榴の身体が飛び跳ねたのは、ズボンの尻ポケットに入れていたスマートフォンが突然着信を示す振動をしたからだった。目の前にいるマサミチだけに意識を集中させていた冬榴は突然起こった着信の知らせに口から心臓が飛び出る程驚きを隠すことが出来なかった。
「あ、ま、マサミチさん、ちょっ、待って。スマホが……」
指先に口付けられ妖艶な視線を向けられ、まるで石になる魔法を掛けられたように硬直していた冬榴だったが、突然その呪いが解けたように現実へ引き戻されるとマサミチの腕からすり抜け尻ポケットからスマートフォンを取り出す。
今も振動を続けるそのスマートフォンは液晶画面に発信者である春杜の名前が表示されており、その下に赤と緑の丸いボタンが並ぶ。冬榴の番号を知っており尚且つ電話を掛けてくる相手など元々同居人である春杜以外有り得なかったが、マサミチとの緊張を伴うシチュエーションの中突然掛けられてきた着信は冬榴の処理能力を上回るのに十分で、どちらのボタンを押せば良いのかも分からないままあたふたとスマートフォンに向き合いながら無意識のままマサミチへ背中を向ける。
背後からすっと伸びてきたマサミチの手は液晶画面に表示される緑色のボタンを迷うことなく押し、冬榴は驚いてマサミチを振り返る。
『――もしもし、トオル?』
スマートフォンからははっきりと春杜の声が聞こえてきながら、冬榴はマサミチから目を逸らすことが出来なかった。マサミチは人差し指を自らの唇の前に立て、通話に応答するようジェスチャーで冬榴に知らせる。
マサミチの目の前で人からの着信に出ることは冬榴の気が咎めたが、着信を受けてしまっている時点で何かしらの応答を返さなければ春杜におかしく思われてしまう。冬榴はほんの少しだけマサミチに頭を下げるとそのままスマートフォンを耳に当てる。
「ハ、ハルトさん?」
『バイト、もう終わった時間だろう?』
「うん――」
共に暮らしているからには冬榴のアルバイトのシフトを春杜が知っていてもおかしい事では無かった。特に冬榴が直接春杜に教えなくとも、春杜にはそれを知る手段も別にあった。
『今ヒロの家に居るからさ、迎えに来なよ』
「えっ」
春杜がヒロと称した人物紘臣は今春杜が付き合っている恋人であり、冬榴と同じファミリーレストランでアルバイトをしている仲間でもあった。そもそも春杜と紘臣が付き合う切っ掛けになったのもどこかで冬榴と春杜が連れ立って歩いているのを見た紘臣が冬榴に頭を下げて春杜を紹介して貰ったことが発端となる。
紘臣が春杜に惚れるのも仕方ないと考える冬榴だったが、お互いにとってそれが何番目の恋人になるのか冬榴は数えるのも億劫だった。それでも余程二人の相性が良かったのか、下世話なことは余り考えたくない冬榴だったが、冬榴の知る限り紘臣とは長く続いている方だと思う。
紘臣も同じファミリーレストランでアルバイトをしているということもあり、自宅はアルバイト先から近いところにあったが、冬榴が春杜と暮らすマンションとは真反対の位置にあった。
店でも注意喚起をされている程最近は通り魔やら変質者が出没すると言われている中、暗い夜道を春杜一人で帰らせることはしたくなかったが、もうあと僅かでマンションに到着するという状況である上マサミチと春杜を対面させたくないという気持ちも先行し冬榴は葛藤する。
それでも、冬榴の中に春杜からの頼みを断るという選択肢は存在していなかった。
「――分かった。これから行くから」
液晶画面に映し出される通話時間を見ながら冬榴は眉間に皺を寄せて溜息を吐く。マサミチだって毎回送ってくれる訳ではない。この時間は唯一無二のものであるのに、春杜を優先してしまうのは冬榴の悲しいサガだった。これで断ろうものなら後で根掘り葉掘り理由を問われ、芋づる式にマサミチの存在が露呈しかねない。
「ごめんなさいマサミチさん。俺、ハルトさ――親戚を迎えに行かないといけなくなって」
スマートフォンを再び尻ポケットに戻した冬榴は事情を説明する為に振り返ろうとする。しかしそれより僅かに早くふわりと暖かいものに身が包まれた。それがマサミチに抱き締められているのだと冬榴が気付いたのはもうワンテンポ後のことだった。
「〝行かせたくない〟って言ったらトオルくんを困らせてしまうかな」
「――ッ!?」
冬榴は状況が呑み込めず、ただ驚きに似た声を上げた。本当は冬榴もマサミチとの時間を優先したい、こんな時にどういった行動を取るのが正解なのか分からない冬榴は行く宛のない両腕をマサミチの背中へと回す。
大きくて広い背中は正に大人の男性そのものといった感じでスーツを掴むのが精一杯の冬榴は自らが赤面し耳まで赤くしていることに気付いていなかった。
ちらりと視界に入った冬榴の耳が街灯の少ない夜の公園でも分かる程に赤いと気付いたマサミチの目元が思わず綻ぶ。
「もう少し……一緒に居たいから、目的地まで送らせて貰ってもいいかな?」
通り魔が出るからなどという口実はもうそこにはなく、ただ自分がそうしたいからとマサミチは少し掠れた低い声で冬榴の赤い耳へ囁いた。
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