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一、樒

真っ青な空に、白い入道雲。蝉の声。しおれたアサガオの花。アスファルトの上には、陽炎が立ち上っている。 「あっちーな、クソッ」 コンビニを出た途端、思わず言ってしまうほどだった。 散髪に行くタイミングを逃し続け、後ろの毛が肩につくほど伸びて、首に熱がこもっている。 前髪もカチューシャで上げてはいるが、セルフブリーチも最近できていないから、プリン状態。しかもカラメル部分がかなり多い感じに。 タバコを咥えて火を着け、歩き出した瞬間、頭の上まで昇った太陽が、額から足の指先まで容赦なく照り付けてくる。 風も、涼めそうな日陰や木陰もほとんどない。Tシャツにハーパン、サンダルでも、とにかく蒸し暑い、盆休みの昼過ぎ。 気温は連日30度超えの真夏日で、いつものタバコが不味くなって、メンソールに変えていた。 ハーパンのポケットには、サイフとスマホと残り2本になったタバコ。片手には、いまさっきのコンビニの袋。中身は、男2人分の昼メシと缶ビールと新しいタバコ。 その建物が近付くにつれて、男の喘ぎ声と、何かを打つような音が聞こえてくる。空手の突き稽古みたいに、聞こえなくもない。 出処は、古い木造アパートの2階だ。見上げると、転落防止柵の付いた窓が開いている。 すぐ上の物干し竿には、高そうな水色の浴衣と紺色の帯が掛かっていて、中は見えないが。 誰も苦情を言わないのが不思議なくらいだ。 取り壊しが決まった今もまだ、他の部屋には確かに人が住んでいるはずだが、この殺人的な暑さで参っていて、いちいち外に出たくもないのかも知れない。 俺だってこの用事が無かったら、まだ引っ越しの片付けも終わっていない部屋で、クーラーをガンガンに効かせて、ゴロゴロしていたに決まってる。 田舎のじーちゃんに知れたら「ずくなし」とかドヤされそうだが、何せ今日は10連休の最終日、8月19日の日曜日だ。 ブロック塀で仕切られた建物を回り込み、側溝にタバコを捨てて、アパートの敷地内に入る。 入り口近くに生えたヒマワリは、少し前まで腰までの高さしかなかったのに、いつの間にか181センチの俺よりデカくなっていた。 自生したのか、誰かが植えているのかも知らない。大家は別の場所に住んでいて、手入れをしているのも見た事がない。 世間では平成も終わると言うのに、ここは相変わらず絵にかいたような昭和の物件だ。 レトロと言えば聞こえはいいが、築44年ともなれば話は別だ。耐震基準も防音対策もヘッタクレもない。 風呂トイレ共同とか、何なら銭湯通いでも不思議はない見た目だから、ユニットバスが付いているだけで充分だと思ったのを覚えている。 藤沢市や海老名市と隣接している割に、聞いた事のなかった綾瀬市なんて地名も、今となっては住み慣れた町だ。 最近は、「あやせ」の名前を付けた“菜速”トウモロコシがスーパーに並び出した。メロンと同じくらい甘いらしい。 学生の頃に住んでいた都内に比べて、外国人が多いのも住みやすいからなのかも知れない。 この建物は家賃相場よりも安かったし、当時は安定して続ける仕事がやっと決まったところで、とにかく固定費を安く抑えたかった。その職場も、やや遠いものの、徒歩圏内にある。 ひとまず、郵便受けを覗く。 何も入っていないのを確認してから、鉄の階段を上がった。サンダルでも、カンカンカンと聞き慣れた音がする。 薄くホコリの積もった手すりを触ればヤケドしそうだ。 2階の廊下はトタン屋根の下で、風通しも悪く、むあっとした空気が充満していた。 こんな場所に6年も住んでいたなんて、今となっては、自分の事ながら信じられない。 声は、1番奥の部屋からしていた。 木戸の横には洗濯機が置いたままになっている。 六畳間に、板張りの台所スペースと、ユニットバスがついているだけの、室内に洗濯機を置く事もできなかった狭い部屋だ。 一応、鍵も持ってきたが、必要なさそうだった。 戸を開けると、案の定、2人の男が汗まみれで“事”に及んでいた。 1人は知り合いで、もう1人は知らない。 「何だ、まーたあんたの喘ぎ声だったわけ。空手の稽古でもしてんのかと思った」 あえて大声で、こんな風に言う俺も俺だ。 あの人を止められる方法なんかないのは、もう分かってる。でも、言わずにはいられない。 知り合いじゃない方が驚いて振り向いた。どこが良くてこんな男と寝ようと思うのか俺には分からない、ハゲて中年太りしたオッサンだ。 オッサンは俺を見てますますビックリしたらしく、動きを止めてしまう。 黄色に近い金髪で、ヒゲもちゃんと剃っていない、ケンカ筋肉の上に脂肪の乗った、レスラー体型の男が急に現れたら、そうなるのも仕方ない。 俺はむりと興味無さそうに手を振ってやった。 「あーいいから。俺のことは気にしないで。続けて続けて」 土間でサンダルを脱いで部屋に上がり、一人暮らし用の冷蔵庫を開ける。中には、2リットルの麦茶のペットボトルしか入っていない。 そこへ、買ってきたパックのもり蕎麦を避難させた。 仕方なく続けるのが横目に見えて、音も、声も、また聞こえ出した。 「あっ、ああっ、あんっ!」 致している所を見てしまえば、もう稽古には聞こえない。甘ったるくて、男を興奮させる声だ。 続けるのかよ。思いはしたが、口には出さない。 いちいち言ってもどうせキリがないし、あのオッサンがいつから居るのか知らないが、もう中途半端な所で終わらせられる感じでもないのだろう。 古い給湯器の付いたシンクとコンロ台しかない台所スペースの板間は、歩くだけでギシギシ鳴る。 昭和の平均身長に合わせて作られた低いシンクに座るように腰を預け、ビールを開けて飲んだ。 こめかみが痛くなるほどキンキンに冷えた感触と苦味が喉を通って、生き返った感じがする。 すぐに達したらしく、オッサンはそろそろ服を着ながら、ちらちら横目に俺を見てきた。 「何? 何か言いてーことあんすか?」 聞き返しただけで、ビビられているのが分かる。 何も言って来ないが、見た目で判断してヤンキーだのガラが悪いだの言われるのも、俺はすっかり慣れている。 この部屋には、俺よりもっとタチの悪そうな、髪が緑色の、本物のヤンキーがいた事もあるが。 オッサンは玄関から出ていきながら、気まずそうに会釈してきた。 「はいはい、ゴクローさんです」 俺もテキトーにあしらう。 何の会釈か分からないが、顔を直接見たら殴ってしまいそうだった。 戸が閉まったのを見送り、ベッドに視線を向けると、組み敷かれていたその人は汗を拭って、乱れた浴衣を直していた。 夏なのに肌は真っ白で、真ん中で分けた前髪と眉毛と睫毛が黒くて、鼻筋がつんと通っている。 立った身長は俺より少し低いだけだが、長い手脚も、浴衣から出た首も、帯を巻いた腰も女の人みたいに細い。筋肉も脂肪も、申し訳程度にしか付いていないような体型だ。 「マジで懲りねー男だな。外まで丸聞こえ」 俺が言うと、ベッドの上で膝を抱える。 「……目が合っただけだ。向こうから上がってきた」 この人の言っていることが事実なのは分かる。 ちょうど、後ろにある窓が開いている。 窓枠から出るように座って、柵にうつかって外を眺めていたか、浴衣を干していたか。 そうしたらたまたま、さっきのオッサンと目が合って、オッサンは俺が通ってきたルートを通って、この部屋まで来たのだ。 半分くらいになったビールと、麦茶を注いだコップを持って行った。 エアコンは嫌いだと言っていたが、この暑い中でもあんな事をするなんて、うだっても仕方ない。汗をかいて、脱水症状になられたら困る。 近寄ると、肌は赤っぽいし、顔も火照って、黒い目に光が入っていた。 それを見て、自分を棚に上げることしか言えない。 「あんまり派手な事されると困るんすよ。ただでさえ出てった俺がウロウロしてんのも変なのに。噂が立って、そういう店とか、俺までソッチの人間だと思われたら」 この人をここに閉じ込めているのも、通っているのも、俺の意思なのに。 「だから、勝手に上がってきただけだと言ってるじゃないか」 「わざわざご丁寧に鍵開けたんだろって言ってんすよ。誘ったんでしょどうせ。何のために俺が通ってると思ってんすか」 いまだに俺は、この人との距離感が掴めない。年上だから敬語の方がいいのか、親族だしタメ語でもいいのか。 冷たいコップを顔に当ててやると、きゅっと目を瞑った。 柳みたいな眉毛というのは、この人みたいなのを言うらしい。眉骨が張った俺には手入れしたって似合わない、すっきりした細い眉毛だ。 目の形も、俺は、一重の方が男らしくて良いと思っている。世間の風潮的に、二重の人間が言うと嫌味に取られるから黙っているだけで。 この人みたいに、目尻が切れ長で、ちょっと伏し目がちになるだけで色気が出るような目元だったら、歩いているだけでメンチ切ってるとケンカを売られる事もないはずだ。 それから、細くて白い手でそのコップを受け取って、一気に飲み干す。 片手で掴めそうなくらい細長い首の中で喉仏が動くのを見て、男なんだと思わずにはいられない。 俺もベッドに座って、ビールを一気に流し込む。 休みとは言え、真夏の昼間から酒を飲むなんて贅沢は、この人が来なければ味わえなかった。蕎麦もタバコもビールも、この人から受け取った金で買った物だ。 「私に欲情しない男なんていないんだ」 飲み干したら、自分で置くんじゃなく、俺にコップを返してくる。顔の火照りが一瞬で引いて、目元も暗くなり始めていた。 「ああ、そうね……」 俺はビールの缶とまとめてちゃぶ台に置いた。 着たばっかりの浴衣の(えり)を掴んで引き寄せる。至近距離まで顔が近付く。 この人は、そうされるのにもう慣れっこだった。俺だけじゃなく、色んな人から、もっといきなり、もっと色んな事をされている。 「他の男に抱かれる私を見て、欲情したんだろう?」 陰の差した目元で俺を見上げて言ってくる。薄墨みたいな色の瞳に、全部お見通しだった。 「分かってんなら言わなくていいすよ、お古のくせに」 言い返すのが精一杯だった。 本当は、こんな言葉は使いたくない。でも、イライラしている。この人にも、さっきのオッサンにも、夏の暑さにも。 ケンカみたいに胸倉を持ったまま、キスした。麦茶でひんやりした舌が唇を割って入ってくる。 自分の体なのに、思い通りに動かなくなる。でも、そうしたくて仕方ない俺も居る。 さっきのオッサンのお古。色んな男の人の使いさし。血が繋がった親類縁者と穴兄弟。 そして、この人自体も、俺と血が繋がってる。 いくら頭で繰り返しても、シャワーを浴びるのすら待っていられなかった。 俺も、そこら辺の男と同じで、この人に狂わされている。

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