9 / 9

九、遺書(完)

その日の帰り、ゲリラ豪雨に遭った。 まさにバケツをひっくり返したような雨と、雷まで鳴り響いている。 俺はちょうど、晩メシを買ってスーパーから出たところだったから、すぐ引き返してビニール傘を買った。 こんな中で外に出ている事自体おかしいような降り方だが、俺にはやるべき事がある。 自転車のカゴにカバーをかけて、ずぶ濡れになって帰りを急ぐ、お母さん方と同じように。 ずぶ濡れで帰った俺を、どんな顔で迎えてくれるだろうか。どれくらい労ってくれるだろうか。 俺の恋人になったばっかりの、名前の無い、あの人は。 サンダルを1歩踏む度に、グショッと水が飛び出して、足の裏にゴムの貼りつく不快な感覚がする。 足の爪を割るという名誉の負傷から、今日でちょうど1週間。包帯が取れていて、まだ良かった。 アパートにたどり着いたら、まずはシャワーを浴びようと思った。槐さんが乱入して来ても、それはそれで構わない。 ブロック塀で仕切られた建物を回り込み、アパートの敷地内に入る。 入り口近くに生えたヒマワリは、水溜まりの中で枯れていた。茶色く変色し、下を向いているのが視界の端に見えた。 手すりも鉄の階段も濡れている。滑らないように気を付けながら昇る。 もう、スーパーの袋にも水が入っているかも知れない。買った食事は無事なんだろうか。 やっと廊下に入って、傘を畳んだ。 頭の上ではトタン屋根がバラバラとうるさい音を立てて、足元では排水溝にゴミが詰まってゴボゴボと溢れている。 そこで初めて、男の喘ぎ声と、何かを打つような音が聞こえてきた。空手の突き稽古みたいに、聞こえなくもない。 信じられなかった。そんなはずがない。耳を疑った。 俺の恋人になったのに、たった1日で、その関係を壊すような人だとは考えられなかったからだ。 戸を開けると、やっぱり、2人の男が汗まみれで“事”に及んでいた。 1人は知り合いで、もう1人は知らない。 でも、その知り合いの方も、一瞬、知らない人に見えた。 部屋の中は暗くて、見慣れた黒髪ではなく金髪で、浴衣でもなくTシャツを着ていたから。 しかも、覆いかぶさっているのも金髪の男だった。 染めているんじゃなく、生まれつきの、本物の金髪なのが薄暗い中でも分かる。 体つきも、日本人じゃなさそうだ。 俺の力では、勝てないかも知れないと思った。 けれど、それで引き下がれるわけじゃない。 これまでなら見て見ぬふりもできた。わざと嫌味を言う程度で、殴りたくなるのも、耐えようと思えば耐えられた。今はもう無理だ。 何も言わず、部屋に上がった。 全身ずぶ濡れで、スーパーの袋もその場に落とした。 床に落ちている浴衣の中から帯を拾う。 ゲリラ豪雨で、急いで、干していたのを取り込んだところらしい。その時に偶然、外を歩いていたこの男と、目が合ったのかも知れない。そこからは、いつも通りのパターンだろう。 この人にかかれば、相手の年齢も、国籍も、人種も関係ない。 男であれば誰でもいいし、男であれば誰でも、この人に吸い寄せられるのは仕方ない。 けれど、俺はそれを許した覚えはない。 俺以外の男がこの人に触る事も、この人が触らせる事も。何ひとつ許せない。 腸が煮えくり返るというのは、多分こういう感覚だ。 後ろから男の首に帯を回して、両端を掴んでひっつり上げた。 男の肩越しに、槐さんと目が合った。 光の入った黒目で、赤くなった顔で、見上げていたのは、俺じゃない。 俺は、底抜けのバカだ。 目が合っただけの男を部屋に上げて、股を開くような人だと知っていたのに。 いや、だからこそ、恋人になりたかったんだ。 そうすれば、他の男の相手をしなくなると思ったから。ここにいる短い間だけでも、俺だけの物にできると思ったから。 男が俺に気付いて、何か言いながら、苦しそうに呻くのが聞こえる。 冗談じゃない。いちばん苦しいのは俺だ。 何とか槐さんから離れさせるように、ベッドから引きずり下ろした。 男がもがいて、首元に手を伸ばして、食い込む帯を外そうとしている。日本語だろうと外国語だろうと聞き取れない。 相手の背も俺より高いのが分かった。これを離してしまえば、そのまま反撃される。そうなったらひとたまりも無い。 槐さんが男の下から這いずり出して、床に転がった。 「忠義くん、何をして……!」 細くて熱くなった体で俺の脚に取りすがってくる。 やめてくれ、と言っているのは聞こえる。 もっと焦れよ。せめて、浮気現場を見られた時の彼女くらい。 みっともなく慌てて、取り乱して、これは違う、そういうんじゃない、と説得力の欠片もない言い訳くらいしてくれ。 それくらいでないと、俺の立場が無い。 「しゃらうるせえ! 外人のデカマラがそんな良かったかよクソビッチ! お前は俺のモンだろうが! 向こう行ってろ!」 槐さんに向かって怒鳴りつけた。 もう、誰に腹を立てればいいのか分からない。 どうするべきかも分からない。 ただ、絶対に手を離せない事は確かだ。 それなら、首を絞め続けるしかない。例え相手が死んでも。 いや、むしろ殺してやる。 俺の部屋に勝手に入って、俺の恋人に手を出した。それなりの報いは受けるべきだ。日本人だろうが、外国人だろうが、関係ない。 視界の端でバタバタと槐さんが動いて、風呂場の方に走っていったのが分かった。 やっと俺の言うことを聞いて、避難する気になったらしい。 槐さんが俺にしていたように、帯の端を手首に巻き付けて、ぎりぎり絞め上げる。さらに自分の膝で男の背中を押していた。 男の耳が赤くなり、こめかみに血管が浮いているのが、風呂場からの明かりで見える。苦しそうな声も聞こえて、舌を吐き出しているのが分かる。 大丈夫。この体勢なら、俺がやり返される事は無い。 そう思っていたのに、明かりに影が差した。 槐さんが戻ってきた。 白い手が視界の端から伸びてくる。手に握り締めた何かを、俺の握っている帯に当てるのが見えた。 バツンッ! と、一気に裂けてちぎれる。 両腕に込めていた力をいきなり抜かれて、俺は後ろに倒れた。踏ん張っている事もできずに尻もちをついてしまった。 何が起こったのか理解するまで少しかかった。 帯が切れたらしい。 外で滝のように降り続いている雨の音が、また聞こえるようになる。 いつから聞こえなくなっていたのか。こんなにうるさいのに。 相手の男もその場に倒れて咳き込んだが、俺が立ち上がる前に、部屋から飛んで逃げ出した。 そばにいた槐さんまで突き飛ばして、玄関に靴も残したまま。 「馬鹿野郎!」 言ったのは槐さんの方だった。 あの逃げていった男じゃなく、俺に言っているらしい。 細長い体が、ゆらっと立ち上がる。少し乱れた金髪で、Tシャツとハーパンも昨日のままだ。 次の瞬間、雷が落ちた。窓の外が真っ白に、フラッシュみたいにビカビカ光る。 手の先に、長いカミソリを持っているのが見えた。いつも風呂場で見ていたやつだ。 あれで、帯に切れ目を入れたらしい。普通に考えて、帯が簡単にちぎれるはずがない。 「人殺しになる気か! 正気の沙汰じゃない!」 怒鳴りつけてくる槐さんに、俺は静かに言い返すしかなかった。 「ああそうだよ……俺もう、とっくに正気じゃない。あんたも知ってんだろ。あんたがこうしたんだ、あんたが俺を狂わせたんだよ」 頭の先から足までびしょ濡れで、顔に流れてくる。 尋常じゃない汗をかいていた。体は冷たいのに、腹の中が吐きそうなほど熱い。 馬鹿野郎でも人殺しでも何でもいいから、今からでも、さっきの男を追いかけたい。追いかけて行って、今度こそ殺してやりたい。 それなのに、もうどこに行ったか分からない。 何もかも手遅れだ。取り返しが付かない。情けないやら、悔しいやらで泣きたくなった。 「じゃあ私を殺せ」 槐さんは、はっきりそう言った。 俺は、その顔を見上げるしかなかった。聞き間違いかと、聞き返す事すらできなかった。 また雷が光って、槐さんの顔の半分を真っ白に照らす。 「君が憎むべきは私だ。男なら、怒りを向ける相手を間違えるな」 柳みたいな眉毛を釣り上げて怒っていた槐さんの調子が、いつもの、感情のない声に戻ってくる。 「あんなどこの馬の骨とも知らない男より、さんざん自分を誑かして、どれだけ腕に抱いても、すり抜けていく私のことが憎いはずだ」 何もかも自分が原因のくせに、他人事みたいに言ってくる。 男に抱かれている時以外、葬式みたいな暗い顔をして、この世の何もかも面白くないという風なこの態度が、俺はずっと嫌いだった。 何と言えばいいのか分からないでいると、あの人はまたいつものように、知った風で言い聞かせてくる。 「これまでの男も、そうだったからな。本多家の男は……私を殺し損ねてきたんだ」 また、昔の男と比べられるように言われて、プライドもズタボロだ。 けど、それで納得がいく。 例えば首を絞め慣れていたのも、自分で人生を歩む事に対しての執着が薄そうなのも。 この人はとっくの昔に、自分の意思で生きる事自体を諦めていたのだ。 狂ってしまった男から、心中しようと言われた事もあるに違いない。下腹の傷も、その誰かから付けられた物だろう。 それを拒みすらしなかった。殺されそうになる事にすら慣れてしまって、死ぬ事自体が、もう怖くない。 他人に想像もつかないような人生を歩んでくれば、何が正常で何が異常なのか、分からなくなっても無理はない。 そんな修羅場をくぐり抜けて来たような人の手綱を、俺が握っていられるはずがない。 俺の思い通りにできるわけがないのだ。この人には、俺の常識なんか通用しない。 恋人になっても、何が変わるわけじゃない。 この人は変えられない。俺の手には負えない。絶対に。 「俺……あんたを殺して、俺も死にたい……」 本心だった。もう何も考えたくない。 いくら無理だと分かっていも、どうしても諦められない。 死んだ後に一緒になれるなら、俺もこの人と、そうしたい。 禁断だの何だの言われ、信頼している仲間から後ろ指を差されてビクビクしながら過ごすのはもう沢山だ。 誰にも、何にも邪魔されない所に、この人とふたりだけで逝きたい。 降り注ぐ雨の音と、雨粒が窓に当たる音がする。 槐さんが目の前に座ってくる。すっと手を出して、頬に触ってきた。 「そうすればいい。それが君の、精一杯の忠義なんだろう」 よく言ったと言わんばかりに、むしろ褒めるようにされた。 確かに今まで、逃げてばっかりの人生で、こんな風に腹を括ったのは初めてだった。 最期に、この決断ができて良かった。 その人は、少しだけ離れたかと思うと、部屋の隅に置いていた風呂敷の中から、別の帯を取り出してすぐ戻ってきた。 「ただ、刃物なんかで傷を付けられるのは嫌だ。できれば、こっちでやってほしい」 「何で……」 聞きながら、受け取るしかなかった。俺の手にはまだ、ちぎれた帯が巻き付いたままだ。 槐さんはふわっと力の抜けた、笑ったような顔で答えてくれた。 「私が誘いを拒んだ試しがあるか?」 俺が、渡された帯を細くて白い首に回している間も、槐さんは落ち着いていた。 「私と心中したがる男も沢山いたし、狂った自分に耐えられずに独りで逝ってしまった男もいる。葬式に呼ばれないのは当然だし、慣れっこなんだ」 俺が手作業をしやすいように顔を上向け、長い睫毛の生えた目を閉じて、話し続けている。 もっとずっと前に聞いておきたかった身の上話。 今さら教えられても、どうしようもないことだ。 「私なんぞの葬式には誰も来たがらないだろうが、忠義くんなら話は別だ」 そんなことを言われても、俺には何とも答えようがない。 今から死ぬのに、死んだ後の事なんかどうだっていい。 どうせ、俺と槐さんの関係を理解してくれるわけでもない奴らだし。 俺が答えずにいると、槐さんは目を開けて見てきた。 「後遺症が残って、今も寝たきりだという話も聞いた。忠義くん、しくじるなよ」 口角なんか、少し上がってさえいる。 「ここで見事に私を殺せば、君は私にとって初めての男だ」 それを聞いて初めて、ガマンできなくなった。 握っていた帯を離して、両腕で体を抱き締めさせてもらった。 ムラムラしなかった。こんなに近付いたのに、他の男に抱かれてる所を見たのに。抱きたいとは、思わなかった。 ただ、このままこの人とずっと一緒にいたいと思っているだけだ。 抱き締めたまま、頭を撫でた。脱色してもツヤツヤしている金髪は、暗い部屋の中にぼんやり光っているように見える。 外に降っている雨の強さも、少しだけマシになった気がする。 もうここから出る事なんかないから、今さら止もうが降り続けようが、関係ないが。 「生まれ変わったら一緒になりましょ。また男同士でも、血が繋がってても……」 2年付き合った和泉にもできなかったプロポーズ。それより重たい言葉すら、あっさりと出てくる。 人が死ぬっていうのは、もっと複雑だと思っていた気がする。 腹を決めてしまえば、こんなに何もかもがすんなりいく。むしろ清々しいくらいの気分だ。 「ずいぶん気の早い男だ」 槐さんは、うんとは言ってくれない。 分かってた。どうにかして俺の物にできるなら、こんな事はしていない。 俺にはもう、こうするしかないんだ。 畳に仰向けになった槐さんに言われるまま、あの人の上にまたがって、両手で帯をひっぱり始めた。 こうするのが一番、力が入るから。 俺なら手でも絞められそうな細い首に、暗い色の帯が巻き付いて、ゆっくり食い込んでいく。 綺麗な顔を見たいけれど、なぜか見られない。目線を上げられずに、首が絞まっていくところばかり見ていた。 「怯えなくていい。そんなに優しくされると、また誘いたくなってしまう」 喉仏が動くから、なかなか上手くできない。 喋らないでください、と言いたかったが、言葉が出てこなかった。 「はっ、はっ……」 口は開くのに、息をするのに精一杯だった。 それどころじゃない。 手に力が入り過ぎて、震えている。こめかみから汗が流れてくる。 きっちり絞まったのをさらにひっぱっていく。 ぎりぎりと音がするようになって、白い手が、俺の腕を掴んできた。 「がっ……、あっ、ぐ……」 さっきまでツヤのある声を出していた所から、汚くて、聞き苦しい音が漏れる。人の声とは思えない。 聞きたくない。こんなのは、俺の知っている槐さんじゃない。 視界の端に、チカッと赤い光が見えた。 それに気を取られて、集中が切れてしまった。 遠くの方から、何かが近付いてくる音がしている。 アパートの前での道だろう。 待て。俺は今、どこにいるんだ。 雷とは別の、赤い光がまた見えた。床に横たわった槐さんの顔をなぞるようにしていく。 雨が窓ガラスを滑り落ちる、波みたいな影と一緒に。 何だこれは。どういう状況なんだ。何で俺は、槐さんの上にいるんだ。 人間の危機感をわざと煽るような、サイレンが鳴っている。どんどん近付いてくるのが分かる。 消防車か、救急車か、パトカーか……。 やばい。 まず最初に思ったのはそれだった。 それまで何を考えていたのか、思い出せなくなった。 我に返るというのは、こういう事なのかも知れない。何処かから、生き返って戻ってきた感じがした。 ふと気が付いたら、俺は帯を持って、槐さんの首を絞めていた。 自分が何をしようとしているか理解した瞬間、冷静になった。体の内側で、頭の先から下へ向かって血の気が引いていくのを感じる。 「え、槐さん……、俺……」 もう、できない。手が震えて、帯の1本すら握っていられない。 何と言おうか迷った瞬間、槐さんの目がまっすぐに見てくるのと目が合った。 ふっと、それまであった目の輝きが消えた。 「私に嘘をついたな」 冷たい声だった。これまで生きてきて、聞いた事もないほど。 「私しか要らないと言ったのに……。今、ほかの事が気になったのは、の事を、この後の人生を考えていたからだ」 違うとは、言えなかった。 腰が引けて、何も言わず逃げるように姿勢を起こす。 赤い光が、アパートの窓枠に反射して、目を突き刺してきた。 表情の消えた槐さんが、自分の首から帯を外して、起き上がる。 見ている俺から目を背けて、床にべったり座り込み、帯を握った拳ごと、畳に叩き付けた。 バン! ピシャッ! と鋭い音がした。 「私が疎ましかったんだろう! 君も皆と同じ、私を捨てる気だったんだ!」 槐さんが叫んだ。 びりびりっと部屋中に響くような声で、俺は動けなくなってしまった。 あの人は何度も畳を殴り付けて、叫び続ける。髪で目元が隠れて、歯をむき出して叫ぶ口しか見えない。 「私を殺して、本当は自分だけ、逃げる気だったんじゃないか! そうだろう!」 雷が落ちた。また、雨が強くなって来た。 違う。それだけは違う。絶対に。 俺は槐さんと死ぬつもりだった。すぐに後を追って、生まれ変わって一緒になりたかった。 言いたいのに、声が出てこない。 槐さんが立ち上がって、俺の胸倉を両手で掴んで立たせてくる。この細い腕の、細い体のどこに隠していたのか、強い力だった。 「違うとは言わせないぞ! もう……もう沢山だ! 君は今までの男以下の、忠義の欠片も無いやつだ!」 怒鳴り付けてくる槐さんの、表情が見えない。 けど、どこかで見た事がある気がした。 窓からサイレンが聞こえて、通過していく赤いランプの光が入ってきた。 前髪の隙間から、睨みつけている目が見える。 暗い中で、金髪の隙間に赤い目をして、口を大きく開けて、俺に襲いかかってくる……。 これは夢で見た、吸血鬼の槐さんだ。 俺も両手で槐さんの肩を掴んで止めようとした。 「ちがっ、違います! 俺は本気で──」 「うるさいっ! 触るな!」 泣き叫ぶような高い声を上げて、両腕で突き放そうとしてくる。 俺の手が押さえている骨格は男のものだし、力も強い。 今まで力の入っていない人形のように面白くなさそうな顔をしていたり、ふわっと力の抜けた穏やかな顔で笑ったりしてきたのと、同じ人だとは思えない。 これは夢かも知れない。いや、夢じゃない。夢だったら良かったのに。 暴れる槐さんの踵が、俺の右足に落ちた。 どん! と踏まれて、激痛が走る。 まだ柔らかい爪が生えてきたばかりの親指を思い切り踏まれて、声も出ない。 思わず手を放してしまった。 その場にうずくまると、槐さんの素足が飛んでくるのが見えた。 体の中で、ミシッという何かが軋む音がする。息ができなくなった。 何が起こったのか分からなかった。 正面から、胸を踏み抜くように蹴られたらしい。 そう理解する時には、俺は後ろに倒れる形で尻もちをついて、胸を押さえていた。 「かっ……、はあっ、はあっ……!」 肺も苦しいし、右足も、熱を持ったようにズキンズキン痛む。 揉み合ううちに、はずみで踏まれたんじゃないと分かった。その人は、むりと俺の足を狙ったのだ。 「私を、ひとりに!」 槐さんは服の上から自分を抱き締めて、首を振った。自分以外、誰もいらないと言う風に。 俺は胸を押さえ、片足を引きずって何とか立ち上がった。 どうしてこんな事になってしまったのか分からない。体がふらふらする。 土間のサンダルを突っ掛けて、そこから逃げた。 槐さんが、望んだから。 どしゃ降りの中、アパートが見えなくなる所まで夢中で走っていたが、ついに息が切れて、足を止めた。もつれて、倒れそうになる。 何とか踏ん張り、膝に手を突いて、ぜえぜえと息をした。 出てくる時は必死だったから、傘の事なんか頭に無かった。 もう全身ずぶ濡れで、その場にうずくまりたくなる。 まだ、もっと、遠ざからなければ。あの人をひとりにしなければ。 今はとにかく、俺はあの人の近くに居るべきじゃない。 その意識だけで、サンダルを引きずって歩き出す。あれだけ頭に血が上っていたのに、今は熱が奪われて、指先まで冷たかった。 何も考えずしばらく歩いて、やっと、マンションが見えてきた。 早く部屋に戻って倒れ込みたい。 そう思いながら、無意識に癖で、ポケットを触っていた。 その瞬間、血の気が引いた。 スマホが無い。 思わず立ち止まって、来た方向を振り返った。 どこかで落としたのだ。今までこんな事は1回も無かったのに、よりによって、こんな豪雨の中で。 どうやって探せばいい。 酸欠状態の頭を必死に回転させる。そもそも、いつから無かったのか、思い出そうと。 少なくとも、アパートに行く前はあったはずだ。 もう1度、全部のポケットを触った。サイフと、タバコはある。 確かにこのハーパンのポケットは浅いが、走って落ちる角度じゃない。しゃがんだり、座ったりするでもなければ……。 そこで、思い当たる事があった。 「……ああ」 もう、引き返せない。 諦めてまた、マンションに歩き出す。 もし、そうじゃないとしても、どうせ槐さんから連絡が来る事はない。 これ以上、何か考える力も残っていない。 誰かから連絡があっても、今は対応できる精神状態じゃない。 マンションのエントランスに、人影が見えた。長い髪の、女だ。 誰かを待っているのか、自動ドアの所にずっと突っ立って、様子をうかがうように中を見ている。 このマンションの住民では、ないらしい。 不審者だとしても、通報もする気になれない。今の俺にはスマホも無いし。 もちろん挨拶すらできる状態ではない。 頭から足まで、川に落ちたみたいにずぶ濡れだ。両手で髪をかき上げる動作をしてから、すっかり短くしたのを思い出した。 エントランスの空調が、ますます体を冷やしてくる。 「いーすか、そこ」 後ろから脅すように低い声で言って、女の前に体を割り込ませる。相手の反応なんか気にしていられない。邪魔な位置に立っている方が悪い。 住民用のキーカードをサイフごと当てて、自動ドアを解除した。 一瞬、同時に入られてしまうかと思ったが、女は動かなかった。 すぐそこにあるエレベーターを待っている間も、髪や顎から水滴が落ちて、背中にはじっとりした視線を感じる。 なんすか、と振り返りそうになって、奥歯を噛んだ。 これ以上の面倒事は御免だ。他人に構っている場合じゃない。 エレベーターに乗ってボタンを押す拍子に、目が合った。 思っていたより若い女だ。 見覚えがある気もしたが、誰かは分からなかった。 部屋に着くなり、濡れたまま、床のタオルケットに潜り込んだ。電気も、エアコンも点けず、頭まですっぽり隠れる。 引っ越してから何日間こうして床で寝ているのかも、もう数えなくなった。 組み立て途中で放置しているベッドには、うっすらホコリが溜まっているほどだ。 自分の生活が疎かになるほど、俺はあの人に狂っていた。 「はっ……、はっ……、はっ……」 胸の痛みはないのに、息が苦しかった。冷や汗がだらだら出てくる。 もう寒くもないのに、ずっと震えている。目が回って、口が乾いて、吐き気もする。 葬式があったばかりで、また2人も、一族から死人を出したら。 あの人は、槐さんという男は、本当に居なかった事にされてしまう。 俺だけは死ぬまで憶えておこうと思っていたのに、他の誰でもない、俺のせいで。 かーちゃんとオヤジは、人殺しの親になる。息子が、血の繋がった男に入れ込んで、心中した。 そんなの、親戚中からどんな目で見られるか分かったものじゃない。男を誑かす男より、もっと、ずっと……。 工場の皆、うどん屋の家族、元カノは、同級生や友達は、どうなるだろう。 自分と縁のある中に、男に狂って心中したやつがいたと知ったら……。 また、サイレンが聞こえてきた。 人間の危機感をわざと煽るような、サイレンが鳴っている。 赤い光と、床に横たわった槐さんの顔が、目に焼き付いている。 頭の上に腕を回して、布団をかぶり直す。 「ううっ」 もう、どんな音も聞きたくない。 外を走る車の音も、サイレンの音も、犬の鳴き声も、自分の心臓の音も、聞きたくなかった。 俺がサイレンを聴いたから、あの人は狂ってしまったのだ。 無機質に鳴り続けるのが不気味だし、こうして音に意識を持っていかれている事自体が恐かった。 何が起こるか分からなくて。 スマホが無いから、時間も分からない。 この時間が、永遠に続く気がした。 俺は、いつの間にか眠っていたらしい。 カーテンすら開けたままにして、うっすら明るくなった空が見えた。あれほど降っていた雨は、もう止んでいた。 床で寝て体じゅうが痛いのも、タバコのせいで胃が気持ち悪いのも、毎朝の事だ。 起き上がって部屋の中を見る。 玄関の方から俺のいる位置まで、足跡らしき物が続いている。泥水が乾いたような、汚い跡だ。 「へっくしょ! ……あー」 くしゃみが出て、寒気がした。 やっと、昨日どんな風に帰って来たか思い出した。 スマホが無くても、テレビはある。昨日の俺は、そんな事すら考え付かなかったらしい。 点けてみると、朝の5時だった。 普段より2時間も早く起きてしまったが、こんな有り様で二度寝をする気にはなれない。 8月28日火曜日。 ニュースでは、記録的な猛暑と、昨日のゲリラ豪雨の被害を伝えている。 それ以外のラインナップは、闘病中だった漫画家の死去、政治家の活動費不正受給、新宿駅でアルミ缶が爆発……。 どれも、俺には関係が無い。 昨日、俺が人を殺しかけた事は、あの外国人の男と、槐さんしか知らない。 その後、俺と槐さんが心中しかけた事なんて、無かったも同然だ。 ひとまず、シャワーを浴びる事にした。 服を着替えて、床を拭いて、このタオルケットも洗濯機に入れる。 ほとんど寝た気がしないが、それくらいはできる。 時間は早いが、いつもそうしているのと同じ動きで、シャワーを浴びた。 頭の中が空っぽになって、そこでようやく、思い出した。 昨日、エントランスに立っていたのは、元カノの和泉だった。 謎が解けてすっきりする。が、すぐに頭から追い出したくなった。 前は事ある毎に考えていたのに、今はむしろ、不気味だった。 全部終わったはずだ。 何の用事があって俺の前に現れたのか。確かにエレベーター越しに目も合った。声はかけて来なかった。 俺だと気が付かなかったのか、俺のあまりの変わりように、声も掛けられなかったのか。 いずれにしても、俺は槐さん以外の人間に、かまけている余裕なんか無いのだが。 風呂から上がると、点けっぱなしにしていたテレビでは、またニュースコーナーが流れていた。 それを聞きながら、バスタオルを肩からかけ、下着1枚で床を拭く。 国民的人気アニメの原作者、乳がんで死去。 川崎・自転車スマホの死亡事故、元女子大生に有罪判決。 自称僧侶の男、妻子を殺害し遺体を切断。 千葉・車5台が絡む事故、トラック運転手が死亡。 いつでもどこでも、誰かが死んでいる。 ニュースで取り上げられるのは、ほんのひと握り。普段は意識していないだけで、人が死ぬというのは、意外と身近で、簡単に起こる事らしい。 時期は人によってバラバラで、死に方も、普通は選べない。 ただ、どんなに人気者でも、救いようのないクズでも、同じように、いつかは死んで灰になるのだ。 Tシャツを着て、新しいタバコを取ってベランダに出た。灰皿は室外機の上に置いてある。 ちょうど日が昇ってきたくらいの時間らしい。昨日の豪雨が嘘みたいに晴れている。 タバコを吸いながら、ベランダの手すりに寄りかかって、景色を見た。まだ見慣れていない、新しい場所だ。 俺は、生きている。なぜか、そう感じた。 朝焼けは方角的に見えないし、そんなもので感動できるほど、俺は純粋な人間ではない。 ただ、あの人と会ってからの間、俺はずっと心のどこかで、イヅ美さんの葬式のことを思い出していた気がする。いや、思い出さずには、いられなかったと言うべきだ。 香典に書かれた薄墨みたいな瞳、喪服みたいな黒と白の髪と肌、走馬灯みたいな色の浴衣、線香を思い出させるお香の匂い。 それから、強ばった表情と力の入っていない体、この世のすべてを悟って、絶望しているかのような態度……。 葬式がきっかけで出会ったあの人は、確かにそこに生きているのに、人が死んだ時と同じ色をしていたから。 煙を吐ききり、タバコを灰皿に押し潰した。 「ふー……。よしっ」 気合いを入れるために一言つぶやく。 俺も、槐さんも、昨日、死に損なった。 それに何らかの意味があるとか、そんな高尚で都合のいい考え方も、俺にはできない。 けど、次に取るべき行動がやっと分かった。 仕事に行く前に、会おうと思った。 もう震えもないし、頭も回るようになっている。 あの人も落ち着いているだろう。 一晩。お互いに頭を冷やすには充分な時間だ。改めて話し合えば、何か変わるかも知れない。 何より、これを解決してからじゃないと、今度は怪我どころじゃ済まなくなる。あの人のことで頭がいっぱいになった俺が、別の形で死にそうだ。 あの人が居なくなるまで、8月が終わるまで、今日を入れて、あと4日しかない。 明け方の空は、薄い青色。蝉の声。アサガオの花も咲いている。 新聞配達のバイクや、トラックの音がして、うどん屋からは出汁のいい匂いがした。 普段の俺が寝ている時間帯でも、この町は動き出している。自分以外にも起きている人が居て、それぞれに仕事を頑張っている。 それを実感すると、少し元気が出た。 火を着けたタバコを咥え、歩き続ける。 ハーパンのポケットには、サイフと、開けたばっかりのタバコ。 目指すは、古い木造アパートの2階だ。見上げると、転落防止柵の付いた窓は閉まっていた。 まだ寝ているのかも知れない。 すぐ上の物干し竿にも、何も掛かっていない。 帯を切ってしまったのを思い出す。大事な遺品なのに。 あんな風に誰かと争ったのは、いや、一方的にやって、やられたのはいつぶりだっただろうか。 逃げて行った男が通報しているとは思えない。昨日のサイレンも無関係だったし、俺が職質でもされていればその可能性も考えるのだが、自分の仕出かした事は分かっているのだろう。 それより、槐さんが俺をあっさり裏切った事と、蹴られた事が俺はショックだ。 まだ、若干、肋骨の真ん中辺りが痛い。細いのに意外と強かった。 けれど、もうケンカしている余裕は無い。月末にはきちんとした形で、気持ちよく別れを言いたい。 俺は無意識に、足音を殺して鉄の階段を上がっていた。 起こしても大丈夫だろうか、起きるまで待っていようか。何と話を切り出せばいいのか。 原因があの人の行動でも、それを止められなかった俺も悪い。止められると思っていなかったのに、堪えられずあんな事をしてしまった。 しかも、一緒に死にたいとか、そういうようなことを口走った気がする。記憶は曖昧だが、あの人の首を絞めていたのは事実だ。 まず謝ろうか。と言うか、何について謝ればいいんだ。 まだ、考えはまとまらない。 町は意外と音がして、賑やかなのに、このアパートだけは妙に静かだ。 時間が止まってしまったように、エアコンの室外機の音や、早起きのはずの年寄りの生活音もしない。 木戸の横には洗濯機が置いたままになっている。 どうせ鍵は掛かっていないだろう。寝ている間に誰かに襲われる可能性なんか、あの人は考えていない。 むしろ襲いに来た相手すら、それが男だったら、歓迎するかも知れない。 昨日見た様子がまた頭に浮かんでくる。 男に組み敷かれる槐さんを、俺はこの部屋で何回見たんだろうか。そんな人でも、恋人にしたくて仕方なかった。 もちろん今は、喘ぎ声は聞こえないから、そんなはずはない。 それでも、取っ手をつかむのすら、躊躇してしまう。もう、あんなのは見たくない。 考えを振り払うように頭を振って、吐き捨てる。 「クソッ!」 取っ手をぐっと握り込み、一気に戸を開けた。 薄暗い部屋は、もぬけの殻だった。 俺は信じられず、声を出した。 「……は?」 自分の呼吸が震えているのが分かる。 この部屋に、誰もいないなんて事がありえるのか。 外に出ないように言ったのに。いつも俺が来るのを、帰ってくるのを、待っているはずなのに。 槐さんが、どこにもいない。 部屋の隅に置いていた風呂敷も、履いてきた雪駄も、俺のTシャツとハーパンも、全部なくなっていた。 ちゃぶ台、冷蔵庫、ベッドだけが、捨てられるのを待っているように、六畳間にある。 ひとまず土間に上がり、戸を閉めた瞬間、ふらっと足から力が抜けた。 畳に膝を折って、呼びかける。 「槐……さん?」 喉が詰まったようになっていた。細い声でしか呼べない。 槐さんなんて人は、初めから存在しなかったのかも知れない。 そう思ってしまうほど、昨日まで確かにそこにあったはずの、存在感自体が消えていた。 また、おかしな夢でも見ているのかも知れない。 どっちが夢かは分からないが。 槐さんがいたのが夢なのか。いなくなったのが夢なのか。 どっちにしろ、覚めるなら覚めてほしい。覚めないなら、こんな虚しいだけの夢は見たくない。 片付いた部屋の中で、ぽつんと目を引く物があった。 ちゃぶ台の上に、俺のスマホと、渡していた鍵と、メモ帳とボールペンが置いてあった。きちんと並べられていた。 忠義様 例の方が予定より早く会いたくなったと、迎えに車を回してくれました。 突然でご挨拶もできず、申し訳ありません。 預けていたお金はもう私には必要ないので、貰ってください。 お世話になりました。さようなら。 槐 残っていたのは、たったそれだけ。 何度読み返しても、書かれている内容は変わらない。何枚めくってみても、それより後ろは白紙。 初めて見たあの人の字は、習字の手本のように綺麗だった。 文字は読めるのに、悔しさやら虚しさやらが襲ってきて、文章の意味を理解できない。 いや、したくない。 こんなのは、認めたくない。 あの人が置いて行った、手紙と呼んでいいかも怪しい、たった数行。 メールでも、チャットでも、ダイレクトメッセージでもない。ボールペンで紙に書かれた、礼儀正しくて、感情の読めない、俺のことをどう思っているのかも教えてくれなかった、あの人らしい文章。 どうせ、走り書きしただけだ。綺麗な字だが、丁寧に書こうとなんかしていないし、俺に対しての気持ちではなく、社交辞令でしかない。 俺に割く時間すら、急いでいるあの人には惜しかった。こんな風に環境が変わるのも、別れも、慣れっこなのだ。 どうして俺ばっかり、こんなに心が潰されるような気持ちにされなければならないのか。 視界の端に、何かがチカチカ光っているのが見えた。 スマホのランプが点滅していた。夜の間に着信があったらしい。 メモ帳を片手に持ったまま、その場に膝を突いて、すがり付くように手を伸ばす。 不在着信1件。 そんな表示が目に入った。 相手は、和泉ではなかった。公衆電話からでもなかった。 非通知で、誰か分からなかった。 もしかしなくとも、槐さんだ。根拠は無いが、そう感じた。それ以外に考えられなかった。 迎えに来たとか言う相手か、その運転手のスマホでも借りたのだろう。 最後の最後に、俺に連絡をしようとしてくれていた。 けれど俺は、あの人と争った挙げ句、スマホをここに置いて行った。 最後に声を聞けたかも知れないのに。何か話せたはずなのに。 だんだん、目の焦点がかすんでくる。文字がぼやけて、見ていられなくなった。 全身の力が抜けて、座り込んだ。 ちゃぶ台の下に足を投げ出し、後ろに手を突いて、ぼんやりと天井を見上げる。これ以上、下に向いているのは無理だと思った。 もう、動けなかった。 今まで俺を動かしていたらしい、何かをする意思や気力が、ごっそり無くなった。 カーテンの隙間から、朝日が差し込んで来ている。 消えた灰色の蛍光灯。これを見上げていたのは、いつも槐さんとやっている時だった。 「ふ……」 せっかく上に向いたのに、止められなかった。 涙と、嗚咽が溢れてくる。 「うっ、ひっく……ぐっ、うう……」 30にもなって、こんなにイカつい、大の男が、失恋で泣くか。鼻水まで垂らして。 相手は年上で社会経験もない、血の繋がった男。絶対に好きになってはいけない、好きになる方がおかしい。 頭の中でそう繰り返しても、もう手遅れだった。 分かりやすく涙が出てくれたお陰で、槐さんが俺の恋人ではなくなった事、もう二度と会えない事まで実感できる。 もし、電話に出ていたところで、昨日の夜のあんな状態で、別れの挨拶なんて気持ちよくできたとは思えない。 かと言って、引き留めて俺のものにしておくなんてできないとは、初めから決まっていた。 こうなったら、もう認めるしかない。 俺にはそれだけの力も無ければ、甲斐性も無い。女1人どころか、男1人すら、幸せにはできなかった。 怒りはなかった。 それに、こんなに涙が出てくるのは、どうやら悔しさや、虚しさだけでもないと自覚した。 俺は槐さんが居なくなった事自体が、何より悲しいし、寂しいのだ。 好きだったから。あの人に、惚れていたから。 槐さんが来て色んな面を持つようになったこのアパートも、もうすぐ無くなる。 そんな部屋の中で、気が済むまで泣いたら、少しだけすっきりした気分にもなれた。 これで良かったんだ。そう思えるようになった。 俺は殺人犯にならずに済んだし、家族も泥沼事件に巻き込まずに済んだ。 槐さんも生きている。 俺にとっては、それが1番大切な事だ。あの人が誰の物になろうが、どこかで、無事で、生きていてくればいい。 ただ、整理できないのは俺の気持ちと、もう覚えるほど読み返した文章の違和感だけ。 走り書きにしろ、気持ちがこもっていないにしろ、それだけでは片付けられない、異常さみたいなものを感じずにはいられない。 槐さんの置き手紙は、なぜか遺書みたいに見えた。 これは、また会おうと思えば会えるような、単なる失恋とは違う。 もう二度と会えない。(うしな)ったのと同じだ。 俺をあれだけ狂わせた恋人は、人が死んだ時と同じ色をしていたあの人は、死んでしまったも同然だった。

ともだちにシェアしよう!