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八、喪服

中学生の頃に初めて彼女が出来た日の夜は、これからの事が楽しみで、1人であれこれ想像して、浮かれて、眠れなかった記憶がある。 それに比べれば、今の俺は落ち着いている。 見た目を変えてしまっても、生い立ちを知っても、槐さんへの気持ちは変わらなかった。 俺が夢中になったのは、あの人の見た目でも、理解できない性格でもない。それに体だけが欲しかったんでもない。 30年間生きて、なにか理屈では説明できない、人に惹かれるという経験を初めてしていた。 同時に、中学生みたいな、好きという気持ちだけでは一緒になれないとも理解している。 こんな俺でもひと通り遊んで、大人になったらしい。純粋さを失ったとも言えるか。 それでも、問題は1つとして解決していないとは言え、色んな壁を乗り越えたような気分で眠りについた。 ただ、おかしな夢を見た。吸血鬼に襲われる夢だ。 映画で見るような、コウモリの飛ぶ、月の見える西洋っぽい古城に住んで、黒髪のオールバックで、牙を生やした中年のオッサンではないようだった。 もっと若い男だ。しかも髪型も今っぽいし、髪は淡い金色をしている。西洋人にしては俺より少し背が低いくらいの、すうっとした細身だったが、力が強かった。 俺は自分が逃げたいのか、立ち向かいたいのか分からなかった。 ただ、抵抗はしていた。気を抜いたら、首を噛まれ、血を全部吸われて、殺されるという危機感だけはあった。 どこかも分からない場所の、真っ暗で吸い込まれそうな床に、引きずり倒された。 馬乗りになってきて、取っ組み合いになる。並大抵の男に力で負ける気はしなかったが、相手が人間じゃないからなのか、ぎりぎりだった。 その吸血鬼の男は、イメージの通り黒いマントを羽織ってはいたが、その下は燕尾服ではなく、なぜか喪服だった。黒のスーツとネクタイに、白のシャツ。足元までは見ている余裕がない。 暗闇の中に、ぼうっと浮かび上がるように金髪が光っていて、その下に赤い瞳が見える。 目元は涼しく、眉がきりっとしていた。西洋人のはずなのに、彫りも浅い、日本人らしい、整った顔をしている。 その吸血鬼は、槐さんだった。 金髪になって、吸血鬼になった槐さんは、一張羅と呼んだ浴衣と同じ、大きな黒のマントをひるがえして俺を捕まえ、床に押し倒していた。 それから、上にまたがるように乗っかって、首に噛み付こうとしてきたのだ。 たとえフィクションの中であっても、正体不明の化け物というのは怖いはずだが、相手が槐さんだと気付いてからは、逃げようとも、抵抗しようとも思わなくなった。 思い切り噛まれて、ブシャッと血しぶきが上がる。怪我をした時のような鮮血ではなく、燃料オイルみたいな、どす黒い色だった。 痛くはないが、首がどんな状況になっているかは、見えないから分からない。 血まみれになった俺は手足をだらんと伸ばし、顔を埋めた槐さんが、喉を鳴らしてゴクゴク飲むのを聞いていた。吸うんじゃなく、もっと勢いよく、飲まれていたのだ。 背中の方にまで、血溜まりは広がってきた。 「はよござやーす」 出勤して、挨拶をしながらロッカー室を兼ねた休憩室に入るなり、 「えーっ! 勝さん!? どうしたんですかその頭!」 と、賑やかな声が飛んできた。 この五十鈴製作所で一番後輩の浜やんだった。4月に高卒で入社してきたばかりの、まだ18歳だ。 昴が弟なら、浜やんはもう息子に近いのかも知れない。 浜やんは昴と同じく小柄で、マッシュルームカットなのも、ちょこまか動くのもよく似ている。 出っ歯な昴がネズミで、目のギョロっとした浜やんはデメキンといった感じだ。 掃除用具を持ったまま、2人して俺の両脇に駆け寄ってくる。 「どうしたんですか? 失恋したんですか?」 「バッカ、この人最近フラれたばっかだぞ! 失礼だろ!」 昴が先輩風を吹かせて言ったので、 「今のはお前の方が失礼だからな」 と、指を差して、釘も刺しておいた。 もちろん冗談なのは伝わってくる。 こんなことをわざわざ言うからには、何か意図があるらしい。 「あ、じゃあそろそろコッチの心配してですか。確かに、ずっと真っ金々(キンキン)でしたもんね」 浜やんが自分の頭を前から後ろに撫でるようにする。 「それ日野さんの前で言えんの?」 俺はロッカーを開け、ポケットのサイフとスマホを放り込みながら言った。 「聞こえてるよ、勝」 声がして振り向くと、鼻の高さにツルツルのスキンヘッドがあった。 日野さんが両手を腰に宛てて、仁王立ちになって俺を見上げていた。頭も体も手足もぽっちゃりと丸く、色白で、膨らんだ餅みたいな人だ。 「あっ。おはようございます……コラ、お前ら何てこと言ってんだ!」 先輩に挨拶をしてから、後輩になすり付けるようにする。すかさず2人が反論してくる。 「えーっ! 今のは完全に勝さんが言ったんでしょ!」 「そうッス! オレら悪くないんで! おはようございます日野さん!」 昴が俺の脇から顔を出して日野さんに挨拶をし、浜やんもそれにならう。 「はいはい、おはよう、おはよう。勝は後で廊下ね」 日野さんも挨拶を返して、俺にそう言った。もちろんこれも冗談だと分かる。 日野さんから見れば、俺はちょうどひと回り下だ。俺にとっての浜やんのような感覚なのだろう。 6年前に入社した時に「勝」というニックネームを付け、唯一の後輩だと言って目をかけてくれた。バツイチになってからは、寂しいからと言う名目だが、よく飲みに誘ってくれる。 一番世話になっている先輩だから、こんな冗談も言い合える。 並んでロッカーを開けて、作業服に着替え始めた。 「それで、髪の毛どうしたの? 失恋?」 浜やんと同じ事を聞かれたが、何となく自虐っぽい言い回しだ。 「別に何でもねっす。傷んでたもんで、バッサリ切っただけ。あちーですし」 聞き付けた昴が、割って入るようにしてくる。 「そうそう。失恋したのは浜やんッス」 それは聞き捨てならない。 「何? 浜やん失恋したの?」 浜やんは確か、俺くらい年上の女性と付き合っていたはずだ。 途端に、浜やんは大袈裟にシュンと落ち込んで、大きいため息をついた。 「はあー……聞いてくれます?」 話したいんだろ、と言いかけたが、黙っておいた。 浜やんの話によると、相手は隣町に住んでいる年上の女性だった。 25日の花火大会を、自分の職場の近くだから一緒に見ようと誘ったが、断られてしまった。なので、高校時代の仲間と集まって会場に行った。 するとそこに、相手の女性が来ていた。浴衣を着て、同い年くらいの男と、小さい子供を連れて。 コンビニの肌着が売り切れるほど、イイ思いをする男がいる一方で、浜やんのように傷を負った男もいる。 あの花火大会の夜、そしてその翌日、どこで何をしていたのかなんて、俺は色んな意味で絶対に言えない。 「……本物の愛って何なんでしょう?」 18歳で悩むにしては、ずいぶん壮大なテーマだった。 俺は日野さんと顔を見合わせてから、首を傾げた。 「さあ、俺にはちょっと」 「私も」 失恋したばかりという事になっている俺と、バツイチの日野さんには、答えようがない。 「けど、まあ、良かったじゃねーか? 不倫って気付けて。そのままいったら泥沼だったぞ」 元気付けるつもりで言ったのだが、急に、浜やんが怒り出した。 「何ですか自分はイイ思いしたくせに!」 ギクッとした。絶対にバレていないはずなのに。 言い訳を考えつくより先に、浜やんが責め立ててくる。 「その頭だってどうせ結婚の挨拶行くからとかでしょ! 何ですか和泉さんとヨリ戻したんですか! ちゃんとしたヤツに見られたいからって、そんなコテサキの小細工して……!」 実は、相当抱えていたらしい。爆発したみたいに、八つ当たりでキレられてしまった。 珍しい事ではないが、浜やんにはたまに、こういう時がある。なぜそうなるのかという解釈に決め付け、発作のように目をむいて、刃物を振り回しそうな剣幕で怒るのだ。 力で勝てそうなので恐くはないが、実際にカッターナイフでも出されたらどうなるかとは思う。 昴が後ろから抱きつくみたいに浜やんを押さえた。 「はい、そう! 松田さん来たらっ! 松田さん来たら、聞いてみような!」 頼みの綱は、既婚者で2児の父で、昭和のトレンディドラマに出て来そうな男前なのに愛妻家の、松田さんしかいなかった。 良いタイミングで、工場の外から、キッ、と自転車の音がした。 「噂をすれば……」 と日野さんが安心したように言う。 松田さんに違いない。下の子を保育園に送ってから出勤してくるのだ。 「もう今ドキ、死体とかじゃビビらないですよね」 昼休憩になり、話題は、浜やんの聞いてきた“本物の愛”から、“禁断の愛”へと変わっていた。 愛妻家で通っている松田さんが、ふざけて不倫は文化だとか言ったせいで、意見が割れてしまった。 休憩室のコの字型に並んだソファーに座り、全員で昼を食べながら、不倫は純愛なのか、禁断だからこそ燃えるのか、そんなことを、ひとしきり話していた。 そこで、浜やんが言い出したのだ。 今どきの、俺以上にインターネットに馴染んだ世代は、昴以上にネットで変な知識を手に入れたらしい。 「し、死体……?」 俺の隣に座った日野さんが、恐がったように聞き返した。 休憩室の席は暗黙の了解で、鈴木の爺さんから年齢順に2人ずつ、時計回りに決まっていた。 真ん中のソファーは1番身長があってごつい俺と、1番ぽっちゃりして横幅のある日野さんが使うのだが、もう少し何とかしてもらってもいいような気はする。 浜やんは一番扉に近い端の席に座っていた。 「えっ、知らないんですか?」 さっきキレた事も、失恋した事すらも忘れたかのようにケロッとして聞き返している。 「死体とやるって意味か?」 俺が聞くと、 「ははは、いやいや、それはありがちすぎ! 日本でもとっくの昔にサイコキラーがやらかしたりしてるんで!」 何がおかしいのか、ケラケラ笑いながら答えた。 ありがちの基準がおかしいが、いちいち指摘していたらキリがない。 昴も時々恐いことを言うものの、それは冷めたような、諦めたような態度で、浜やんの場合は、それこそサイコな発想に片足を突っ込んだ感じだ。 平成生まれとひと口に言っても、少し種類が違う。 それに、俺と2人の時はあんな感じの昴でも、後輩がいると少し態度が違う。 「海外だと死んだ人とも結婚できるし、子供作れるんスよ」 こんな風に、危なげがない感じに補足するに留まっている。 「それはネタだろ。ゴタこいてんじゃねーぞ?」 信じられなくて言うが、昴も昴で譲らない。 「マジです、マジですってば! 科学の進歩ナメちゃいけないッス!」 そんな言い合いをしていると、ローテーブルを挟んで浜やんの向かいに座った鈴木の爺さんが、ぽつりと口を開いた。 「──男同士だな」 また俺は、ギクッとした。分かってる。世間的に見て、今の俺が隠している事がおかしいのは。 まして俺の親戚世代の爺さんにとっては、有り得ないと思われても当然だ。 「うわ。差別」 浜やんがバッサリと言った。 「爺さーん、それは差別ですよー今の時代」 後輩として、早めに来て清掃なんかはしているが、相手が50近く離れた大ベテランだとか、年功序列とかは、あまり関係ない。 去年話題になった忖度という言葉を、浜やんと昴は知らないようだった。言葉の意味は理解できても、それを実行しようという気にならないらしい。 「でもなぁ……どうなのって正直僕も思うな」 爺さんの隣に座った松田さんが助け舟を出しても、 「はい、それ! 自分が既婚者だからって、言っていい事と悪い事があります!」 浜やんは持った箸をその松田さんに向けるだけだ。 隣に座る昴がそれをやんわり下ろさせながら、 「松田さん、どうするんスか? 例えばここにいる、一緒に働いてる勝さんが、本当は男の人しか愛せなかったら?」 と、まるで教えを説くかのように聞いた。 またまた、ギクッとさせられる。 他の人間が偶然口にするのと違って、昴だけは、何かが見えているような気がする。 こんな男所帯の中で、よりによって俺を選んできた。本当に警戒するべきは、こっちなのかも知れない。 昴と浜やんが追い詰めてくる。 「一緒にロッカーで着替えるの嫌がったりするんスか?」 「差別です、差別差別!」 この中では1番若手で体も小柄な2人だが、存在感は強い。 自分たちから見て、間違っているものは間違っている。そう意見したり、指摘したりする事に、ためらいがなかった。 「いや、そんなつもりは……ごめん。|勝《かっ》ちゃん」 なぜか松田さんに謝られる形で、俺も巻き込まれていた。 「そ、そうですよ、やめてください! 俺にも好みってもんがあるんで!」 俺はむりとキレるフリをして言い、今日イチの爆笑をかっさらった。 ひとしきり笑った頃、ずっと硬直していた日野さんが、やっと口を開く。 「……海外だと、いとこはダメって言うよね」 恐がって黙っていたのではなく、色々と考えていたらしい。 「いやいや、ここ日本なんで。それは禁断でも何でもないです」 浜やんがまたバッサリ言って、俺は少しホッとする。血は繋がっていると言っても、いとこより遠い親戚だし、セーフだと思った。 「日野ちゃんもドボンだって」 松田さんが日野さんの腿に手を置き、大袈裟に揺らして笑う。 「でも、名字が一緒って、ちょっと抵抗ない?」 カップの味噌汁を飲んだ拍子に日野さんが言ったから、また、吹き出しそうになった。 顔を離せない。火傷しそうになりながら必死に耐える。 昴の声がする。 「そんなの、僕、誰とも結婚できなくなるじゃないですか。ねぇ、爺さん」 同じ鈴木のよしみで爺さんに話を投げたらしいが、 「昴は、最近いい人いるのか」 爺さんからは実際の親戚みたいに鋭角に打ち返されている。 「いや、うーん、だから……究極、何でもアリじゃないッスかねぇ」 返答に困った昴が、苦しまぎれに話をまとめる。 「禁断とか言っても、その禁じてるのって、所詮その時代を生きてる人間の価値観でしかないんで」 耐え切った俺は、平静を装うように冷やかす。 「……人間以外と? へへっ、動物とか?」 これはさすがに言い返されないはずだ。と思ったら、 「そーのレベルなら全然アリに決まってるじゃないですかー」 浜やんは当然のようにジャッジしてきた。1番若いのに、この場のルールでも作って仕切っているみたいだ。 「お前、さっきから基準おかしいんだよ!」 いちいち言っていたらキリがないと思っていたが、つい大声で言い返していた。 浜やんは嬉しそうに手を上に向けて手招きまでしてくる。 「勝さんも何か出してくださいよ!」 「何かって何だよ!」 「禁断の愛っ! このままじゃ結論無くなっちゃいます!」 「山手線ゲームしてんじゃねーんだぞ!」 そうは言ったが、確かにさっきから俺は、自分の事を隠すのに必死だ。何か言わなければ不自然に思われるかも知れない。 全員の視線が、俺に集中してしまう。 「だからその……、吸血鬼、とか……」 途端に、シラケた空気になってしまった。さっきの爆笑が嘘みたいだ。 昴と浜やんは、何だこのオッサンと言いたげに、冷めた目で見てくる。 「ちょっとー、キャラ考えてくださいよ勝さーん」 「エッフェル塔と結婚した人もいますけど、さすがにファンタジーすぎッス」 松田さんに言わせれば、俺も、ドボンだった。 中堅以上は揃いも揃って、今どきの基準について行けていない。 その時、廊下から人影が現れた。 「おはようさん」 午前中に商工会に行って、午後から来ると言っていた二代目だ。 七三分けのテクノカットで、中背の小太り。鼻の脇に大きなホクロがある以外は、“初代”五十鈴社長の現役時代の写真とそっくりだった。 「残暑見舞いのゼリー頂いたよ。事務所に置いとくからね」 「えーっ! やったー! ありがとうございまーす!」 浜やんが嬉しそうに立ち上がり、社長についていく。 姿は消えたが、声が聞こえてきた。 「ねー、しゃちょー、不倫って文化ですかね?」 「ちょっ! 何聞いてんの!」 昴も弁当を置いて飛び出していった。 工場の紅一点である二代目の奥さんが事務員なので、事務所にいるはずだ。それを聞かれたら社長が気まずくなってしまう。 鈴木の爺さんと日野さんも、若いなと冷やかしながらぞろぞろ出ていく。爺さんは外の喫煙所に、日野さんは事務所に行くはずだ。 俺も一服してから行こうと思い、ロッカーにタバコを取りに行く。 何の気もなく、首に巻いていたタオルを取ろうとした。 その瞬間、グッと後ろから引っ張られた。 「ぐえ」 首が絞まって、変な声が出る。 ぶわっと脳みその中に色んな映像が流れる。昨日、槐さんとしていた事が、一瞬、一瞬、早送りのスライドショーみたいに。 これが、走馬灯のように、というやつだ。 むせながら振り返ると、松田さんがニッコリ笑って、俺のタオルの端を持っていた。 「げほっ……えっ? ちょ、何すか?」 「勝ちゃん新しいコできたでしょ」 今日だけで俺は、何回ギクッとさせられているのだろう。バレるはずがないのに。 喉をさすりながら慌てて否定する。 「はっ? いやいや、まさか! 俺、別れたばっかですし」 「すごいの付いてるよ、後ろ」 そう言われて、初めは何の事か分からなかった。 首に帯の痕なんか残っていないはずだ。自分で引っ掻いた爪の痕は喉仏の脇にあるし。 それでも、松田さんくらいの男ならキスマか傷かの判断くらいは付くはずだ。 けれど、はっと思い出した。 一昨日の夜中、目を覚ますと槐さんが俺にくっ付いていた。あの時だ。 まだ首につくほど長かった金髪の中に、槐さんは鼻や口元を埋めていた。確かに、吸われたり、噛まれたりしている感触があった。 寝ぼけていて、今の今まで忘れていた。 一気に、耳まで熱くなる。 一昨日の夜という事は、散髪に行った時にも、絶対に見られているはずだ。何も言われなかったが。 後ろの部分を確認するために鏡を見せられて、なぜ自分で気が付かなかったのか。 髪を短くしたのも、これを見せびらかすためのように思われてしまう。年甲斐もなく。 裏返った声が出る。 「いやっ、あああの! こっ、これは別にっ、そういうんじゃなくて……!」 両手で首の後ろを押さえて体を反転させた。勢い余って、バン! ガシャン! と背中がロッカーにぶつかる。 言い訳をしようとするが、一向に言葉が出てこない。むしろこんなに分かりやすく焦ってしまっては、そうですと言っているようなもんだ。 焦る俺を見た松田さんが、上を向いて笑った。 「あはは、いいっていいって! 見つけたの僕だけでしょ? しばらくタオル巻いときな。大丈夫だって」 そう言われれば、着替えをしている時は誰からも何も言われなかった。真横で着替えていた日野さんにも、気付きやすい昴にも。 多分、身長の問題だろう。工場の皆は平均かそれより小柄な中で、松田さんだけは俺と同じくらいあるから見えたらしい。 不幸中の幸い……いや、不幸と言うべきかは分からないが。 「吸血鬼ね、いいじゃんいいじゃん。このこのー」 松田さんは明るく言って、肘で突いてきた。 それから廊下の方をうかがった後、少し小声で、 「ちゃんと真剣なんだよね?」 と確認してきた。 そんな事を聞かれるとも思っていなかったので、マヌケな声が出てしまう。 「は、えっ? あっ、それは、まあ……」 「勝っちゃんみたいのってチャラそうに見えて意外と一途だし、女の子取っかえ引っ変えする感じじゃないもんね」 タオルを巻き直し、絶対に見えないよう引っぱってずり上げながら聞き返す。 「それは良い意味ですよね? 俺がモテなそうって事じゃないっすよね?」 そういう意味で言われているのではないのは、伝わってくるが。 松田さんもまた笑って手を振った。 「やだなー、単純に嬉しいんだよ。僕みたいなおじさんは、若い皆の奥さんとか、子供の顔見せてもらうの楽しみなんだから」 奥さんとか子供、という言葉に違和感を感じてしまうのは、やっぱり今の俺がもうおかしいからだ。 槐さんに出会う前なら何とも思わず、良い返事をしていたはずだ。 俺に新しく出来た恋人が男だなんて、松田さんは想像もしていない。いや、そんな発想すら無いのだ。 ついさっき話していた“禁断の愛”を何重にも重ねている男が、同じ職場に、目の前にいるなんて事は、有り得ないんだから。 「年齢的にも、次は勝っちゃんだもんね。でも昴ちゃんと浜ちゃんにも聞かないと」 松田さんは嬉しそうに言って、肩を回しながら事務所の方へと歩いていった。 誰もいなくなったのを確認して、忍び足で扉の近くにある鏡に近付く。 背中を向け、少し屈んでスマホのインカメを起動した。左手で、巻き直したタオルを引き抜き、作業服の襟を倒してみる。 首の後ろには、確かにくろねがあった。 範囲も広いし、キスマと言うよりは、殴られた痕みたいだ。 暗に元ヤンと思われているのは分かっている。こんなイカつい男ならケンカしたと誤解する可能性の方が高いだろうに、松田さんは見抜いてきた。 若い頃はそれこそ女の子を取っかえ引っかえして遊んでいて、家庭を持ったら落ち着いたタイプなんだろうか。 画面を見ながら、背後から殴られた痣みたいなそれを触る。 夢じゃない。金髪でマントを羽織った吸血鬼じゃなく、本物の、まだ黒髪だった槐さんもあの時、俺を食べようとしていたんだろうか。食べてしまいたいと、思ってくれたんだろうか。 だとしたら、もう両想いでいいんじゃないか。 だから告白もオッケーしてくれた。現に、俺はあの人の恋人になっている。 何を心配して、動揺する事があるのか。 血の繋がった、男同士。 それが、どうしたって言うんだ。 昴と浜やんに言わせれば、さっき挙がった“禁断”は全部セーフだった。 ネットに触れていないあの人を、時代に取り残されてると思っていたが、ついて行けなくなり始めているのは俺も同じだ。 誰と付き合おうが、誰かにとやかく言われる筋合いはない。 松田さんに急に聞かれてもそう答えられるほど、俺は、真剣なのだから。 その日の午後は、新しく憶えた情報がずっと頭の中で回っていた。 ふと時計を見たら3時28分だったり、作業で計量した数値が32.8gだったり、停まっていた車のナンバーが・3 28だったり、買おうとした惣菜が328円だったり……、やたらとその数字が目に付いた。 あの人と離れる事になっても、俺はこれから先、こうやって生きていくのだろう。 9月以降の事なんか考えたって仕方ない。それより今、槐さんがいてくれる残りの時間を目いっぱい過ごすしかない。 仕事から帰る時にはそう思っていた。あんなにビクビク、ギクシャクしていたのに、胸を張るように歩いていた。 ただ、この現状を肯定するように思えば思うほど、別の気持ちも強くなってくる。 槐さんと、離れたくない。 たとえ死んだ人間と結婚する事が本当に可能でも、日本の法律ではまず無理だろうし、何より、あの人が俺とそうしたいと思ってくれるかは分からないのだった。

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