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七、死装束
「忠義くんの格好が、してみたかったんだ」
シャワーを浴びた槐さんは、少しオーバーサイズのTシャツの裾を引き下げ、改めて言った。
下はカモフラ柄のハーパンで、その中には青のボクサーを履いているはずだ。
畳を踏む足元はいつも通り裸足で、見慣れているのはそこだけ。
白地のTシャツのフロントには、K-POPアーティストのライブロゴが大きくプリントされている。ハングル文字と英字を組み合わせたデザインだが、ファンでなければ、ライブグッズとは思わないかも知れない。
さっきまでは湿っぽい色気をまとった歌舞伎俳優みたいだった槐さんが、イケイケの韓流スターに変身していた。
一重で切れ長の目元は涼しく、肌には透明感があって、鼻筋が通っているのは変わらない。
ただ髪色を変えるだけで、すっかり別人になってしまった。
もし、俺がライブを観に行ったグループに混ざっていても、客席からは分からないかも知れない。
その人は日本語で言った。
「昨日は忠義くんが私と同じ格好をした。なかなか様になっていたから、今日は私が忠義くんの格好をした所を、忠義くんに見てほしかったんだ」
頼みたい事とは、髪を脱色する事と、俺の服を着てみたいというものだった。
俺は1度家に帰ってから、まず1番傷んでいない服を探した。つい浮かんできた、彼シャツ、という言葉を頭の中で何回も打ち消しながら。
Tシャツは、和泉より前に付き合っていた元カノが大の韓流好きで、ファンだったアーティストのライブに連れて行かれた時に買ったやつだ。ほとんど袖を通さずに置いていた。
引っ越しの時に捨てなかったのは、元カノに未練があったからじゃなく、高かったのを覚えていたからだ。だからこそ普段着にするのも忍びなく、眠らせていた。
カモフラ柄のハーパンはこの夏に最近買ったもので、よくある緑やカーキの入り交じった迷彩の、膝丈ズボン。サイドにもポケットが付いている。
単純に、持っている中では1番新しいからそれにしただけだ。
ボクサーも、持っている中で1番新しい気がするのにした。
下着を貸すのは、俺の方には抵抗もないが、槐さんがどう思うか次第だった。ただ、ハーパンの下がノーパンなのは、いつもの俺の格好ではないから、一応渡す事にした。
その3つと、スマホの充電器と、ラップを、家にあったエコバッグに入れて持ち出した。
散髪を終えた後、ブリーチ剤と2人分の昼を買って、戻ってきたのだ。
浴衣のイメージしかなかった槐さんが、こんなに洋服がサマになるとは思わなかった。
時代錯誤な生き方こそしているが、やっぱりこの人も、俺と同じ世代の男だったのだ。
かと言って、例えば大学で、「本多 槐 」という先輩として知り合っていたとしても、今のような関係になっていたとは思わない。
たぶん、この見た目なら女子にもモテていて、逆に男は近寄らなかっただろう。誘われでもしない限り。
話は合わなさそうだし、「槐先輩」なんて呼んで、なつくなんか、ありえない。
身長も俺より少し低いくらいで、同じ格好をしているはずなのに。今流行りの中性的と言うか、俺にはない部分があって、どこに行っても注目を集めそうなビジュアルをしている。
着替えた槐さんが風呂場から出てきた時、俺はスマホを手に持ったまま、思わず立ち上がっていた。
誰だか分からないほど変わっていて驚いたのと、顔立ちや体型はその人のままだったから、不思議な感覚で、脳が混乱した。
座るタイミングを逃してしまい、今もその体勢で、ちゃぶ台の前から動けずにいる。
スマホは手の中にあるが、カメラを向ける事はできなかった。そんな発想になってはいけない気さえした。
「だからって、金髪にしなくても……」
そう言うと、金髪になったばかりの槐さんはムスッとした顔になる。
「それだよ、私の不満は。散髪に行くと言っていたから、もっと色を明るくしてくるのかと思ったのに。誰か分からない、別人じゃないか」
見慣れないのは、お互い様だ。
帰ってきた俺を見てから槐さんがずっと不機嫌だったのは、自分の想定していたのと違ったから、だったらしい。
「傷んでたから切る以外なかったんですってば。暑 ーし。もう8月も終わるけど、超快適」
俺はスマホをようやくポケットに入れて、両手で自分の髪を触った。まだ慣れないこの感触を触るのが、当分、癖になりそうだ。
俺は槐さんみたいになりたくて、槐さんは俺みたいになりたかった。それで、すれ違うみたいに、こうなってしまった。
そう考えると、何とも嬉しくなる。
俺の元を離れていく槐さんが金髪になって、ざまあみろと思っていただけに、それより上があるなんか思わなかった。
誰かに対して特別に慕ったり、恋焦がれたりしないあの人が、初めて頼み事をして、それも、他でもない俺の格好をしたがるなんて。
その辺の男とは違うように、何なら特別に思ってくれているように思えてならない。
調子に乗ってもいい気がした。
自分の髪から離した手で、今度は槐さんの髪を梳いて、持ち上げるように触る。
「ほんとは、もうちょっと暗めになる予定だったんすけどね」
ついつい必死になってしまい、気付いたら、予定の時間を過ぎていた。
スマホのアラームでもしておくべきだったとも思うが、もしアラームが鳴ったとして、止めていたかと聞かれると自信はない。
「時間のことは仕方ない。私もけしかけたようなものだしな」
槐さんは少し上目遣いになって、自分の頭の上にきた俺の手を見ている。
あんな事をした後では、髪に触るくらい、お互いどうという事もなかった。
「予定より明るい色になったみたいだが、私は気に入っているよ。災い転じて福となすという事かな」
槐さんも嫌がらないから、まだ手が離せない。サラサラの指通りを、ここぞとばかりに味わっていた。
幸い、1回ブリーチした程度では、ひっぱって切れそうなほど傷んでいないらしい。
ただツヤツヤした、明るくて淡い金髪になっただけだ。窓からの光を反射して、天使の輪ができている。
実際、この人にはこれくらい明るい方が似合うのかも知れない。
前までの俺がゴールドなら、今の槐さんはプラチナだ。
肌の色がいっそう白く見えて、前は黒と白で喪服みたいだったが、今は神々しいくらいになった。神とまではいかずとも、少なくとも神社仏閣よりは教会の方が似合う感じだ。
天使にしては、顔が日本人すぎるが。
そんな神々しくなったあの人は、目を閉じ、腰に手を宛がった。
「そっちの頭は残念だが、仕方ないな。これからも頼み事をするかも知れない。成果は期待しないでおこう」
そう言われて、俺の方が天にも昇る気持ちになってしまった。
あの人が、これからの事を口にしてくれた。
まだ、俺と過ごしてくれるつもりだ。
さっきから俺は、自分に都合の良いように捉えているだけの、おめでたい頭をした男かも知れない。
でも、嘘みたいに嬉しかった。
ずっと向かい合わせに立ったまま、金色の髪をサラサラ触っていたら、おかしな感覚になった。
これまで見てきた槐さんとは違うその人に対して、これまで感じてきた欲望みたいなものが一気に込み上げてきた。
抱きたい。自分のものにしたい。忠義を尽くしたい。食べてしまいたい。どこにも行ってほしくない。俺じゃないとダメだと、同じ気持ちだと、言ってほしい。
そういった、欲望なのか感情なのかが分からないものが胸の奥の方に、ぐわーっと溜まってきて、喉を駆け上がって、止められずに口から溢れてきた。
「槐さん。俺やっぱり、槐さんのこと……好きです、諦めらんねーす」
俺と同じ髪色になりたがってくれて、今も俺の服を着たこの人に対して、「彼シャツ」という言葉が頭から離れない。
単に、しゃぶって、突っ込んで、体が繋がっているだけなんか、満足できない。
いくらこの関係がおかしくても、それを表す言葉を俺は知らない。だからせめて、「彼氏」とか、「恋人」とか、そんな呼び方ができるようになりたい。
それを聞いた槐さんは、顔を上げて見てくる。
表情は無かったけれど、目も霞んでいない。はっきりとした黒目に、俺が映るんじゃないかと思う。いや、むしろ、俺だけを映していてほしいと思った。
まだ少し違和感の残る喉から、震える声を絞り出す。
「だから、俺の恋人、とか……なって、くれません?」
30にもなって、こんな下手な告白のし方があるだろうか。
俺はこれまで、この人に好きだと伝えただけだ。それも、知り合ってからたった4日目で。
あの時は手に入るはずがないからと、この人とどうなりたいのかを考えもしていなかった。
でも、ここまで来て、ようやくそれが見えた。
この人と付き合いたい。
男同士とか、血が繋がってるとか、向こうの方が年上だとか、どう考えても狂っているとか、そういう事を全部分かった上で、この人の恋人になりたいし、恋人にしたい。
「もうあと5日でサヨナラだけど、でっ、デートとかも、できねーけど……、金持ちの、知らないオッサンの、イロコに、なる前に……」
自分が何を言っているのか自覚して、どんどん顔が赤くなってきたのが分かる。こめかみや背中にも汗がにじんできた。
そんな俺を、槐さんはまた、あのきょとんとした顔で見てくる。
「おかしなことを言うんだな。恋人なんて、私が忠義くんに恋でもしていなければ、なりようがないじゃないか」
心臓を、カミソリで突き刺された気分になる。
これは、フラれたも同然だ。しかも、かなり派手に、盛大にフラれた。
最悪だ。ダサい。カッコ悪い。
でも、後悔はなかった。
今までの俺は、オッケーを貰えそうな時しか告白しなかった。相手もそれなりに選んだし、手が届きそうになければ、最初から挑みもしなかった。
負けるのが分かっている戦なんかしなかったのだ。
けれど今ばかりは、伝わらないと分かっていても、言わずにはいられなかった。
「そうなんすけど、だから、でも、俺、どうしても槐さんと、そういう形になりたくて──」
しどろもどろに言いながら、俺はあの人の細い体に抱き付いていた。抱き締めたと言った方が正しいかも知れない。
フラれながら、体に触れても、拒まれないのは分かっている。それだけじゃない、目には見えない、形のようなものが欲しかった。
槐さんの手が、俺の背中を撫でてきた。
湿ったTシャツが背中に貼りつく。心臓が痛いほど鳴っているのも、とっくにバレているはずだ。槐さんの鼓動が早くなっているかどうか、感じ取る事もできないくらいに。
「懲りない男だ。私が居なくなったらどうなる事か」
感情の読めない声だったが、嫌がられてはいない。
そして、好かれても、いない。
「そしたら、死にたいっす……」
槐さんの着ているTシャツを握りしめて言った。
こんなに想っている相手が居なくなったら、生きていけないに決まっている。
「……槐さんいなくなった後とか、どうやって生きてったらいいか、考えれないもんで」
今は、シャンプーしたばかりのはずなのに、お香の甘い匂いがする首筋に、自分の鼻と口を埋めるしかない。
できれば、最期はこの人に、全部を吸い尽くされて死にたい。
朝は殺されるかも知れないと思って逃げたのに、今は逆に、そうなりたいと望んでる。
今度は、槐さんの手が俺の腕に回ってきた。
掴まれて、少し押されて、腕を離さなければいけなかった。
俺がこんなに必死になっても、どんなに恋い焦がれても、この人に伝わる事はない。
俺と同じ格好をして、それを見てほしいとまで言ったクセに。夢中にさせて、振り回して、体を抱き締めさせて、死にたいとまで言わせて、結局はすり抜けていく。
この人はそういう人だ。これまでも、そうして生きてきたんだ。
体は少し離れたけど、槐さんはまだ手を離さなかった。
「恋人になっても、何かが変わるわけじゃないだろう」
まっすぐに俺の目を見て言い聞かせてくる。
この人の言う通りだ。
一緒にどこかへも出らないし、誰かに言える関係でもない。
俺は仕事中もそれ以外も、この人のことを考えて、夕方から夜には、出ていったはずのこの部屋に入り浸って、この人と過ごす。
変わるのは俺の意識だけで、それ以外は何も変えられない。言ってしまえば、俺の自己満だ。
「それを分かった上でまだ、こんな私と恋人になりたいか?」
槐さんが上目遣いで確認してくる。諦めの悪い、しつこいヤツを説得するような言い方で。
「……なりたいです」
俺は敬語で答えた。
こんな、距離感の分からない所から近付きたい。ちゃんと名前の付いた、特別な関係になりたい。いっそ自分が下でもいい。
今のままでいると、本当に気が狂ってしまう。どれだけ吐き出しても、取り返しのつかない事をしてしまう。
俺を見ていた槐さんが、眉根を寄せて笑った。
昨日から今日までで、この人の表情はかなり柔らかくなった気がする。
「男というのは、本当に馬鹿で、単純な生き物だ」
その顔で、ついに呆れられてしまった。
俺はどんな顔をしていればいいのか分からない。
この人も男なのに、それを指摘できなかった。性別とかそういった枠組みを越えて、人間自体を、見下しているように聞こえた。
男も女も、形は違えど、どっちもこの人に振り回され、人生を狂わせて、破滅させられる。自分に向けられる視線が、好意だろうと、敵意だろうと、本人はまるで気にしていない。
もう、鳥肌も立たなかった。理屈も常識も通用しない、それが槐さんという人だと俺は学んでいたから。
黙っていたら、顔が近付いてきた。
また、槐さんの方からキスしてくれた。明るいうちにする、大人のキス。
軽く触れて、離れた唇が動くのを、ぼんやりと見ていた。
「構わないよ。別れるまで、忠義くんの恋人になろう」
どうやら、俺には、新しい恋人ができたらしい。8月が終わるまでの期限付きで。
美人で、綺麗系で、年上で、ショートで、和装もイケる。普段はクールなのに、2人っきりでスイッチ入ったら止まらなくなる。そんな、男の恋人が。
恋人になってからの“初めて”は、昨日と同じ体勢だった。
槐さんは俺をベッドに寝かせるなり、上にまたがってきた。
俺の意識以外、見える所で明らかに昨日と違うのは、外の明るさと、見た目。あの人の髪色と、服装。
それを使って、俺を目いっぱい興奮させてきた。
カモフラ柄のハーパンを膝までずり下ろし、細くて白い脚は抜かずに引っかける。それから青のボクサーを右手で掴んで、片側にずらすと、裾の方から挿入させてきた。
「せっかく着ているんだ……使わないと意味がない」
そんなことまで言われてしまった。
確かに普段は下着をつけていないから、こんな光景は、今でないと見られない。
自分のボクサーを穿いたあの人に、自分のモノがずっぽり刺さっているところを、見せつけられていた。
この人は、楽しんでいる。それがひしひしと伝わってくる。
今しか味わえない快楽というものを追い求めて、それ以外には目もくれない。後先がどうなろうと、知った事ではない。
欲しい物や望みなんか無いと言った割には、何て貪欲なんだと思うと同時に、物理的にも、根元まで呑み込まれてしまった。
昨日と同じベッドの上で、昨日と同じ体勢なのに、昨日の夜に花火に照らされていたのとは別人に見える。
しかもそれを、俺も楽しんでいた。
言ってみれば、2人の相手を日替わりで抱いているようなもんだ。しかもどっちも、反応が良くて、肌が馴染んでいる。
そんな贅沢な事が、今の俺には許されている。
でも、やっぱり頭は混乱する。
コスプレじゃないのに、どっちかと言えばいつもの浴衣の方が俺にとってはコスプレみたいなもんなのに、今のその人の格好が見慣れないせいで、おかしな気分になる。
俺が今、抱いているのは誰なんだ。
オーバーサイズのTシャツの中に手を入れて、体を撫でるように滑らせる。ぷくっと固い所に指先が触れる。
「あっ、あ……!」
あの人は内股で俺の上に座り、自分で腰を振りながら、身をよじった。
その拍子に、もうひとつの乳首も勃っているのが、肌に貼り付いたTシャツ越しに見えた。
腿に添えていた手を離して、そっちはTシャツの上からつまむ。強めにすると、ビクビクッと背中や腰まで反応する。締め付けてくるのも強くなる。
窓は開いたままだ。外には黒い浴衣が、マントみたいにひるがえっている。
目隠しにはなっても、音は隠せない。男の喘ぎ声と、肌を打ち付ける音は、絶対に表に聞こえている。
それでも、止めようと思えない。
こんな明るい中で、真っ昼間から、俺に突き上げられているあの人を見られるのが堪らなかった。
手を腰や腿に滑らせ、吸い付いてくる肌の感覚を味わう。Tシャツの中も湿って、熱くなって、隠れていても赤くなっているのが分かる。
足りなかった。
起き上がって、背中に手を回し、Tシャツ越しに乳首を舐めた。口で含むようにすると、じゅわっと涎がしみて、生地にうっすら透ける。
それだけでもやらしかったが、強めに歯を立てて噛み付いた。
「ひっ、あ! あん!」
泣きそうな高い声が飛ぶ。昨日みたいに引きはがされはしなかった。
肌の色も乳首の色も薄いが、形ははっきり分かる。むしゃぶりついた。
吸って、舐めて、噛んでいるうちに体勢がきつくなってくる。
上に乗られてはいるが、あの人はハーパンを穿いたままで、長い脚を曲げているから。
「んっ。もうちょっと、こっち……!」
ぐいっと引き寄せると、槐さんも姿勢を起こして、座っていたところから、しゃがむような格好になった。
一気に近付いて、キスしやすくなる。
夜中にしたみたいに、舌を出し合って、舐め合った。熱い息が伝わってきて、体じゅうに汗が吹き出す。
ハーパンの下をくぐらせて、前もしごいてやる。脱がさずに、ボクサーの上から。
すでに、濡れて濃い色のシミができている。
「あっ、ああ……! はあぁっ……!」
今度は低い声を吐いてくる。それはそれで、感じているのが分かった。
「あ、あのさ……」
そうしながら、ずっと気になっていた事を聞いた。
「何でここ……下の毛、ないの?」
生えていないのかと思っていたが、さっき剃り跡があるのを確かに見た。
意識して作っているのだと思ったらむしろ興奮はしたが、理由も気になった。
びくびく震える槐さんは、めずらしく、恥ずかしそうな顔になって、俺を見てきた。
「み……みぐさいじゃないか……」
槐さんが口にしたのは、信州弁だ。
見苦しいやら、汚いやら、そういう意味。
初めて、この人と血が繋がっているという実感が湧いた。
俺自身は、かーちゃんが他から嫁いで来た人だからか、昔から方言を使っていた自覚はあまりない。
親族の集まりで耳にする事はあっても、その話し方が田舎だからなのか、年寄りだからか判別できなかった。
しかも大学から東京に出てきて、もう10年以上暮らしている。訛りなんて、地元に帰っても滅多に出なくなった。
槐さんもそうだ。そもそも話し方が今どきっぼくないし、訛ってもいない。
そんな中で、急に、懐かしい感じがした。
それと同時に、とんでもない事をしてしまっていると自覚する。
やっぱりおかしい。こんな相手と恋人なんて。
それ以前に、家族だったんだから。
でも、今更止められない。惚れてしまったから。
「そっか……確かにすげー綺麗だった、エロいしっ」
言いながら、握り込んだ手をぐしゅぐしゅやると、シミが広がってくる。
ボクサーの中も、脚の内側の筋も、苦しそうに突っ張っている。
本当はもどかしいし、脱がせてやりたい。見苦しさを排除した自慢のそこを、拝んでやりたい。
根元から強めにしごくと、仰け反って腰を揺らす。
「ああっ! ちゅうぎ、ちゅうぎ! ああぁ……!」
薄い唇が赤くなり、涎を垂らしている。よっぽど気持ちいいらしい。
前と後ろを同時に攻められるのも、弱いのだろう。と言っても、俺はほとんど腰を動かしてないが。
このまま、もう少し、と思いながら続ける。
あんまりにもやっているもんだから、タイミングが分かるようになってきた。
俺の読み通り、すぐに、槐さんが両手で俺の肩に掴まってきた。
しゃがんだ体勢で、金髪を見せつけるように下を向き、びくびくっと大きく反応する。
「ふっ、う、うぅ……」
大声を出さずにイくところを見たのは、初めてだった。
Tシャツが浮く骨ばった肩をすくめ、ハーパンを引っかけた膝は内股になっている。
ガマンできずその奥に視線をやると、青いボクサーの前が、漏らしたみたいにびちょびちょに濡れているのが見えた。
いったん、休ませてやろうと思った。
体を離すと、槐さんはぐったりと後ろ向きに倒れた。
その隙に俺はベッドから下りて、肩で息をしながら、冷蔵庫に麦茶を取りに行く。
「はあっ、ああ……あっちーな、もう」
足の裏まで汗をかいて、湿った裸足が畳に貼りつく。
コップに注ぐのも億劫で、2リットルのペットボトルを、キャップだけ外して持って行った。
槐さんは、脚からハーパンを抜き取っていた。カモフラ柄のそれはベッドから落ちたのか、脱ぎ捨てられたのかは分からない位置にある。
ぐしょ濡れになったボクサーの前は、突っ張ったままだ。
起き上がると、金髪の生え際から首まで垂れている汗を拭いて、
「……まだ足りない」
と言った。
かすれた声にぞくっと鳥肌が立つが、恐怖でではない。
あの人の目は俺を見てはいなかったが、真っ黒で、ぎらぎら光っているのが見えた。まだまだ、もっと、と俺を求めてきていた。
ペットボトルを、顔に押し当てはしなかった。
視界に入るように渡すと、槐さんはすぐに受け取って直接口をつけて飲み、俺に渡してきた。
「ほらっ……次は、忠義くんのしたい事を」
俺も口をつけて飲む。汗がどんどん出て、喉が渇いていたのをやっと自覚した。脱水症状の一歩手前だ。
喉がゴクゴク鳴るほど一気に飲んでから、
「おっ、俺の……?」
濁った声で聞き返した。
「せっかく恋人になったんだ。他人には頼めない事でも言えるのが、恋人だろう」
槐さんにしては、まともと言うか、カッコいい考え方だ。
まともに人と付き合った事もなさそうなのに。
視界の端に、チラッと何かが揺れた。
昨日、俺の借りた浴衣と帯だ。槐さんは俺が1度出た間に、洗濯と洗い物を済ませていた。
想像しただけで、ゴクッと喉が鳴る。言えるのは、今しかないかも知れない。
「く、首……」
空になったペットボトルを両手でひねり潰した。ベキベキうるさい音を鳴らしながら簡単に潰れて、細く丸くなっていく。
柳みたいな眉毛を上げて、
「ん?」
と聞き返され、言い淀みそうになる。ここまでしておいて何をためらうのか自分でも分からないが。
大きく息を吸って、正直に言った。
「首、絞められたい……槐さんに……」
俺がそれを初めて聞いたのは、もう何年も前だ。
それも韓流アイドルだったか、とにかく当時の元カノがファンだった芸能人が、男女問題で週刊誌に載った。
スキャンダルを狙った相手の女からのタレコミで、行為中に首を絞めるのが好みだと暴露されていた。
元カノに伝えられた時は何が楽しいのかと思ったし、その後、実際にやるように誘われても、ただ悪い事をしている気分で、少なくとも俺はいまいち感じなかった。
でも今は、槐さんが相手なら、何かが変わる気がする。
上に乗られて、酒を飲まされて興奮した。気道を塞がれても興奮した。
俺は、この人の首を絞めたいんじゃなく、絞められたい。それで、気持ちよくなってしまう気がした。
「は……?」
槐さんは言葉を失ったように俺を見てきた。
いくら経験豊富で、おかしな事をしたりされたりしてきた槐さんでも、そんなリクエストされるとは思っていなかったらしい。
一気に我に返ったみたいに、恥ずかしさと、引かれてしまう不安が込み上げてくる。
「い、いや、そういうプレイなんで! マジであの、聞いた事あるだけって言うか、興味本位で試してもいいかなー、的な?」
昨日と同じで、焦って言い訳を重ねるほど、どんどん墓穴を掘ってしまう。
「だってほら、俺みたいなゴリラがやったら、マジで……事件になっちゃいそうだし! 槐さん細いし、逆なら、大丈夫かなって……」
槐さんもまた下を向いて、ふん、と肩を揺らして笑った。
「君は本当に、正直な男だな」
皮肉なのか、からかわれたのか、褒められたのか、微妙なラインだ。
欲望に正直というのが、この場合、良い事な気もするし、やり過ぎな気もする。
確かに他の人には頼めない。本来であれば口にも出せない。週刊誌に暴露されるような特殊なプレイだからだ。
でも、やってみたい。
恋人相手だからと言うより、槐さん相手だから思ったし、言えた。
槐さんは当たり前のように窓から身を乗り出して、物干し竿に掛けていた帯を取った。
確かに俺が見ていた物だが、そこでようやく気が付く。
「あ、でも、それ……大事な物でしょ。イヅ美さんがくれたって言う」
言うなれば、槐さんがお世話になった人の形見のような品だ。
俺が昨日着ていた浴衣のことも、宝で、一張羅とまで呼んでいた。
そもそも毎日着ている浴衣だって、どれもいい物で、有難くて大事な、思い出の品のはずだ。
それを、こんな俺の下衆な欲望に付き合わせるために使うのは、申し訳ないと思った。
俺はイヅ美さんとは血が繋がっていないし、縁者とは言え、顔も憶えていなかったような他人だ。
厳しくも大切に、恐らくだが手塩にかけて育てた槐さんのことを、どこの馬の骨とも知れない俺が、恋人なんて呼んでいる。
その遺品を使ってこんな事をしたなんて知れたら、どんなバチが当たるか。それこそ、祟りが起きる気がする。
けれど、槐さんにはそれが通じなかった。
「それがどうした?」
そんな風に聞き返されると思っていなかったから、どう説明したものか困る。
「い、いや、なんて言うか、思い出の品なのに、こういう事に使っていいのか……」
「素手でやれって言うのか? 君に下から突かれながら?」
「あー、いや、そうじゃなくて……」
長い帯を手に巻きながら、当たり前のように続けてくる。
「手形が残るから、あまり見ていて気持ちのいいものじゃないよ」
それを聞いて、初めてじゃないのかも知れない、と思った。
下腹の傷跡と同様、確認するのは恐かった。
金髪がきらきら光って、白い肌をした綺麗な槐さんは天使みたいにも見えたが、悪魔でもあった。
腹の中の、絶対に満たされる事のない暗い空洞に、悪い魔性を飼っているように思えた。闇が深い、というのか。
また俺が仰向けになって、槐さんが上に乗る体勢になった。
「お望み通りにいくとは限らないよ」
首に帯が回ってくる。柔らかい兵児帯じゃなく、固い素材の角帯だ。
やべーとは思う。分かってる。
一歩間違えたら、入ってしまう。柔道の絞め技をかけられるようなもんだ。脳に酸素が行かなくなったら、目の前が真っ暗になって落ちる。
それだけで済めばいいが、さっき俺の言った通りにならないとも限らない。
槐さんがいなくなる前に、俺が死ぬ。槐さんに殺される。
何よりやばいのは、そう考えている俺が、今までと比べ物にならないほど、興奮している事だ。
こんなはずじゃなかった。
どっちかと言えば攻める方が好きだったし、やりやすかったし。それしかして来なかった。
男は、そういうもんだと思っていたから。
優位に立って、相手を組み敷いて、征服するくらいでちょうどいいと思っていた。
何かと競い合って勝負したくなるのも、負ける事が極端に不快に感じるのも、そういう生き物だからだと。
どういう結び方をされたのかは、見えないから分からない。
ネクタイを直すような位置に槐さんの片手が伸びてきて、もう片方の手は顔の高さまで上がって、帯の端を持っていた。
ゆっくり、それがひっぱられ始める。輪状になった帯の結び目が、じわじわ締まってくる。
首輪を着けられ、腹を見せた犬みたいに、槐さんに服従している。
そう思ったら、頭にも股間にも、血が集まってきた。
「うわ……、これヤバいっす、槐さん、そのまま」
相手の腿を押さえて固定して、腰を振った。
眉間にシワを刻んだ槐さんも、声を上げながら、帯を二重、三重に手に巻き、俺の首を絞めてくる。
「はあ、はあ……、あっ、ああ……」
肩をベッドに押さえ付けられて、縛りプレイのM役か、縄を掛けられた悪人みたいな気分だ。
どっちにも、実際になった事は無いが。
首が絞まるに連れて、なぜか下の方も締まってくる。
そこで、さっきは槐さんが先にイッたから、俺はまだ出していない事に気付いた。
便所でしゃぶっている時も、ベッドに来てからも、何回も興奮しては寸止めみたいになって、もうおかしくなってしまった。
急に、タガが外れたみたいになる。止めようと思っても無理だった。
「……う、あ、出る、出るぅっ!」
それだけ言うのがやっとだった。
歯を食いしばっていても、声が漏れてしまう。
「あっ、く……うぅ……」
首が圧迫されているのが分かる。気道を絞められながら、両手で腰を捕まえて、ぐぐぐと押し込んだ。
目を開けた状態で達するっていうのは、あんまりない。
理由は特にないが、もう癖みたいなもんだ。できるだけ情報をシャットアウトして、快感に浸りたいのかも知れない。
でも、今は、槐さんと目を合わせたまま、中に出していた。
黒くギラついた目で見下される。それがもう堪らなくて、胸まで締め付けられる。
俺の全部を受け止め、吸い上げても、体を少し震わせるだけだ。
「ああ……20分と言ったんじゃなかったのか」
その計算の仕方は、こすいんじゃないか。さっきはもっと、俺に攻められていたくせに。
そう思いはしたが、何も言い返せない。はあ、はあ、と胸が上下するほど息をして見上げる事しかできない。
まだ、首には帯がしっかり巻かれている。
俺はこの人に、こんな事を頼んで、一瞬で出してしまった。
情けないし、気持ちよくて、また泣きそうになった。
出したのに、槐さんは抜かせてくれなかった。
縛った帯を首輪みたいにひっぱって、尻を上下させて、また攻めてきた。
賢者タイムのはずが、萎えているのに無理やり起こすように刺激されて、腰が浮く。
「あっ、えっ、槐さ、苦しい……」
少しでも気道を広げようと首を起こすと、帯の向こうに、目が釘付けになる光景があった。
押し込まれるたびに、出した分が襞から溢れて来ている。
槐さんの中から垂れてきて、俺の竿を伝う。
この人の体では、作れない液体が。
付け根の黒い毛に、白い泡になってまとわりついている。明るいから、どうしても見えてしまう。
槐さんは金髪を揺らし、そんな俺を見下している。
「ああ……、でも……好きなんだろう。ほら、また少しずつ、硬くなって……」
そう言って、動かす速度を早めてきた。
ぶちゅっ、ぶちゅっ、ぶちゅっと大きい音が何回もする。
今までされた事がないし、まだ敏感な所に強烈な刺激を食らったせいで、変な声が出てしまう。
「ひっ! 槐さっ……、やめ、て……ああ! あぐっ!」
仰向けになったまま、頭から背中まで反り返った体勢にさせられていた。もうやめたいのに、さも俺がまだ入れたがっているみたいに、腰を持っていかれる。
そして抵抗しようともがけばもがくほど、首が絞まる。
何とか解こうとしても、もう指を入れられる隙間がない。
自分の爪で首を引っ掻いてしまった。
もう、充分すぎるほど興奮した。さすがに限界だ。
朝に1回出したし、昨日も、その前も、ここ何日連続でしているのか分からない。
槐さんが来てから毎日、多い時には1日に2回もしている。
ついには養分にもなれず、コンクリの土間に消えていくような量になってしまった。どうせ溜まっていく物だし、虚しいというわけではないが。
例えるなら、どんなに美味い物でも、胃袋に限界があるのと同じだ。腹いっぱいまで食わされた後に、まだ、無理やり、口に詰め込まれている感じがした。
頭がクラクラしてくる。視界が暗く、狭くなる。
落ちる、と思った。
「も、もうムリ、もう、出ないっす……カンベンして……」
ついに、俺はギブアップした。
涎が出てくるのを、拭く余裕もない。顎まで垂れているのが分かる。
不満そうにされるかと思いきや、槐さんは動きを止めてくれた。
俺の上で満足そうに、それから勝ち誇ったように笑って、帯を解いてくれる。
「これでおあいこだな」
そう低い声で言われて、俺は分かった。
どうやらあの人がこんな事をして来ていたのは、俺にこんな泣き言を言わせるためだったらしい。
恐らく、夜中に、自分だけが指でイかされた事を、まだ根に持っている。
この人は、間違いなく男だ。
自分から男を誘って楽しんで組み敷かれるのは許せても、いきなり弱音を吐くほど激しく攻められて負かされた事は、悔しくて、屈辱で。
リベンジのチャンスを待っていたから、「足りない」と目を光らせていた。
喉仏の左脇の肌がちくちく痛む。風呂場の鏡で見ると、爪で引っ掻いた所に汗やシャンプーが沁みていた。
これも、名誉の負傷という事にしてしまおうか。
キスマに見られたらダサいが、30歳にもなって、そんな風に思われないだろう。
日曜日だから、今夜は自分のマンションに帰る事にした。
大丈夫。どうせ、また明日には会えるのだから。
いつも通りに仕事をして、終わったら、いつも通りここに来ればいい。
この人は、俺と同じ髪の色になりたがって、俺の服を着て、俺が来るのを待っている。どこにも行かない。行きようがない。
恋人になれたというだけで、そんな安心感があった。
たとえ、あと1週間もせずに別の人のものになってしまうと知っていても。
サンダルを履こうとした時、聞いていなかった事を思い出した。
「あ、と。そーだ。槐さんって、誕生日|近《ち》けーの? もう過ぎちまった?」
「誕生日?」
土間に下りて部屋に向き直ると、槐さんはベッドに座って俺を見ていた。
「その、エンジュって木? のことちょっと調べてて。花が咲くのは8月って」
「どうして急にそんな事を?」
もったい付けるように、教えてくれない。すんなり答えてくれればいいのに。
「いや、教えてくれてもいーじゃん。ほら、こ、恋人なんだし、ちょっと過ぎててもお祝いとか──」
「その日は、本多家にとって厄日だと言われていたよ。知らないのか?」
槐さんは俺の言葉を遮って言い、胸に手を当てて自分を指した。
「この祟りが生まれた日だ。祝おうなんて、不謹慎で罰当たりな」
誕生日は、その人が生まれた事を祝う、特別な日だ。
歳を取れば嬉しいだけじゃなく複雑で、特に女の人は手放しで喜べなくなるものらしいが、それでもやっぱり、年に1回の記念日だ。
本人がどう思うか以上に、周りの人間にとっては、何か喜ばせる事をしてやりたくなる。それが、普通だと思っていた。
生まれた日を厄日だと言われるなんて、存在を否定されたも同然だ。
確かにこの人は、普通ではない。けれど、一族にとって祟りだから、誕生日を祝うなんて罰当たりとまで言われなければ、ならないだろうか。
そりゃ言い過ぎだろ。そう思わずにはいられなかった。
サンダルを脱いで、もう1回畳に上がった。
「いやいや、祟りとか知らねーよ。今はもう本多家の忠義 じゃねーの。あんたがちゅうぎくん、ちゅうぎくんって呼ぶから……」
自分で言っていて意味不明な理論だが、それくらいの思いが、俺にはある。
「じーちゃんに貰った名前より、その方が気に入っちまった。だから、忠義 として聞きたいんだよ」
一族どうこうじゃなく、1人の男として槐さんを特別に思ってる。だから、知りたいし、祝いたい。
そう伝えると、槐さんは、ふっ、と呆れたように笑った。
それから、窓の外に顔を向ける。
「3月」
短く言われたのは、まったく予想外の時期。
「え?」
「生まれたのは3月だよ。過ぎるも何も、元からここにはいない」
確かに、生まれた家の庭に木が植えられていただけで、花が咲いていたとは言わなかった。
ハーパンから綺麗な白い脚が見えている。それを見ながら聞き返した。
「……何日?」
「28日だ」
3月28日。それが、この人が生まれた日。
その日が本当に、本多家にとって厄日かどうかは知らない。そもそも俺は、この人の存在すら聞かされずに育ったんだ。
誰から産まれて、どこで育って、本当は何という名前で……。
聞きたい事、知りたい事はたくさんあるのに、いざ会うと、話し声よりも喘ぎ声を聞きたくなってしまう。
そんな槐さんは、柵の外を向いたまま、話しかけてきた。
「忠義くん。私ね、礼服を着た事がないんだ」
脈絡のない話だった。しかもあまり良い話題じゃなさそうなのが分かる。
「礼服? スーツとか?」
「おばあ様も、袴は作ってくれたけれど、紋付じゃない。どういう事か分かるかな」
「紋付って……」
なぜか、そこから動けなかった。
俺の方を向かないあの人から、これ以上、近付くのを拒否されているように思えて。
「ずっと、家族として認められていなかったんだよ」
槐さんの口から、槐さんの方から、身の上を話してくれたのは初めてかも知れない。
俺は何も言えなかった。
「冠婚葬祭に来るなという事だ。気味の悪い殺人犯を葬式に呼ぶか? 本多家の何人か──それに私の両親、祖父母は、私が殺してしまったようなものなんだ」
あ、と思う。
親類縁者の葬式は、イヅ美さんが初めてじゃない。
親族が多いから、冠婚葬祭も多いのだと思っていた。
だから、久々の葬式でも、“いつもに比べて”参列者が少ないとか、バタバタしているとかが、何となく分かった。
この人が自分のオヤジを誘惑したのが14歳。
もし、それをきっかけに親と離れたのだとしたら、ここ20年くらいの間にあった葬式のいくつかは、本人の言う通り、槐さんが原因だったのかも知れない。
年に2回、地元に帰ったタイミングで、誰が結婚したとか、亡くなったとか、そういう話はもちろん聞いていた。
その中には自殺とか、事故とか、そう聞いた覚えがある。
その人たちは多分、槐さんに狂ってしまって、離れた後の半年間を耐えられなかったんだ。
それに、槐さんの親や祖父母らしき人が、イヅ美さんの葬式にいなかった理由。
そもそも、もうこの世にはいないからだ。
オヤジとじーちゃんはこの人に狂って、それによって、かーちゃんとばーちゃんも狂わされたとか、そんなところか。
「私は本当に、本多家にとって祟りなんだ。君も気を付けるんだよ。あれだけ忠告していたのに、もう遅いかも知れないが……」
「そーだな。もう遅いよ」
死にたいと口に出してしまった。
槐さんが居なくなった時の事を考えたくなくて、現実を受け入れたくなくて。
その後も、首を絞められて、目の前が暗くなる所まで、どんどん危ない方向にハマってる。分かってるのに気持ちよかった。
相変わらず、槐さんといると、それ以外の事はどうでもよくなる。
ただ、賢者タイムだろうが、性欲が消えても、気持ちが消えるわけじゃなかった。
「でも、関係ねーから。槐さんと付き合いたかったのも、居なくなったら死にてーのも、俺の意思だし」
槐さんが悪いんじゃない。たまたまそういう体質に生まれただけで、そうしないと生きていけないから男を誘っているだけなのに。
守るべきものがあるのにこの人に溺れた、男側の自業自得じゃないか。
この人は洗脳されてる。小さい頃からそんな扱いばかり受けてきたから。
俺はむしろ悔しかった。自分の恋人が、そんな扱いをされているのが。
「俺、別れた彼女の誕生日憶えてるタイプなんだよ。だから多分、毎年思い出すよ。槐さんのことも」
俺は、その辺の男とは違う。
もし死んでも槐さんのせいにはさせないし、生きていても槐さんのことを忘れない。
その人は俺の方を向いて、金色になった髪を触った。
「男というのは、それまでの恋人との思い出で、できているとつくづく思うよ」
これは、向こうも俺のことを、恋人と認めてくれたと思っていいという意味だろう。
今なら聞けると思った。
「あのさ……困るかも知れねーから黙ってようと思ったけど、聞いていい? 槐さんて、本当は槐さんじゃなかったりする?」
自分でも何を言っているのか分からない質問だ。けど、これ以外に上手い聞き方ができなかった。
「確かに困る質問だ。私よりカフカに聞いた方がいい」
あの人が姿勢を起こして、俺もベッドまで近寄って言い直す。
「ちが……そーじゃなくて。その、槐って漢字? 人の名前に使えねーみたいでさ。本名だって言ってたから一応、信じたけど」
どう言えば伝わるのか分からないし、聞いた所で本人が答えられるかも分からない。
この人は明らかに、俺の手にも、自分の手にも負えないほどの何かを抱えている。
「何かもっと……別の名前があるんじゃねーの?」
畳に正座した膝に手を置いて聞いた。
もし自分で分かっていて、話してくれるなら、どんな事情があっても、受け止めようと思った。
俺はその辺の男とは違うと示すためにも。
座った俺を見下ろす薄墨みたいな目は暗いが、少し見開かれていた。
「……そうか。本当に、何も聞かず私を引き取ってくれたんだな」
「え?」
「私には、戸籍が無いそうだ。母は私を産んだせいで死んで、当時の父は私を自分の子と認めなかった。生まれるべきではなかったんだよ」
信じられなかった。いや、信じたくなかった。
そんな、自分の子供を認めないような男が、親類縁者にいるなんて。
「何だ、それ……」
俺が腹を立てても、その人は相変わらず淡々としていた。
「家庭教師とお手伝いさんが話していたのを聞いただけで、詳しい事はもう誰にも分からない。とにかく、槐以外に呼び方が無いんだ。本名という事にするしかないじゃないか」
産まれた時に、どこにも届け出をしなかったという事だろうか。確かにそれなら、人名に使えるかどうかなんて気にする必要は無い。
単に、そこに植えられていた木から、呼び名を付けられただけ。
それを知ると、さっきから繰り返すような言葉も気になり始める。
元からここにはいない。存在しない。生まれるべきではなかった……。
この人はずっと、自分についてそう言っていた。
急に、槐さんという存在が、ゆらぎ始めた。
確かに目の前にいるし、誰より濃厚な時間を過ごして来たはずなのに、青白い肌が薄く透けて、今にも消えてしまいそうなくらい儚く見えた。
産まれた時から家族として認められず、存在を否定され続けると、人はこうなってしまうのかも知れない。
……こうして生かされているだけで充分だ。それに今は、私を見てくれる相手もいるしな。
そう考えると、この人は俺が初めて告白した時から、そう言っていた。
カマキリのメスみたいに、誰彼構わず誘うのは、とにかく自分を見てほしいからだ。
相手を男に限定していると言うよりは、多分、かーちゃんという選択肢はもともと無くて、オヤジの愛情を求めていたからだろう。
愛される方法とか、どんな感覚かすら、誰からも教えてもらえずにいた。
オヤジを誘惑して、寝た時にようやく、初めて、認められたような気がしたに違いない。だから今でも、男に抱かれると、あんなに生き生きとした表情をする。
女に生まれるべきだとまで、思い詰めて。
何と言えばいいのか分からなかった。
何を言われても受け入れるつもりだったのに、種無しと打ち明けられた時と同じ、ショックだった。
俺は、どれくらい黙っていたんだろうか。
「結婚とかも……できないんすかね」
ようやく押し出した。
戸籍と聞いて最初に浮かんだのがそれだった。俺もできなかった事だ。
「もし私に戸籍があったとしても、忠義くんと私では婚姻関係にはなれないよ」
「分かってる、分かってっけど……」
情けなくて、また涙が出そうだった。
世の中には色んな事情の人がいる。戸籍を手に入れる方法や手続き自体は、無い方がおかしい。
けど、この人自身が、それを望んでいない。望もうともしていない。もしそうなら、俺に会う前にとっくにやっているはずだから。
戸籍も無いし、世間からも隔離されて。この人のことを知っている人はどんどん死んで。子供もいないとなったら、この人はいずれ、世界から居なかった事になってしまう。
今にも消えて行きそうなこの人に、してやれる事が思い付かない。
俺が泣くのは違うだろ。そう思いながら、何も言わず頭を落としていた。
こんな人に対して、ただの色に狂った男だと思っていたのは申し訳ない。表面しか見ずに安直な発想をしていたのも情けない。
けどそれだけじゃなく、同情とか、哀れみとか、どうしても、上から目線の感情になってしまう。
これを本人に説明するべきか、どう説明したものかも分からない。
膝の上で拳を握りしめていると、
「可哀想に」
と言う声と、ベッドの上で体が動く音がした。
俺の目の前に下りてきて、向かい合って正座になる。ハーパンからむき出しになった、細くて白い膝が視界に入った。
細くて白い腕が回される。
向こうから、俺を抱き締めてくれた。誘うんじゃなく、慰めるみたいに。
「一刻も早く、私を忘れられるといいな。こんなに苦しむ必要も無いだろうに」
こんな風に自分から消えていこうとするのも、今に始まった事じゃない。
事情を知ってしまうと、男のことも女のことも見下した、不気味な人だとはもう思えない。
俺も腕を回して、抱き締め返した。
消えそうに見えても、しっかりとした感触があって少し安心する。
「嫌だ、忘れたくない……、忘れねーよ、槐さんのこと……」
結局、俺に言えるのは、前に言ったことと同じだ。
もちろん理由は変わっていた。
せめて俺だけは死ぬまでこの人のことを、槐さんという人のことを忘れずにいたい。どんなに苦しくなっても構わないと。
けど、どっちにしろ、俺のエゴでしかない。
この人は、もう何かを求める事を、ずっと前に諦めてしまった。
オヤジから愛されたかったのに、それはもう出来なくなった。代わりのように男を誘って、どれだけ食っても満たされない空洞を抱えて、生きているだけだ。
何て悲しくて、可哀想な人なんだろう。
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