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六、閉眼
次に目が覚めた時には、もう朝になっていた。
自分の家でもまだベッドを組み立てていない。床で寝て体じゅうが痛いのも、タバコのせいで胃が気持ち悪いのも、毎朝の事だ。
今日は、枕代わりにしていた腕に、畳の跡がついていた。
まだ、槐さんは起きていない。カーテン越しに朝日が透けて、ベッドに横になっている影の形が見えた。
あれは、夢じゃなかったらしい。
手の平や指に、乾いた水分がこびり付いて白っぽくなっていた。
便所に行って、ついでにシャワーも浴びて、歯も磨いた。
その時、洗面台に置かれたカミソリが目に入った。
I字型の刃に持ち手が付いた、レトロなデザインだ。見たのは、子供の頃に、じーちゃんの家に泊まりに行った時以来かも知れない。
そんな年季の入った物を、槐さんは使っているらしい。
カバーは無いのか、よく切れそうな刃がむき出しだった。
洗面台で顔を洗っている時に、石鹸が入らないよう目を瞑りながら、蛇口を探していると……と嫌な想像をしてしまった。
風呂から出て、新しい白のTシャツと黒のブリーフを履いて、髪をタオルで拭きながら、窓の方に行った。
槐さんの寝顔を見たのは、初めてだ。
部屋の方に体を横向け、目も口もぱったりと閉じている。鼻筋がつんと通って、頬や顎にたるんだ所も無ければ、シワやシミも無い。
この人は寝ていても、綺麗な顔をしていた。
これこそ端正な顔と言うのか、確かに崩れた所がひとつもなかった。
本人はマネキンと言っていたが、有名な職人が作ったリアルな人形だと言われても、納得してしまいそうだ。
もし本当にそれほど価値のある人形だったら、こんなボロアパートじゃなく、国宝として博物館とかに飾られるんだろう。そこまで想像してしまうほどだった。
もう、こんな日は来ないかも知れない。
急に、そんなことを思った。
8月の週末は今日で最後だし、平日に来るにしても、泊まって行けばいいとまた誘ってもらえるかは分からない。
俺から泊まりたいと言うにしても、自分の家でもあるような、ないような、微妙な立ち位置。
取り壊し云々ではなく、槐さんがどうするか次第で、俺を含めたこの空間が、いつでも無かった事になってしまう気がした。
本来なら、ここにいるべきでないのはお互い様だ。
博物館にしろ、新しいマンションにしろ、そこをわざわざ抜け出して、俺と槐さんはこの六畳間で、絶対に他人に知られてはいけない関係を持っている。
そう思うと、どうしても、まだこの人に触っていたくなった。
タオルを肩にかけて、横になって寝ているあの人の、浴衣の合わせに手を伸ばす。
早くしないと。でも、急ぐとばれてしまう。
すごく悪い事……例えば、覗きをしているような感覚になった。悪いと分かっているのに、それをする事で、普段簡単には得られない快感に手を伸ばしている。背徳感というやつだ。
今にも槐さんが起きるんじゃないか。そうしたら、何と言われるんだろうか。
どうせ許してくれるとは思うが、言い訳を考えたくなるのは、俺自身を納得させるためだ。
相変わらず、下着は着けていなかった。
後ろを触らせてもらうだけのつもりだったのに、前からめくり上げると、朝勃ちしているのが見えた。
その瞬間、有り得ない事を考えてしまっていた。
本当に、興味本位だ。
俺はこの人の指を、肌を、舐めた事がある。玉になって浮いた汗の味も知っている。ちょっと塩辛くて、甘い匂いがした気がした。
それなら、コレは、どんな味がするのだろうか。
緊張で息が浅くなる。手が震える。
ベッドの脇に膝を突いて、ゆっくり姿勢を下げた。こめかみや背中が汗ばんできた。
やばいとは思う。頭では分かっているのに、勝手に体が動いてしまって止まらない。
ソレを、舐めてみたくて仕方がない。
夜中に触ったのすら有り得ないと、うっすらまだ思っているのに。今は、顔まで近付けている。
手を添えて、口を開いた。できるだけ舌を出して当てにいく。
ちろっと触れた気がする。が、これだけじゃ、まだ味は分からない。
切れ込みに沿わせるように舌を当てる。感触は、手で受けていたのと変わらない。
舐め上げると、ようやく、少ししょっぱいような味を感じた。小便臭さがあってもよさそうなものだが、無いのが不思議だった。
ここで満足できないのは、俺がおかしくなってしまったからだろう。興味本位とやらが、止まらなかった。
槐さんが起きない限り、俺は気が済むまで続けていい。そう思った。
今度は舌じゃなく、唇を近付ける。ベッドに腕を突き直し、歯を立てないように気を付けながら、先端を口に含んだ。
舌の上で転がしても平気だった。
さらに奥に進めて、感触を舌全体で味わう。頬の内側の粘膜に当てたり、上顎に擦り付けたりしてみる。
涎がどんどん出てきて、口の中に溜まっていた。
「……んっ、ぐっ」
口を離したら溢れると思ったから、喉を動かして飲み込んだ。その拍子に声が出てしまった。
まだ、苦しくはない。これなら、根元まで入れられるかも知れない。
そろそろと様子を見ながら、奥に進めていく。硬いような、でも本気を出せば食いちぎってしまえそうな、初めての感触を、口の中全体から喉まで感じる。
どこかが直接気持ちよくは、ない。けど、興奮はしていた。
自分がしてもらったら気持ちいい動きを考えながら、首を前後して、根元から先端まで何回か往復した。唇をすぼめると、ちゅるちゅる動かせた。
涎が溢れそうになったら飲んで、それでも追いつかなかった分が、唇の端から垂れてきた。
ふと、視線を感じた。
恐る恐る顔を上げると、寝ていたはずの槐さんが目を開けて、俺を見下ろしていた。
全身が一気に熱くなる。
いつからだろう。どこから見られていたのだろう。
心臓が早くなって、頭が真っ白になる。どうすればいいのか、何と言えばいいのか、何も思い付かない。
「あっ、あの……! これは……」
口から吐き出して、何とか言おうとすると、溢れていた涎がますます垂れた。
慌てて、手で拭いた。涎を垂らすほど味わって、興奮していたのを、ようやく自覚したような気分だ。
槐さんは顔にかかっていた自分の髪を梳き上げてから、
「悪くない眺めだな」
と言った。
片方の口角を持ち上げた顔は、昨日とは違う、勝ち誇った笑いに見えた。
こうして起こされるのは、男にとってはひとつの夢だ。
それくらい従順に奉仕してくるか、予め頼んだわけでもなく、してくるような積極的でモノ好きな女がいて、初めて実現するような。
俺はそれを、自分から、する側に回ってしまっていた。
そう思った瞬間、ベッドを両手で突き放すように立ち上がっていた。
逃げるように走って行って、シンクで口を濯いだ。
両手に水を溜め、何回も含んで、うがいをして、吐き出す。
槐さんが汚いとか、そういう風には思わない。
ただただ、自分自身がしてしまった事と、それを見られた事実を、洗い流したかった。
「えぐっ、おえっ! げえっ!」
喉に指を突っ込んで、飲んでしまった分まで胃の中から吐き出したかった。それくらいしても、取り返しの付かない所まで来てしまっていた。
気配がして、顔から水滴を垂らしたまま振り向くと、槐さんがそばまで来ていた。
「まだ早かったみたいだな」
両手を後ろに組んで覗き込むように、子供をからかうような、馬鹿にしたような態度で言われる。
確かに、この人の方が慣れているし、上手いし、手練なのだろう。俺は実際にこの身で経験した。
何も言い返せない。
だから、力任せに槐さんを抱き寄せて、キスした。
誘われたんじゃなく、挑発された。それに乗っただけだ。
唇を吸って、舌をねじ込んで、かき回す。水で濯いだ後だとしても、自分ならこんな事、絶対にされたくない。
それだけでは足りず、片手で後頭部の髪を掴んで上に向かせ、反対の手で顎の下を押した。
「うぐっ、あ……」
首を絞めるような形になって、槐さんが苦しそうに口を開ける。
湧いてきた自分の涎を流し込んで、飲ませた。
いきなりそんな事をされて、力が入らなくなったらしい。立っていられなくなったように、俺の腕にすがり付いてくる。
その体を落とさないよう抱きかかえながら、シンクの隣にあるコンロ台へ、ぶつけるような勢いで寄り掛からせる。
まだ唇は離さない。自分の口で、あの人の口を覆っていた。このままだと食べてしまいそうだった。
いや、むしろ、食べてしまいたい。それで、この人が誰の手にも渡らず、俺の物になるなら。
腰を持ち上げると、俺より槐さんの方が頭の位置が高くなる。コンロ台に、腰の後ろで乗せさせるようにした。
スイッチさえひねらなければ、別に火は着かない。
あの人も察して、もどかしく浴衣の前をさばき、裾をたくし上げる。
「うあ……あああっ……!」
ブリーフのゴムをずらして、痛いほど硬くなったのを押し込むと、槐さんは泣きそうな声を上げた。
まだ起きたばっかりなのに、もう俺に入れられている。細長い脚を、下品な、がに股に開いて、自分の体重が掛かって奥まで届いて、揺すられる。
「はあっ……俺もう、完全におかしくなってる、あんたのせいだ……!」
おまけに俺から、耳元でそんな風に怒鳴られて犯されている槐さんを見て、俺自身ますます興奮してしまう。
忠義を尽くしたいし、言うことは何でも聞いてやりたい。他の男から守ってあげたいし、誰にも渡したくない。
間違いなくそこまで思っているのに、色気にあてられると、俺は支離滅裂で、滅茶苦茶な事しかできなくなる。
夜はしないと自分で言っておいて、夜が明けた途端に、あの人を舐めて、こんなに激しく抱いてしまうくらい。
台で体重を支えてはいるが、俺の首に腕を回してしっかり抱き着いてくる槐さんを、ほとんど持ち上げているような体勢だ。
「はあっ、はあっ……、んっ、んっ……」
槐さんの声に合わせて、台の下の戸に膝が当たって、がつん、がつんと音がする。大して痛くはないが、うるさい。
造り付けだから、木造の建物に響いてしまう。こんな早朝から何をしているか筒抜けかも知れない。
でも、それで良かった。
俺が槐さんを抱いている事を、知らしめてやりたかった。窓を開けっ放しにして抱くのと同じように。
あの人の尻に手を回して、もっと近くに引き寄せようとしてた。
腰を叩き付けながら、肉をわし掴んで、揉みしだく。左右に開いて、もっと奥に押し込めるように。
肌がぶつかる音が大きくなる。俺の肩や二の腕に腕を回し、体を揺らされながら、うーうー呻いているのも聞こえる。映画に出てくるゾンビみたいな声だ。
苦しそうなくせに、膝や腿でしがみ付いて、締め付けてくる。
舐めている間から、ずっと興奮しっぱなしだった。
限界は、あっという間に来た。
「出るっ……!」
それだけ言って、また槐さんにキスした。
首を上に向けて応じてくる。上と下を同時に塞がれて、びくびくっと体を震わせながら。
昨日の夜は涙を溜めるほど感じ切っていたのに、今はあっさり受け入れている。
それをどこか他人事のように思いながら、俺は今日も早速、槐さんの中に注ぎ込んでいた。
一気に、体の熱が下がっていく。
槐さんの股の間から、俺は糸を引いて抜け出した。
「ふう……」
あの人も俺から離した手をコンロ台に置き、満足そうに息を吐いた。肩が下がって、体の力が抜けているのが分かる。
「……何か、すいません」
そうしてるあの人の肩に額を乗せて、今度は謝っていた。
何に対してなのか、俺にも分からない。
勝手に大事な所を舐めた事、起こしてしまった事、いきなり犯すように抱いた事……。口を濯いだのも、怒鳴って責めたのも、すぐに出てしまったのも悪い気がした。
さっきまでの背徳感が、罪悪感に変わっていた。
槐さんは片手で、寄り掛かる俺の背中をぽんぽんと叩いた。
甘やかされているのか、元気付けられているのか。構わないと許してもらったような気もする。
ちょっと上がった息の中に、あの人の声がした。
「……私の中に直接触った男は、今までにも居たよ」
喋る震動が、俺にも伝わる。
「だが指だけであんなに深く、激しくしてきたのは忠義くんが初めてだ。この私が、許しを乞うなんて……」
夜中の事を、槐さんも憶えていた。
たった今俺がやっていた事より、そっちの方が、この人にとっては衝撃だったらしい。
あの時に、手の中に発射された感じがしなかったのが、俺もこっそり気になっていた。
「槐さんて、あんまりその……出ないんすね。ザーメン」
もうちょっとマシな聞き方ができないものかと自分でも思うが、そこまで頭が回らない。
「種無しだからな。100万回擦っても、出ない物は出ないよ」
槐さんは当たり前のように言ったが、
「えっ?」
俺はつい顔を上げて、聞き返してしまった。
確かに、これまで毎日のようにイク所を見ていても、それらしい物は無かった。関係あるかは分からないが、先走りも少ない気がしていた。
若干、気まずくなる。
「種無しって……え、まじすか」
デリケートな問題と言うか、触れてはいけない部分に土足で踏み込んでしまった気がした。
ここまで来てデリケートも何も無いが。
槐さんは前髪を梳いて、
「仕方ないだろう。生まれつきそうなんだ。まあ、私のような人間が父親になるとは、誰も思っていないし、望まれてもないだろうが」
と、当たり前のように言った。いや、この人にとっては当たり前だから、何も不自然ではない。
だけど俺は、何と言ったら良いか分からなかった。
「はあ」
頭がまだぼーっとしている上に、その頭を、ちょっと強めに殴られたみたいな気分だった。
先天的に、生殖機能が欠けている。自分に当たり前にある物が、この人には無い。
あっけらかんと知らされたその事実は、同じ男として、意外とショッキングだった。
かと言って、可哀想とか同情とか、俺の立場でそう思ってしまうのも、それはそれでまた失礼な気がする。
何でだろう。
そんな疑問が浮かんだ。
生まれつきだから、仕方ない。それまでの事だし、俺がどうこう出来る問題でもないのに。
珍しいと言っても、その気になって探せば、そんな人は多分いくらでも見つかる。
でも、その中の1人が、どうして槐さんでなければいけなかったんだろう。そう思わずにいられなかった。
俺がどれだけ頭を使ったところで、分かるわけがないのに。
でも、こんなに男を狂わせるのは、そのせいなんだろうか。
そんな風にまで考えてしまった。
男から養分みたいに吸い上げるのは、自分では作り出せないから。
この人の本能は、理性も届かない奥深くで、自分の体に不足した部分を補おうとしているのかも知れない。他人のモノを入れたところで、使い回せるわけでないとも知らずに。
同じ体質の、他の人もそうだとは思わない。ひと目見ただけで男を狂わせる男だなんて、1人を除いて見た事も聞いた事も無いから。
むしろ困るのは、子供が欲しい場合だ。女の人を相手にするからこそ、真剣に悩むのだろう。
少なくとも今の槐さんは困っていないはずだ。
それなのに男を誘ってしまうのは、やっぱり、本人の意思よりももっと根深い部分がそうさせているから。
理性じゃなく本能が、必要だと勘違いをして、心じゃなく体で男を求めるから。
誰かといると誘いたくなってしまう。男であれば誰でもいい。女に産まれるべきだったと、よく思う。
本人が何の躊躇もなくそう言っていたのは、それが当たり前だから。
生まれつき、この人の体は勘違いをしている。男を誘うのが、体質なのだ。止めようと思って止められるわけがない。
ここにいたら、俺もまた誘われる。生命力を、根こそぎ吸い上げられる。
うっかり色気にあてられて、絶対に満たされる事のないこの人の空洞の中で、死ぬまで搾り取られて、殺されるかも知れない。
所詮、オスは養分。この人は、自分をメスだと思い込んだカマキリみたいなもんだ。卵を産む事もないのに、ただ交尾をして、最後には食べてしまう。
冷静になってきた頭でそう思ったら、ぞっと寒気がした。
恐くなった。この人から逃げなければ。
「あの……、俺、いったん家、帰ります……」
俺はその人から離れて、ブリーフを引き上げた。部屋の隅に置いていたハーパンを履きに行く。
「そうか。つまらないな」
槐さんはさっきまでの生き生きした様子から、いつもの感情の無さそうな顔と、声に戻っていた。
コンロ台に座り、足もまだ少し開いたままで、ますます人形みたいに見えた。
俺は笑ってごまかそうと、
「休みだもんで、そろそろ散髪行かねーと。さすがにこれは、伸びすぎ」
自分の後ろの髪を触って見せた。金髪の部分の、傷んだ感触が分かる。
散髪に行きたかったのは事実だったが、少しでも、この人から離れる理由も必要だった。
職場に髪色の規定はないし、視界を遮るような危険がなければどんな髪型でもいい。
でも、槐さんの、細くてさらさらしてツヤもある、綺麗な黒い髪を見るようになって、急に自分がダサく思えてきた。この際バッサリ切ってしまって、さっぱりしたい。
そう考えていたのも、事実だった。
玄関の土間に下りて、サンダルを履きながら、ポケットを叩いて中身を確認する。スマホ、サイフ、タバコ。
「終わったら昼メシも買って来るんで、何か、いるものあったら──っつっても、何もないっすよね」
言いながら振り返った時、畳に裸足が見えた。生っ白くてなめらかで、でもしっかりと大きさと骨っぽさがある、男の足だ。
槐さんは俺の目の前に来ていた。
何も言わず、裸足のまま土間に下りてくる。
俺は思わず、戸に背中がつくまで後退りした。
「な、何すか」
そうしたら、仁王立ちになった槐さんが浴衣の裾をまくり上げているのに気付いた。
目を逸らせずにいると、真っ白な内腿の付け根の方から、たらーっと水滴が垂れてくるのが見えた。
俺がさっき出した、槐さんに作れない物だ。
白っぽく濁った液体が脚線を伝って、両脚の間からもぽとぽと垂れて、セメントの土間に落ちる。
量は、そんなに多くない。いずれシミにもならず消えていくような程度だ。
俺には、この人が何を考えているのか、理解できない。
不気味で、ただ見せつけられたような、馬鹿にされたような気がした。お前なんかの“種”は要らない、と。
それを見届けて、何とも言えず顔を上げたら、槐さんが俺を見ているのと目が合った。
「頼みたい事ができた」
ふわっと力の入っていない笑顔で言われて、それまでの恐怖や焦り、馬鹿にされた感覚が無くなった。
一刻も早く離れないとと思っていたのに、警戒心はおろか、下心も消えて、またすぐにでも戻って来たくなった。
性欲ではない、別の感情があった。
あの人が、初めて俺を頼ってくれた。それが嬉しかった。
便所の、オレンジ色の照明の下で、便座に座った槐さんは全裸だった。
付いたら服が汚れてしまうからと、俺が見ているのもお構いなしで、脱いでしまったのだ。細い脚を少し広げて、目を閉じて、じっと待っている。
普段は帯と浴衣で隠れている部分に、傷痕があるのを見つけた。左の下腹で、大きさは3、4センチ程度。盲腸なんかの手術痕にしては変な位置だ。
それ以外にはシミどころかホクロもないし、肌が綺麗すぎるもんだから、どうしても目立っている。
どれだけ乱れても帯を解かなかったのは、これを隠していたからかも知れない。
その割にはあっけらかんと脱いだようにも思うが、本人は気にしているかも知れないので、事情を聞けなかった。
ただでさえ暑いのに、換気扇の効きが悪いユニットバスは、蒸し風呂みたいになっていた。
きつい臭いがして来るのは分かっているし、それが部屋に充満するのもどうかと思う。だが男2人がせせこましく入っていると、何もしていなくても汗が止まらなくなる。
だから仕方なく、土間に繋がる扉は開けっ放しでする事にした。万が一にも誰かが入って来ないように、玄関の鍵は閉めてある。
「あの、ガチでやるんすか? まだ俺、あんま気乗りしねーんすけど……」
槐さんの前に立って聞いた。顔より下、特に下半身は、あまり見ないように。
「忠義くんが乗り気かどうかなんて関係ない。私がしたいから頼んだんだ。私が……見せたいから」
いつもの淡々とした調子じゃなく、少しぶっきらぼうと言うか、不機嫌そうに言われた。
俺が帰ってきた時から、この人はずっとこの調子だ。
目を閉じているのさえ、お前なんか見たくない、と言われているような気分になる。
頼みたい事があると言われた時は、ふわっとした笑顔で、俺も確かに嬉しかったのに。
まさかこんな事を頼まれてしまうとは、想像もしなかった。
「俺はそのまんまの……綺麗な槐さんでいてほしいけど」
どうにも惜しい気がして、今ならまだ止められるんじゃないかと食い下がってしまう。
「考えの浅い男だな、君は。こんな事ひとつした所で、簡単に人間が変わるか。私は今だって、純な君が思っているより何倍も汚いぞ」
強い言葉を使われたのは、珍しい気がした。それほど育ちが良さそうに見えるこの人が、こんな事をしたいと言い出して、しかも、譲らない。
“純”という言葉も否定したかったが、確かに槐さんに比べればまだ、そうなのかも知れない。分からない。
「変わりますよ。今まで見た事……って言うか想像した事もねーんすから。あー、もー、どうしよう、今までと同じ目で見れなくなったら」
自分で言って、ますます不安になってくる。
確かにこの人に狂っているとは言え、こんな事をしてしまって、今までと同じように接し続ける事ができるだろうか。
それも、槐さんの知った事ではないらしかった。
「私だって初めてするんだ。どうなるかは知らない」
無責任なのは、俺だけじゃなく、この人も同じだ。
男は時々、後先なんて考えずに、無茶をしようとしてしまう。冒険でも、挑戦でも、ヒリヒリするような刺激が欲しくなる。
それまでの生活が、マンネリ化していればしているほど。
「ただ、ここで及び腰になるなら、忠義くんの“忠義”はそれまでだと看做 すよ」
そう言われて、ぐっと奥歯を噛んだ。それを持ち出すのは卑怯だ。
「私を好きだと言ったのも、居なくなったらどうやって生きていこうかと宣 ったのも。所詮は私の上辺だけしか見ていなかったんだ。どんな私でも受け入れるくらいの器でないと……」
「分かった、分かりましたよ!」
今度は俺がぶっきらぼうになる番だった。
この人は、何もできないふりをして、こうして相手の弱い所を確実に握って来たらしい。
ただでさえこの人自身が弱点なのに、試すような事を言われたら、男は、挑まないわけにはいかないのだ。それが自分の能力であれ、愛であれ、器の大きさであれ。
腹を括って、あの人の前にしゃがんだ。
「1回入れたらほんとに傷みますからね。もう取り返しつかないっすよ」
「構わないと言ってるじゃないか」
何度も忠告した。これだけ説明しても、諦めるつもりはないらしい。
家から持ってきたハンドクリームを指に取り、あの人の顔にかかっている前髪を上げて、生え際に塗っていく。
今まで意識はしていなかったが、改めて見ると見事な富士額だ。
「まだ目開けてていいのに」
声を掛けても、黙ってじっとしている。
だから手を止めて、その顔をまじまじ見てしまった。
今朝、寝顔を見ていた時よりもっと近くで見ても、やっぱり整った顔だ。
清潔感、と言うよりは、清らか、が正しい気がする。あんな事ばかりしているのに、汚れている部分がどこにもないように思えて仕方ないのだ。
この人を見ていると、普段の会話では口には出さないようなボキャブラリーまで当てはめたくなる。
普段だったら、迷いなくキスしているような距離にいる。
ましてやこれまで何度となく抱いたが、素っ裸を見るのは初めてだった。
つい、下を見てしまいそうになる。
普段浴衣で隠されているあの人の、ソコがどんな風になっているのか。俺は、まだ手で触った事しかない。
まだ、と思っているのに自分で気付いて、上を向いてにやけてしまった。
この人が目を閉じていなければ、変な顔だとからかわれていたかも知れない。
俺は考えを切り替えるべく、黙々と手を動かした。
ソレを見てしまったら、こんな作業は止めてしまうに決まっている。チラッと想像しただけで、こめかみやTシャツの背中に汗が流れてきたくらいだ。
立ち上がって、つむじ、もみあげ、襟足、耳の裏までしっかりクリームを馴染ませて、さらに両耳にビニールのカバーをかぶせた。
自分のをやる時よりはるかに丁寧にしたし、気も遣う。
本当にいいのか。まだ悩んでしまうが、本人の希望だから仕方ない。何でもしますと、答えたのは俺だ。
次は、箱から出した薬剤を混ぜる。と言っても、2種類を容器に入れて振るだけだが。
メンズ向け商品の中でも強めのやつで、蓋を開けると、化学薬品特有のきつい臭いがしてくる。放置しているとガスが発生しますと、警告文が書いてあるほどだ。
立ち上がり、槐さんから見て右横に移動しながら声を掛けた。
「下向いてください」
「こうか?」
短く返事をするのが聞こえる。
お辞儀をするように下がった頭を左手で軽く押さえ、右手で容器の口を下に向けて、襟足の方に薬剤を出していく。
「うわ。すっげー綺麗なうなじ……」
つい、声に出ていた。
細長くて白いのは分かっていたが、刈り上げた後ろの髪の生え際まで、きっちり整えられている。額が富士山を逆さにした形なら、襟足は英字のWみたいな形だ。
昔、女の子の背中に産毛が生えているのを見た時は引いたが、この人にはそれすらないみたいだった。
思わず、指で触ってしまう。
人差し指の関節を曲げて、すっと上に撫でた。
「おい」
下に向いたまま大きめの声で呼ばれ、ギクッとした。慌てて手をひっこめる。
「服や肌に付くと危険だと言ったのは自分じゃないか、気を付けてくれよ」
感情の起伏が無さそうな分、強い口調で言われると怒られた気分になる。
「だっ、大丈夫ですって! まだブリーチ触ってないもんで」
焦って説明したが、
「まったく、味を占めたな。私を褒めればいい思いができると学んだせいで……」
槐さんは溜息まじりに言いながら、俺の方に片手を伸ばしてきた。
見えていないくせに、ハーパンの上からがっしり握られる。
「あっ」
ちょっと痛くて、声が漏れた。付け根からわし掴みにされていた。竿だけじゃなく玉まで、細い指が食い込んでくる。
「趣味の悪い男だ。身動きできないようにさせて、視界まで奪って……」
「すっ、すいません、ちゃんとします! マジ、ちゃんとするんで!」
白い背中と尻を見下ろして謝った。
そうしながら、早く終わらせて、後ろから突っ込んでやりたいと思った。
それにしても、髪を染めてほしいと言われるなんか、まったく予想していなかった。
俺が散髪に行くと言ったから思い付いたのか、それ以外の理由があるのか、逆に何の動機もないのかは分からない。
でも、これまでして来なかった事を、しているのは確かだ。
自分の髪をこんな風に俺に触らせて、しかも、俺と同じ色にしたいだなんて。
『俺のは染めてるんじゃなくて抜いてるだけっす』
『よく分からないが、自分でやってるんだろう? それを私にもしてくれればいいだけだ』
よく分かりもしないのに、全部任せるつもりで、俺に頼んできたのだ。
いよいよ、後戻りができないところまで来てしまった。
1度も染めた事が無いんじゃないかと思うほど状態のいい髪を、素人のセルフブリーチで脱色するなんか。
いくら本人の希望とは言え、本人の髪と同時に、俺の良心まで傷む。
それを堪えながら、ビニール手袋をはめて、襟足に出した薬剤を伸ばして、後頭部の髪全体に広げていった。
コームに出して塗るタイプより、シャンプーみたいに揉み込むタイプの方がやりやすいし、ムラにもなりづらいと知ったのは、いつだっただろうか。
何年もこのスタイルでやって来たが、こうして人にするのは初めてだった。
頭を起こしてもらって、今度は頭頂部や前髪にも塗っていく。
これが自分の髪なら、もっとテキトーに済ませてしまう。今だって、早く終わらせて、“次の事”をしたい。
けど、それと同じくらい、自分のプライドがかかっているから、失敗したくなかった。
髪を染めるよう頼まれて、葛藤もあったが、嬉しかったのは確かだ。
頼み事に加えて、俺と同じ色にしたがってくれたのだけじゃない。もっと、素晴らしい事に気付いた。
今日は26日。今、これをすれば、少なくとも31日まで槐さんは金髪のままだ。
金持ちのオジサンの所に行く時も、そのまま行く事になる。色子なんて江戸時代みたいな呼び方であの人を“身請け”しようとしているのに、抜きっぱなしの、イカついヤンキーみたいな髪色をした男を引き取る事になるのだ。
ざまあみろ。そう思わずにいられなかった。
俺には、槐さんに渡せるほどの物はない。
この人を引き留めておくほどの力もない。
この人の中に、留まっておく事も許されない。
だが確実に、この人を変えた。
花火大会なんてベタな思い出じゃなく、これから先も、なかなか上書きされなさそうな形で。
それに気付いたのは、散髪を終えて、ブリーチ剤を買ってからだ。
髪全体に塗り終えたら、家から持ってきたラップを頭全体に巻いて、薬剤が浸透しやすくする。
「はい。これでオッケーす。あとは20分待って、流して、シャンプーで」
槐さんは、頭の形までバランスが良かった。
後頭部が絶壁でもなければ、ハチが張り出してもいない。小顔なはずだと納得してしまう。
骨格まで端正だなんて、やっぱりこの人は生まれつき、正真正銘の“美人”だ。
「20分か」
そんな美人が、しっとりした低い男の声で繰り返してくる。
間違いなく美人だが、便座に腰掛けて、頭をラップに巻かれた姿は何ともマヌケと言うか、はっきり言ってダサい。
その下に繋がっている背中が色っぽいから、余計にギャップがあって、面白く見えてしまう。
「別に何でも、好きな事しててもらって大丈夫すよ。あんま動かなければ」
洗面台に向いて、使った道具を片付けながら言った。
ビニール手袋も外し、一応、手も洗っておく。やぶれていないのに、手汗で濡れたようになっていた。
視界の端にまだ、白い肩が見える。
首から繋がる曲線はなだらかなのに、肩幅はそれなりにあって、なで肩というわけでもない。男っぽい骨格だ。
俺みたいに全体的にごつくないのは、脂肪も筋肉もない感じだから。顔だけじゃなく、全身に無駄が一切ないのだ。
ハーパンの腰で軽く手を拭いてから、右ポケットに入れているスマホを出して、画面を点ける。
12時38分。8月26日日曜日。87パーセント。
俺はいつも20分と決めて、オレンジっぽい金髪になるようにしていた。
地毛の明るさや毛質にもよるが、あまり長く放置すると、色が抜けすぎて、金髪どころか銀髪くらいになってしまうらしい。
娯楽もないこの部屋で、男を連れ込む以外に、槐さんがどう時間を潰しているのか、俺はいまだに知らない。
一向に、動こうという気配もない。
「本とかいるなら取って来 っけど、ここで読みます?」
「いや、結構だよ。もっと別の過ごし方がある」
気を利かせて申し出たが、あっさりと断られてしまった。
「そっすか……」
いつもの癖で、自分の髪を触ろうとして、そこまでの長さが無くなっているのを思い出す。
顔を上げて、短くなった毛先を両手で触りながら、鏡を覗き込んだ。
映っているのは間違いなく自分なのに、まだ見慣れない。
プリンになっていた金髪は、予定通りばっさり切ってもらった。もう前髪を上げるカチューシャも必要ないし、侍みたいに結ぶ事もない。
ここまでの短さにしたのは、高校以来かも知れない。もう10年以上も前だ。
本当なら上がってきた黒い部分だけにしたかったが、それだと全体のバランスがと言われ、毛先にちょっとだけ金の残った感じになっている。
まだイカついと言われるかも知れないが、今までよりは清潔感もあるはずだ。
もっと早くにこうしておけば良かった。
喪服に金髪は浮くし、親戚の目もあるから、葬式ではヘアスプレーで黒染めをして参列したのだ。
元カノとの関係の清算、引っ越しの手続きや準備、実家への帰省、新居の片付け、槐さんの事に追われて、気付けばあんな伸びっぱなし状態で、夏の盛りに突入していた。
帰ってきた俺を見てから、槐さんがずっと不機嫌なのは気になるが。
その槐さんが、俺を見ているのに、やっと気が付いた。
何も言わず、あの白い顔の中の黒い目の、視線だけで突き刺してくる。
ずっと鏡を見ている所を見られていて、ナルシストと思われたんじゃないか。そう思ったら、却って鏡から目を離せなくなる。
何か言いたいことがあるなら声を掛けてくれればいいのに。
けど、と気が付いた。
さっきまで目を閉じていたあの人が、しっかり目を開けてまっすぐに見てくるという事は、少し機嫌が直ったのだろうか。
そう思っていると、手が伸びてきた。さっきと同じ“場所”に。
今度はがっしり握るんじゃなく、そっと指で形を探ってくる。
「今朝の続きをしよう。20分あれば足りるだろう?」
裸になった槐さんに、誘われていた。
しかも、ダイレクトに言われたのが、嫌味だと気付いた。今朝はすぐに出してしまったから。
「次は20分じゃ済まねーよ」
片手で張り合うように槐さんの顎を持ち上げた。
確かに輪郭は綺麗だけど、頭にはラップを巻いている。ダセェ格好してるくせに。
槐さんは握るのを俺の手に持ち替えて、ぐいっとひねってきた。
「それもいいが、もっとやってみたい事があったはずだ」
腕も体も細いのに、意外と強い力だ。
「痛 てて」
痛みを逃そうと動いたら、さっきしゃがんでいた位置まで戻された。便座に座っている槐さんの前に、向かい合って、膝を突かされる。
槐さんは脚を開いて、タンクに背中を預けるように、俺を見下ろした。
「ずっと欲情していたのは分かっている。私の裸を初めて見たのに、これだけの時間よく耐えた」
お褒めに預かった通り、ここまで耐えていたが、つい、視線が行ってしまう。ずっと気になっていたソレを見るのを、もう止められない。
今朝はまだ薄暗い中だったが、今はオレンジ色の照明の下で、くっきり見えた。
意外と、大きかった。
昨日触った感じでは、俺のよりは細かったから、もっと小さいと思っていたのに。
俺と同じ30代なのに、何なら年上なのに、勃った角度は少し後ろに反るくらいある。
太さよりは長さがあって、血管は浮き出ず、透けて見えていた。
こんな所の形まで無駄がないと言うか、少なくとも、そんなにグロくは見えない。
色が濃くないというのも、あるかも知れない。むしろ剥けた部分はピンクが強いように思う。
他の男に比べれば、あまり、使う用事もないからだろう。擦るほど色が濃くなるというのは迷信かも知れないが。
節くれだっていないから、もしそんな機会があれば、すうっと奥まで届いていくだろう。竿より、刀と言った方が似合う。
自分はともかく他人の“元気”になったモノをじっくり観察するような機会はないし、したいとも思わない。
が、相手が槐さんなら話は別だ。
全裸になって、この至近距離で見て初めて分かったが、付け根には、剃り跡があった。ちょうど、下の毛が生える範囲だ。
いつもは浴衣と帯で隠れていてあまり見えていなかった。
あ、と声が出そうになる。
生まれつき毛が生えないんじゃなく、剃っているのだ。
汚い印象を受けないのは、毛が無いからというのは大いにある気がする。
カミソリ負けしていない肌はつるつるしていて、舌を押し当てて滑らせてみたくなるには違いない。
けど、この綺麗さは、天然なだけではなく、意図して作られたものでもある。
逆に、興奮した。
目が離せなくなっていると、上から声がした。
「私はあまり動けないし、絶好の機会じゃないか」
短くなった髪に指を入れられ、顔に近付けられたら、咥えるしかなかった。
あの人の言う、今朝の続き。
それは、俺が確かに中断した奉仕の事だった。
もう、事実を消したいとは思わなくなっていた。
あの人の腰を片腕で抱き込んで、股ぐらに顔を埋めて、口全体で頬張っていた。
舐めたり、吸ったりしたいが、舌がほとんど動かせない。
鼻で息をするのに必死だ。味も分からない。
まだ動いてもいないくせに、苦しくて吐きそうになる。涎がじわじわ湧いてきて、唇の端から垂れ始めた。
「う、うっ」
でも、口から出したくなかった。入る所まで入れて、感触だけでも味わっていたかった。
「物好きな男だ。普通は私に跪かせて、舐めさせてこそ満足するのに」
頭に手を添えられているだけでも、撫でられているみたいに感じてしまう。
「んっ、ぐ……」
返事ができなくて、呻くしかない。
今までなら絶対にそうだった。自分から、こんな事をしたいなんか、思うはずがなかった。
ほんの何日か前まで、俺は男に興味なんか持たなかったんだから。
全部槐さんのせいだった。槐さんが、俺をおかしくさせたのだ。
この人に、俺以外の男を近付けたくない。この人が居ないと生きていけない。この人が望むなら何でもしたい。
そんな風に思ってしまうほど、俺は狂ってしまった。
少しずつ、ゆっくり、頭を動かす。
ジュポ、ジュポ、と絶対に聞くはずのなかった音が自分の口から漏れて、自分の耳に入る。
それと一緒に、槐さんが褒めてくれるのも聞こえる。
「上出来だよ。見上げた根性だ」
手が伸びて来て、細長い指が、労うように顎をさすってくれる。
「んー……」
返事をする口の中にも、グチュグチュいうのが響いていた。
槐さんはそう言ってくれたが、“これ”は、この人が望んだわけじゃない。
完全に俺がしたくてしている。いや、させてもらっている。
素人のヘタクソな舌使いに、付き合わせているだけ。感じなくても当然だった。
喉の方まで入れたくて、何回も試すが、引っかかるみたいに止まって、反射的にむせてしまう。
「げほっ! げほっ、うえっ……」
「一気にしなくていい。ゆっくり味わうだけでも、したいようにすればいい」
槐さんが感じるどころか、気遣ってくれるのが悔しかった。
俺は今まさに、したいようにしているのだ。
自分がしたいと思って、口に含むだけじゃなく、喉まで入れようとしている。
そうすれば気持ちいいのを、この人にされたお陰で、知っているから。
確かに槐さんは慣れているから、上手いのかも知れない。
けど、この人より体が大きい俺なら、もっといけるはずなのに。
「げえっ、ごほっ、うぅ……」
何回やってもできない。顎も疲れて、首も痛くなってくる。
耐えたいのに、勝手に涙が出てきた。心が悔しいのと、体が苦しいのの両方で。
俺は、奉仕する事すらロクにできない。
舐めてみたくて、味わいたくて、自分がそれを体験した後は、この人にも満足してほしいのに。
同じ男だからこそ、どうされたら気持ちいいか分かるはずなのに。
体が受け入れられない。先端が当たるのが、二日酔いで、吐きたいのに出ない時に、指を入れて押す所だからだ。
口に突っ込んだまま、ぐすっと鼻をすすった。
「忠義くん……、ああ、可哀想に」
気付いた槐さんが俺の顔に手を添えて、親指で涙を拭いてくれる。
30にもなって、便所で裸の男のモノをしゃぶっている。しかも上手くいかなくて、べそをかいて、慰められてしまった。
不甲斐ないやら、情けないやら、申し訳ないやらで、もうプライドもズタボロだ。
「困った子だ。そんなに泣かれると、私が悪いみたいじゃないか」
そう言われて、ようやく口を離した。
ふー、ふー、と息を整えながら、まだ唇は離さずに、あの人の顔を見上げる。
ラップでくるんだ髪は少し明るくなっている気もしたが、照明のせいかも知れない。今は、それどころじゃない。
さっきまでダセェだの何だの思ってたくせに、ダセェのはどっちだよ。
自分が情けなくて、ますます視界が涙でかすむ。
でも、止められなかった。
「もうちょっと、もうちょっとだけ、やらせてください……」
すっかり敬語になって、脚の力も抜けて、床に腰を下ろした、すがり付くような体勢で言った。引き退がりたくなかった。
槐さんは眉をハの字にして見てくる。
今朝の勝ち誇った表情も、ついさっきの見下すような目も、体が熱くなるほどぞくぞくした。けど、今の表情に、俺をからかう様子はない。
「したいなら構わない。ただ、泣くのはよしてくれ。可愛い子をいじめる趣味はないんだ」
可愛い子。そう呼ばれて、悪い気はしなかった。
もう1回。
歯を当てないように、口に含む。刀身を舌の上に滑らせる。
行ける所まで進めて、また先端まで戻る。まだ奥まで入れずに、何往復もした。
そうするうちに唾液が溜まってくるから、やりやすくなる。
細い腰や脚に抱きつき、頭と首を動かし続ける。グチュグチュいう音が口の中から響いて、頭蓋骨まで広がる。
口の中がいっぱいになる度に少しだけ動きを止めて、飲み下した。
鼻息が荒くなっている自覚はある。
朝もそうだったが、気持ちよくはないのに、なぜこんなに興奮できるのか自分でも分からない。
ハーパンの前を開けて、今ここでしごきたいくらいだった。槐さんのを舐めながら、自分でしごいている所を見られたい。
それは変態すぎるだろ。そう思うから、ガマンした。
槐さんが短くなった髪を梳くように、頭を撫でてくれた。
「健気だよ、本当に」
そう言われただけでぞくぞくした。
「ふぐっ……、んー、んー……」
床から腰が浮いて、カクカク揺らしてしまう。
犬か俺は。ちょっと認められただけで嬉しくなって。発情期の犬がやるのと同じ行動を、この人に向かってやっていた。
普段なら俺が世話をする側なのに、完全に立場が逆転した気すらしていた。
ハーパンの中が苦しかったが、そこを開けて自分のモノを触る代わりに、槐さんの開いている足の間に片手を入れた。下に手をくぐらせて、昨日の所を探る。
びく、と槐さんが跳ねた。
「何をして……」
言ってくる途中で、襞の真ん中のぷにぷにした感触を押し込むように、指を入れた。全部じゃなく、関節1個分くらい、少しずつ。
「待ってくれ、それはっ……」
そう言いながら、腰を前に突き出してきた。
嬉しい。言いたかったが、言えなかった。
指を深く進めて、さらに2本目も突っ込む。
前を咥えたまま、後ろを擦った。
グチュグチュ音が聞こえるのが、どっちから鳴っているのか分からない。
「ああっ、だめだ、そっちは……!」
槐さんが頭を押さえ付けてきた。引きはがすんじゃなく、もっと奥に咥えさせるように。
次の瞬間、ごっ、という、音なのか、声なのか分からないのが、俺の喉で鳴った。
気付いたら、呑み込むようにして、奥まで入ってしまっていた。
さっきまで吐きそうで苦しかった、つるんとした先端の感触が、俺の舌の付け根の方にある。
頭上で、槐さんが大声を上げるのが聞こえた。
「あ、あ、あっ!」
今まで聞いた事のない声だ。驚きと戸惑いと、感じているのが混ざったような。
前と後ろを同時にされるのも、俺がここまで入れたのも、この人にとっては予想できなかったのだ。
俺の頭を、両手で抱え込んでくる。
ここで動かしたら吐いてしまう。咄嗟にそう思って、鼻で息を吸った。
そのまま、指を少しだけ動かした。
「あああっ!」
また槐さんが叫んで、開いた脚をガクガク震わせるのが見えた。俺の頭を掴んだまま、背筋を反らせる。
口に咥えた中で、生き物みたいに跳ねるのを感じる。喉の奥や、舌の上に、別の感触が広がる。
ビュク、ビュク、と、液体のかたまりが出ているのが分かった。
「んっ、んっ……!」
俺も思わず声が出ていた。
でも、槐さんは俺の頭を抱いたまま、離してくれない。
俺の状況もまずいが、この人もまずいらしい。イッてる。その最中に、邪魔はできない。
鼻で呼吸を繰り返して、何とか耐えた。
舌の裏にある唾液腺が痛いほど、口の中にどんどん出てくる。
押さえてくる手の力がゆるんだ瞬間に、首の力で押し返した。
入れていた指も抜いて、口から吐き出す。喉を擦られた感触があった。
「おえぇっ! げほっ!」
嘔吐 きはしたが、吐かなかった。出てきたのは、透明な液体だけだ。便器に垂れて流れていくのが見える。
種無しというのは本当らしい。
あの人の脚の間でむせながら、何回も、大きく息を吸った。
「はーっ、はーっ……!」
いつの間にか、槐さんの腿に寄り掛かるように、自分の腕と顔を乗せていた。
横に向いたまま、がはっ、げへっ、と咳き込む。膝枕みたいな体勢になっていると気付いていたが、どかなかった。
喉に出された分は飲んでしまった。
苦しかったが、達成感もあった。
やっと少し落ち着いて、まだ涙でにじむ視界で槐さんを見上げると、ぐったりして額に手を当てていた。
「卑怯じゃないか……」
小さい声で言われた。
「あんな顔で、涙で、私を油断させておいて……、また指を入れたな……」
負けっぱなしだったところから、逆転したような気分になる。
口を手で拭き、涙と汗もTシャツの袖で擦って拭いた。
「はあ……、へへ……」
喉も痛いし、舌や顎の感覚もおかしい。それでも、笑ってしまっていた。
お互いに、格好を付けている場合じゃなかった。
そんな余裕が無くなっても、冷めたり、引いたりしていなかった。むしろダサい所を見せあって、ますます近付けた気がする。
扉を開けているのに暑くて、槐さんも座っているだけなのに汗だくだし、俺もシャワーを浴びたいくらいだ。
「……あっ」
そこでようやく、時間のことを思い出した。
慌ててスマホを見ると、30分以上経ってしまっていた。
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