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Prologue オムファタル⑤
【二十二時四十五分】
街路を往く人波。看板の灯りが舗装に滲み、湿った空気の中に油とアルコールのにおいが漂っていた。
ピンク色のネオン。客引きの声。ホールから漏れ出すカラオケの旋律。
通りを横切るタクシーがクラクションを鳴らし、喧騒が夜風に巻かれて流れていく。
歩道を歩く正義の肩には、黒いショルダーバッグ。片手に持ったスマートフォンの画面が、青白く顔を照らしていた。
地図アプリに表示されているのは、駅前のネットカフェ。徒歩十五分とあった。
大家からは友達の家に泊まるようにと勧められた。
しかし、こんな深夜に泊めてもらえるような友人は、正義の交友関係にはいない。
今さら彼女の家に行けるわけもなく、実家に戻れるほど面の皮も厚くない。
バッグのファスナーの隙間から覗く、充電器のコード。
財布の中は、千円札が三枚と小銭が少し。これが正義の全財産だった。
人混みの中、足元だけを見て歩くような歩幅。
飲食店が並ぶ通りから一本それた、人気のない路地。その奥から、甲高い声が響いた。
「――やめて!」
かすれた高音。怒りとも悲鳴ともつかない声。
足が止まり、正義の視線が声の方向に向いた。
細い裏道。照明の切れた飲食店のあいだ。金属のごみ箱と、積まれた段ボールの山。
その影に、ふたつの人影。
ひとりはスーツ姿の男。明るめの茶髪を軽く巻き、前髪は丁寧に流してある。
白いシャツの第一、第二ボタンは開けられ、覗く首元には細いチェーン。
細身のスーツは体にぴったりと合っていて、腰のあたりで光ったバックルがやけに主張していた。
もうひとりは、ドレス姿の人物。長いストレートの髪。高いヒール。
漆黒のロングドレス。背中が大きく開いた大胆なデザインで、肩甲骨のラインがあらわになっている。
深く入ったスリットから伸びた脚が、ライトに照らされて白く浮かび上がっていた。
男がその人物の肩を掴み、手が太腿を撫でるように滑っていく。
「いいじゃん、こんな格好してさ。誘ってんだろ?」
ドレスの人物が、顔を背けるようにして身をよじった。
「ちがっ、……やめてってばっ」
正義は唾液を飲む。こくりと喉仏が小さく上下した。
次の瞬間、大股で裏道へと踏み込む。つま先が空き缶を蹴り、乾いた音が響く。
「何してんですか、嫌がってるじゃないですか」
男の腕を掴み、ぐいと引き剥がす。
勢いよく掴みすぎてしまったことで、男の体は半回転して後方のごみ袋の山に崩れ落ち。ビニールが弾けて破片が散った。
腐敗臭とアルコールの混じった空気が鼻を突く。
多少やりすぎた感は否めなかったが、嫌がる女性に無理やり手を出すような男には似合いの姿だった。
ドレスの人物を振り返ると、視線が合った。
長い睫毛。濡れたように艶のある唇。耳元に揺れるパールのイヤリング。
ジャスミンとローズを軸にした甘く華やかな香り。ほのかに残るムスク。
香りの奥に、わずかに漂うアルコールの気配。
整った顔立ち。美しい、と言ってよかった。
しかし――喉元にあった影。喉仏。
身長。骨格。手の大きさ。
正義の視線が、その細部を順にたどっていく。
「……男?」
思わず声が漏れた。
ドレスの人物が一瞬だけ固まり、わずかに視線を動かす。
元から手を差し伸べる必要なんてなかったのかもしれない。
お呼びではないと判断した。正義がその場を立ち去ろうとした、そのときだった。
「――竜樹、ダメっ!」
突然、背後から鈍い衝撃。
視界が傾き、黒に染まる。
最後に聞こえたのは、自分に向けて叫ばれた、誰かの声だった。
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