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Prologue オムファタル④

【二十一時五十六分】  街灯がぽつぽつと点る夜道。  自転車の車輪が舗装の継ぎ目を拾い、ガタガタと小刻みに揺れる。  街路樹の間を抜け、交差点をひとつ曲がった先に、赤い点滅灯が見えた。  先に響いたのはサイレン。耳を刺すような音が、夜の住宅街に反響する。  風向きが変わり、焦げたようなにおいが鼻を掠めた。  道の先――白と赤の回転灯、オレンジの炎と光の柱。  細い道沿いに立つ木造アパート。外壁の煤けた痕。一階の窓から上がる火の手。  崩れかけた屋根。露出した焦げた梁。  正義の自転車がふらつく。止める手、踏みしめた足。  自転車を押してアパートの前へ。張られた規制線、黄色いテープ、立入禁止の札、人垣。  築三十年を越す古アパートは、正義のようなフリーターには最適の住居だった。  二台の消防車。地面を這う放水ホース。怒声を上げる隊員たち。  水の勢い、軋む焼け焦げた木材。煙にむせる咳の音。  変形した鉄の階段。崩れかけたベランダ。  路肩に座る住人たち。肩に毛布をかけた中年男性。濡れた髪の女性。  ガードレールのそばでは、寝間着姿の主婦たちが数人、低い声で話していた。 「煙草の不始末が原因らしいわよ」 「ごみ出しの時間も守らないし、迷惑だったのよねぇ」 「夜中にひとりで騒いでることも多かったのよ」 「家賃も滞納してたって聞いたわよ……」  出火元は真下の部屋に住む、三十代から四十代の痩せこけた男性。  おそらく住人全てから嫌われているだろう癌のような男。  運悪く顔を合わせれば、金をせびられたことも一度ではない。  途切れ途切れの声。時折混じる乾いた笑い。  サンダルがアスファルトを叩く音。石鹸と焦げの混ざったにおいがした。 「ああいたいた、アンタ菅野くんだね」  正義の右手側、規制線の向こうから近づいてくる小柄な人物。  白髪交じりの髪、色褪せたカーディガン。厚手のズボンにサンダル履き。  手帳を胸に抱え、少し背を丸めている。  アパートの大家だった。  入居時に一度だけ顔を合わせたことはあったが、主なやりとりは管理会社を通していたので滅多に顔を合わせることもなかった。  正義の前で足を止め、見上げるように顔を覗き込む。  細い喉が上下し、押し出すような声が漏れる。 「スマンねぇ、こんなことになっちまって」 「いえ……大家さんが悪いわけではないんで……」  大家に非があるとするならば、燃えやすい木造アパートをそのままにしていたこと。  それと、迷惑行為をおこなう住人を追い出さなかったことくらいだ。  大家は一度、燃え続ける建物のほうへ目を向けた。  崩れた屋根の端。まだ上がる黒煙。 「今日はもう部屋には入れないだろうね。管理会社のほうから連絡が行くと思うから……今日は、友達のところにでも泊まってくれないかねぇ?」  正義は黙ったまま、立ち尽くしていた。  大家はそれ以上なにも言わず、手帳を脇に抱え、ゆっくりと背を向けた。  アスファルトの上に散らばった、すすけた木片。  風に揺れる立入禁止のテープ。

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