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第1話
スーツに革靴なんて、どう考えても走るための格好じゃない。
それを今、身をもって思い知らされている。
ドラマや映画の刑事は、スーツで犯人を追いかけるのが定番だけれど、あんな格好で本気で走れるわけがない。
実際に走ってみると靴の中で足は動いて痛いし、何より早く走れない。
陸上部で短距離を走っていた経験があっても、これは絶対に無理だ。
そんなことを考えながら、去来川斗楽 は、スーツと革靴のまま横浜中華街を目指して走っていた。
仕事用よりもちょっとだけ高級な、一張羅 。
夏のボーナスで奮発したスリーピースは、小柄な体を縦長に見せてくれる効果ありと、店員の一言でカードを切った。
おまけに革靴まで新調してしまった。
──お客様は可愛らしいお顔立ちですから、ストライプよりも濃紺のシンプルな生地のほうが、お似合いになりますわ──。
なーんて言われて、調子に乗った自分も悪い。
でも、この靴はもうダメだろうな……。
下ろし立ての輝きがあったのは、会社を出るまで。
そのあと、水溜りに勢いよく突っ込んだから……この先は言うまでもないか。
肩で息をしながら、「俺って、どうしてこんなにダメダメなんだろう」と嘆く。
こんなの、今日が初めてじゃないだろ──。
一応、自分にツッコミを入れておいた。
ようやく目的地にたどり着いたのはいいが、似たような通りに店構え。
そして週末の宵の口は、人、人、人で溢れている。
そんな中で、アレを売っている店を探すのは至難の業だ。
「どこに売ってるんだろ……」
こめかみを伝う二筋の汗は、全力疾走したからか、それとも焦りからなのか……。
いま思えば、この状況は横浜駅からすでに始まっていたのかもしれない。
遡ること四十分ほど前。
斗楽は、やらなければならない使命を忘れ、横浜駅の屋外広告に目を奪われていた。
香水を手に微笑む、『浅見薫 』に見惚れて、動くことが出来なかったのだ。
──あー、浅見薫、いつ見てもかっこいいな。
香水のボトルを手にしたその微笑みだけで、道行く人の足を止める。
いや、実際に止まっていたのは自分だったけど。
……そして気づけば15分経過。
慌てて電車に飛び乗ったけれど、頭の中はまだ浅見でいっぱいだった。
その結果、元町駅に着いてから猛ダッシュする羽目になっている。
そして今、斗楽はこの人混みの中で突っ立っていた。
「くっそー、俺ってばどうしていつも肝心なときに抜けてるんだ」
耐えきれず声に出してみたけれど、聞いてくれる人も慰めてくれる人もいない。
前もってネットで購入したところまではよかった。そこは自分を褒めてやってもいい。
でも、それを家に置きっぱなしにして、会場に持ってくるのを忘れるなんて……。
自分の不甲斐なさは、ドジってレベルを超えて、情けなさすぎる。
とはいえ、いくら自分を罵っても、ないものはないのだ。
「早く手に入れて会場に行かないと間に合わない。今年は特別なのに……」
手の甲で汗をぬぐうと、初冬の風がしっとりと濡れた肌を一気に冷やしてきた。
斗楽はぶるりと身を震わせ、ここでコートを会社に忘れてきたことに気付き、また落ち込んだ。
……だめだ。凹んでたら、みんなを笑顔にできない。
今日、全うすべき使命は、まだひとつも果たせていないんだから。
自分を奮い立たせると、痙攣 する横隔膜をいたわりながら、再び店を探して走り出した。
提灯やライトアップされた建物に眩暈を覚え、賑わう雑踏を掻き分け、アスファルトに革靴を跳ねさせた。
そしてようやく市場通り門にたどり着くと、ある店の軒下に飾られていた、アレが目に入った。
斗楽は、人の波に逆らうようにして、その店へと飛び込む。
「あった……。よかった、これで第一関門クリア」
小さくガッツポーズしていると、店の奥から店主らしき男性が「いらっしゃい」と声をかけてきた。
ゴクリと唾を飲み込む。
喉を鳴らしてから、深く息を吸い込んだ。
「……ダートーウトーウマァイッ!」
店内に響く大声と、聞き慣れない発音。
店主は一瞬きょとんとしたあと、首をかしげた。
……うそ、通じてない?
焦った斗楽は、同じ言葉を少しずつトーンを変えて繰り返してみる。
だがそのたびに、店主の眉間にはシワが一本ずつ深く刻まれていった。
──どうしよう。俺の中国語、わかんないのかな……。
発音の壁に肩を落としていると、突然、店主が手のひらに拳を打ちつけた。
「ああ、中華お面を買いたいのかい?」
そう言って、軒先にぶら下がっている、〝おちょぼ口で薄ら笑みを浮かべる、デカい少女の顔〟を指さした。
「あ、えっ、あれ、日本語……? あ、いや、そう、それですっ!」
流暢な日本語に驚く斗楽の顔を見て、店主が大声で笑った。
「お客さん、ここで店やってる中国人は、ほとんど日本語しゃべれるよ。私も二世だしね」
まだ笑い足りないのか、店主は「ヒッヒッ」と引き笑いしながら、少女の頭を棒で引っかけて取ってくれる。
ゴミ袋サイズのビニール袋に、ゴロンと入れられた目と合った瞬間、斗楽は気付いた!
「また騙された……」
そう呟いて、憎々しげに地団駄を踏んだ。
店の人間は中国人ばかりだから、日本語じゃ通じないぞ──
そう同僚に言われたのを、まるっと信じてしまったのが運の尽きだった。
そして教わった名前が、『大頭頭 』。
聞いたこともない、馴染みのない単語。
「中華街って行ったことないんだよなぁ」と、こぼした瞬間、斗楽はまたしても〝いじられキャラ〟としての餌食になったということだ。
愛想も素っ気もない袋の中で微笑む少女は、一見するとゾッとして二度見してしまう。
生首にしては、ちょっと大きいけれど。
日本語ペラペラの店主を恨めしそうに見ながら、斗楽は少女の首を受け取って店をあとにした。
「……早く着いて、準備もしないと。間に合うかな」
焦る気持ちはあるけれど、会場が中華街からそう遠くないのは、せめてもの救いだった。
「よいしょっ」
袋の中の〝生首〟──いや、中華お面をサンタクロースのように背負い、斗楽は再び駅を目指して足を速めた。
駅から会場までは、徒歩で二十分ほど。
まだ、少しだけ時間の余裕はある。
でも、ここは走るべきだ。
少しでも練習の時間は確保しておきたい。
何たって、ぶっつけ本番なのだから。
斗楽は袋の中身が無事なことを確かめると、お面を背負い直して再び走り出した。
幹線道路沿いを駆けていると、同じ方向に進んでいた黒塗りのリムジンが、スッと自分の横で止まった。
向こうも信号に引っかかったみたいだ。
斗楽も立ち止まると、酷使してきた足を休めながら、チラッとリムジンに目を向ける。
──こんな車に乗る人って、すっごいお金持ちなんだろうな。
庶民代表のような気分で車を見つめていると、後部座席に座っていた黒縁眼鏡の男性と目が合った。
遠目でよく見えなかったけれど、彼の瞳は見開き、青ざめた顔でこちらを凝視しているように思えた。
……な、何? なんでそんな顔して──
目をぱちくりさせた瞬間、斗楽は閃いた!
これかっ!
自分の背中に背負っている〝生首のようなお面〟を肩越しに見た。
そりゃ、びっくりするよな。
申し訳ない気持ちでリムジンの方を向くと、聞こえもしないのに「エヘヘ」と苦笑いをして見せた。
顔はよく見えなかったけれど、ひきつったまま瞠目している気配だけは伝わってくる。
怪しいモノを持ってるヤツがいる──なんて、通報されたらシャレにならない。
ここは早く立ち去るべし。
走りすぎて痛む脇腹を押さえながら、信号が青になった瞬間、斗楽は横断歩道へと飛び出した。
黒塗りのリムジンは、あっという間に自分を追い越していったけれど、乗客がこちらを見ていたかどうかは、もうわからない。
──変な男だったな、それだけで済みますように。
そう願いながら、斗楽は足を速めた。
せっかくキメ込んだスーツは、汗とシワでぐしゃぐしゃだ。
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