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第2話

 横浜駅から二十分ほど歩いて、斗楽は目的地にたどり着いた。  もはやコートがなくても、いい感じに体が温まっている。  アルモントホテル──  庶民の憧れ、四つ星ホテル。  ここを会場に選ぶなんて、会社の上層部は太っ腹なのか、それともヤケクソなのか。  ゴージャスな装飾に、顔が映り込みそうなフロア。  そこを不気味な顔を引っさげたスーツの男が通れば、上品なスタッフの視線も怪訝になるのは無理はない。  斗楽は逃げるように、エレベーターへと乗り込んだ。  誰も乗って来ないことを確認すると、肩でため息をはきながら五階のボタンを押す。  扉が閉まるのと同時に「やれやれ」と袋を下ろした。  スケルトンの箱から外の景色を眺めると、自然とこぼれたため息でガラスが曇る。  ビル群の灯りと、煌めく観覧車。  まばゆい光が海面に映る光景は幻想的で、焦っていた斗楽の心をそっと癒してくれる。  夜景を見下ろしていると、ふと、総務課の誰かが話していた言葉がよぎる。  ──スカイバンケットルームからの眺めは格別なのよ!  瑠璃を()ったような夜空に近い会場では、別世界の人たちが美酒を酌み交わし、ときには甘い言葉を囁いたりするのだろうか── ……そんな世界、ゲイを自覚してる自分には縁遠い。  窓に映った顔を苦笑いに変えると、見えもしない最上階を見上げた。  天空のパーティに参加する人たちの足元にも及ばない、我が社の忘年会はまもなく始まろうとしている。  今日は、会社創立五十周年の祝いも兼ねた特別な夜だ。  その進行を、滞りなく終わらせる使命を託されたのが、斗楽だった。 「あーなんか緊張してきたな」  目的の階への到着を知らせる音が鳴り、斗楽は足を前に出しかけて……それを引っ込めた。  そのまま、そっと後ろへと戻る。 「……あと少し時間あるし。ちょっとだけなら、いいよな」  走り回ったご褒美だと甘い言い訳をして、斗楽は三十階のボタンを押した。  今夜みたいな機会は、そうそうない。  せっかくだから、最上階の景色を拝んでやろう。    エレベーターが上昇するにつれ、人口の灯りがどんどん小さくなっていく。  それを見送りながら、斗楽はふと、空を仰いだ。  都会の夜に星を期待しちゃいけない──そう思いながらも、つい、星を探してしまう。  ぽかんと口を開けて、濃紺の空を眺めていたら、いつの間にか最上階に到着していた。  扉が開いた先は、五階とはまるで雰囲気が違う。  あまりの特別感に気圧されて、斗楽は一歩を踏み出せずにいた。  けれど、閉まりかけた自動扉に背中を押されるようにして、反射的にエレベーターを飛び降りてしまう。 「……すご」  降り立った瞬間、息を呑んだ。  特別な場所は空気まで違うのだろうか。  クリスタルのような混じり気のない、透明な気体の層が漂っているようだ。  静寂な廊下には等間隔に淡い光が点在し、革靴の爪先がその恩恵を受けて輝いている。  踵が完璧に埋まってしまうカーペットを数メートル進むと、重々しい扉を見つけた。  重厚な壁の向こう側はどんな世界だろう。  未知の空間に思いを馳せていると、背後から人の声が聞こえた。  斗楽は慌てて廊下の端の、弧状(こじょう)に身を潜める。  すぐ目の前を、露出度の高い(あで)やかなドレス姿の女性と、和服姿の美しい女性が通り過ぎていく。  二人はためらうことなく、さっきの部屋へと吸い込まれていった。  押し開けられた扉の隙間から、一瞬だけ中の様子が垣間見える。  そこは、映画で見た英国の社交場のように煌びやかで、非日常の光に満ちていた。  華やかな来賓たちの談笑が、静かに廊下に漏れ出してくる。  ほんのちょっと、最上階からの景色でも──なんて、いい気になった自分が恥ずかしい。  五階で会社の忘年会をする自分と、三十階でパーティに出席する人たち。  立っている場所が違えば、世界もこんなに違うのだと、痛感する。    場違いだと思い知らされた斗楽は、静かに背を向けると、現実の世界へとすごすごと戻っていった。

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