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第3話
忘年会も中盤に差しかかるころ、出番を控えていた斗楽は練習に余念がなかった。
会場の外で組んだ腕を解いたり、また元に戻したり。時々、ステップなんかもしてみた。
頭から湯気が出そうなほど、妙案を捻り出そうとしている。
一世一代の舞台を前に気持ちを高め、必死で自分を奮い立たせていた。
まず考えた作戦は、こうだ。
とりあえずウケを狙う!
そのためには、ツカミが命!
……とはいえ。
生まれも育ちも関東の自分には、関西人のように自然と笑いを会話に盛り込めるほどのテクニックなんて、ない。
斗楽は、お笑い番組のワンシーンを頭の中で再生しながら、「あーでもない、こーでもない」とつぶやきつつ、小走りしてみたり、ゆっくり歩いてみたり……と、一人で試行錯誤を繰り返していた。
でも、どうしても、しっくりこない。
──そうだ。
本番と同じ状況にしてみれば、感覚が掴めるかもしれない。
そう思い立った斗楽は、苦労の末に手に入れた〝例のブツ〟を、そっと頭にかぶせた。
少女の顔を模したお面──
両目部分はくり抜かれているが、中は暗く、視界は極端に狭い。
足元なんて、まったく見えなかった。
それでも斗楽は、さっきと同じように小走りしたり、飛んだり跳ねたりを繰り返した。
狭い視界の中で、己の間抜けな姿を想像しながら──
会場のすぐ隣にある従業員専用の通路は、足元灯しかなく、奥まで見通せないほど薄暗い。
おまけに通路にはパーテーションもあるから、視線が気になればそこに隠れることもできる。
こっそりと練習するには、うってつけの場所だった。
異常に大きな頭にスーツ姿は、はたから見ると面妖だろうな。
そう思いながらも、最高の催しにするための練習は怠らない。
両肘をそろえ、曲げたまま顔のそばに持っていく。
それを上下に動かしながら、戯 けたような素振りを斗楽は何度も試していた。
「……まだまだ、ぎこちないなあ」
つぶやきながら、お面ごと首を傾げる。
今度は、漫才師がお囃子に合わせて舞台に登場するときのような動作もやってみた。
心の中で『ど〜も〜!』と挨拶しながら、片足を引き、手を振ってステップ。
……これじゃまるで盆踊りじゃん、と自分にツッコミを入れつつも、腕を上げたまま足を動かす。
我ながら滑稽だな……そう思いながら繰り返していた、そのとき──
ふと、背中に視線を感じた。
──え?
盆踊りの振り付けのまま、スローモーションのように振り返る。
そこには、まるで熊にでも遭遇したかのような顔で、斗楽を凝視してくる男性が立っていた。
スラリと伸びた手足に、布の上からでもわかるほど完璧に整った筋肉。
程よく厚みのある胸板を備えた逆三角形の体型は、まるでギリシャ彫刻のように秀麗だった。
上品なチャコールグレーのタキシードが、その均整の取れた肉体をいっそう艶やかに際立たせている。
しなやかな手で、額に落ちかかった前髪を優雅にかき上げたその仕草を見た瞬間──
斗楽は、思わず大声で叫びそうになった。
黒縁の眼鏡をかけていてもわかる。
目の前に立っているのは、日本人の多くが知っている、まさに、俊傑 を偶像化したような人物だった。
腕を曲げたままの姿勢で硬直し、ただ呆然と見つめている斗楽に向かって、男性がぽつりと呟く。
「……お面……」
目を見開いたまま、困惑と驚きの色を浮かべる男性。
その反応は、無理もない──。
超がつくほどの高級ホテルの通路に、体はスーツで、首から上に、異様に大きな少女の顔を載せた人物が一人、滑稽 なポーズで突っ立っているのだから。
黒々とした前髪がくるりと額に張り付き、色白で無表情な、おちょぼ口のお面。
どう見ても感情が読めないその顔は、見る人によっては、人を小馬鹿にしているように思われるかもしれない。
男性の視線を浴びたまま硬直していた斗楽は、慌てて手足をバタつかせた。
咄嗟にその場から逃げ出そうとしたが、狭い視界と、極限の緊張と驚きのダブルパンチ。
足がもつれてしまった!
「うわぁっ!」
叫び声とともに盛大に転倒し、そのまま尻餅をついた。
「いっっった……」
羞恥で顔から火が出そうになり、斗楽は思わず頭を抱えた。
腕で顔を隠そうとしたが、手が届かない。
……そうだった。今、自分の顔には少女の〝顔〟がついている。
こんなデカい頭じゃ、両手でなんか隠れない。
自分の出立ちをあらためて自覚した斗楽は、恥ずかしさで死にそうだった。
顔を右往左往させ、隠れる場所を探した。
そのたびにお面がガクガク揺れる。
視界はぐらぐらして、額からは汗が噴き出してきた。
けれど……外から見えているのは、何食わぬ顔をした少女の無表情──
「ぶっ……あっはっはっはっ!」
突然、人気 のないフロアに、男性の爆笑が響き渡った。
その笑い声を聞いた瞬間、斗楽は恥ずかしさを忘れ、少女の頭を揺らしながら辺りを気にした。
視界の端に笑い声の主を捉えながら、なんとか立ち上がろうとするけれど、お面の中からでは足元が見づらくて、上手く踏ん張れない。
「君、大丈夫かい?」
まだ肩を揺らして笑う男性が、眼鏡を外しながら、目尻の涙を指でぬぐっている。
何気ない仕草と、間近で聞く〝生の声〟。
もう、目も鼓膜も溶けそうだった。
でも、今はそれどころじゃない。
斗楽は、背後の会場扉に神経をとがらせる。
今、誰かが出てきたらホテルは大パニックだ。
それだけは、絶対に阻止しなければ!
対策を練っていると、ふいに視界の中に、美しい手が差し出された。
「ほら」
男性が、手を差し伸べてくれている。
座り込んだままの斗楽を、起こそうとしてくれている。
──え、うわ、うわ、うわ……手を……俺に手を差し伸べて……る。
斗楽は、目の前の指先と男性の顔とを、交互に見上げた。
視線が合いそうで、合わせられない……!
直視なんて、できない。こんなの無理だっ。
ましてや、その手に……触れるなんて、絶対、無理だっ。
いつまでも斗楽が手を差し出さないからか、焦れた男性が手首を掴んできた。
華奢な体は、逞しい腕で勢いよく引き上げられる。
その反動でたたらを踏み、斗楽の体はタキシードの胸に寄りかかってしまった。
受け止めてくれた体から、魅惑的な香りがお面越しにでも伝わり、かぐわしい芳香に目が眩みそうになる。
「おっと、大丈夫?」
甘い声で囁かれ、心臓にとどめを刺された。
惚 けていると、賑やかな女性の声が微かに耳に届き、会場の扉が開かれる気配を感じた。
まずい──
そう思ったと同時に、斗楽は反射的に浅見の腕を掴んだ。
「こっち!」
そのまま浅見をぐいっと引っ張った。
従業員通路の奥、パーテーションの裏まで走るように移動すると、彼の体をその中に押し込んだ。
位置をさっとずらし、外から見えないよう〝蓋〟をする。
「えっ? な、何?」
不意を突かれた男性の声が、パーテーションの中からくぐもって響いた。
されるがままの男性を隠すよう、斗楽は、その隙間を埋めるようにピタリと立ちはだかる。
「斗楽ー、頑張ってる?」
ちょうど男性姿が見えなくなったタイミングで、会場の扉が開いた。
斗楽はとっさに、練習しているフリをしながら、その声に振り返る。
「槇 ちゃん、お疲れ」
現れたのは、槇亜果里 。
斗楽は、さりげなく彼女から〝後ろ〟をガードするような体勢をとり、さも芸を磨いているかのように、両腕を上下させてみせた。
「災難だったね、斗楽。朝日 がインフルでさ……本当はあの子が、そのお面を被る予定だったのに」
腕を組み、呆れにも似た怒りを滲ませる声で、槇が労いの言葉をくれる。
ショートカットに、猫のようなアーモンドアイ。
パンツスーツが定番の彼女だけれど、今日のようなタイトスカート姿もかっこいい。
思わず「姐御!」って呼びたくなる。
でも、それを口にした瞬間、たぶんゲンコツが飛んでくる。
だから言わない。
入社以降、しっかりそれを学習した。
気心知れた槇とは同期で、入社以降、気が合ってよくつるんでいる。
斗楽がゲイだと告白しても、あっけらかんと笑い飛ばす、夏の青空のような性格が自慢の親友だ。
「けど俺は朝日の教育係だしさ。代役しろって言われたら断れないよ、お笑い担当としてもね」
斗楽は、ハリボテの頭をポリポリとかいて、おどけてみせる。
それにくすっと笑って、槇が答える。
「斗楽らしいね。でも何か手伝うことがあったら言ってよね。じゃ、このあとの出番、頑張って。創立五十周年の忘年会が盛り上がるかどうかは、アシスタントさんにかかってるんだから」
脅しをひと雫混ぜたような激励をもらった斗楽は、にこやかに去って行く槇に手を振った。
「相変わらずはっきり言うな、槇ちゃんは。でもよかった、バレなくて」
彼女の姿が見えなくなり、ようやく胸を撫で下ろした──その瞬間。
斗楽は、自分のやらかしを思い出して、真っ青になった。
「──ああああっ!」
慌ててパーテーションを引きはがし、
「すいません、すいません、ごめんなさい!」と、お面をつけたままで、頭を下げ続けた。
少女の頭のまま、うつむいて反省していると、革靴が近づいてくるのが視界に入る。
斗楽のすぐそばで止まると、タキシードの腕が伸びてきてお面に触れられる気配。
その瞬間、スポッと顔からお面が外された!
目が、急な明るさに追いつかず、斗楽は思わず双眸をギュッと閉じた。
密封された空間から解き放たれて、ひんやりとした空気が頬をなでる。
しんと静まり返った気配の中──斗楽は、恐る恐る目を開けた。
そして、正面に立つ人物に瞳を奪われる。
彼から放たれる輝きが、まるで矢のように、斗楽の胸を貫いてくる。
──ホ……ホンモノ?
浅見薫 ──あの浅見薫が、今、目の前にいる。
信じられなくて、目をこすって見上げた。
……でも、やっぱりそこにいる。
笑ってる。夢じゃない。
や、やっぱり見間違いなんかじゃなかった。
呆然としていると、芸能人特有のオーラをまとったその顔が、フッとやさしく微笑んだ。
それは生まれたての太陽みたいな、そんな眩しさ。
斗楽は、その光に目を細めたまま、もう動けなくなっていた。
ここ最近は、映画やテレビでしか見たことのない、憧れの人。
その人が現実の光景として、ここにいる。
もう、これは夢だとしか思えない。
陸に上がった魚のように、斗楽が口をぱくぱくさせていると、浅見が先に口を開いた。
「君、可愛い──いや、失礼。男? だよね。それ、メンズスーツだもんな」
唐突に言われたその言葉は、斗楽にとって子どものころから何度も聞いてきたセリフだった。
丸い輪郭に、ぱっちりした瞳。
長いまつ毛に、ぷっくりした唇。
あどけない顔が可愛いと言われる反面、『斗楽』という勇ましい名前とのギャップをネタにされてきた。
スカートでも履けばまるで女子だな、なんて、定番のいじられ方は耳にタコ。
昔はそれを褒め言葉だと信じて、言われるたびに喜んでいた。
でも今は……大人になった今では、それを言われると、男としてはちょっと、複雑だ。
──だけど。浅見薫だけは、別格だ。
彼に声をかけてもらえるなら、女みたいと言われようが、ちんちくりんと言われようが、すべてが尊い。
一文字、一文字が、ダイヤモンドのように煌めいて、心の宝箱にしまっておきたいくらいだった。
お面のせいで、前髪が額に張り付いていることにも気づかず、浅見の〝生声〟にうっとりしていた。
すると、不意にそこへ長い指先が触れてくる。
「前髪が乱れてるな。せっかく陶器みたいな肌なのに、こんなに汗かいて」
──さ、触ってる……。
浅見薫が、俺に、触れてる……!?
こ、これ、どういう状況なんだ?
肌の熱をどうにもできず、斗楽は「あの、あの……」と、うわ言のように繰り返すばかり。
そんな様子に、浅見がまた声をかけてくる。
「君、さっき何してたの?」
視線をさまよわせていた斗楽は、恐る恐る浅見の顔を伺った。
「え……えっと、えっと……」
普段なら初対面の人でも話せるのに、目の前にいるのが『憧れの人』となると話は別だ。
声が喉に詰まって、まるで言葉を覚えたての子どもみたいに文字が途切れる。
「あっ!」
突然、浅見が声を張った。
その声に、ビクッと体を萎縮させていると、クイズの答えがわかったような清々しい顔を向けてくる。
「そうか……さっき車から見たのは──ブッ、クックック、アハハ、あー、なるほど。そういうことか」
浅見が、愉快そうに少女の顔と斗楽を交互に見ながら吹き出した。
「あ……の……」
「い、いや、すまない。それより、その格好って何かの出し物?」
「は、はい。あの、こ、これは忘年会の余興でありますっ!」
斗楽は思わず軍隊のようにピシッと敬礼をして、大きな声で返事をした。
その仕草がツボだったのか、また腹を押さえてクッククと笑いを噛み殺し、肩を震わせている。
そしてとうとう笑いが爆発し、浅見が胸をのけ反って爆笑した。
「そ、それはそれは、衛兵殿。ご苦労様です!」
同じポーズを取りながら、まだ笑いが止まらない様子で返してくる浅見。
自分の放った言葉がそんなにおかしかったのかと、斗楽の耳朶は真っ赤になっていた。
「す、すいませんっ! お、俺、おかしなこと言って──!」
残像が残るほどの勢いで、斗楽は体をぺこりと二つに折った。
──恥ずかしい。何言ってんだ、俺は。バカすぎる……!
顔を上げられないまま俯いていると、浅見がゆっくりと近づいてくる。
その気配がすぐそばまで迫り、ふいに腕を掴まれた。
そのままそっと手が肩に移動して上体を起こされると、二人は正面から向き合う形になった。
百七十にも満たない自分の身長に合わせて、浅見が体を屈めてくる。
近い、近い、近い……。顔が、近い。
一流の相好が、鼻先すれすれの距離まで寄ってきた。
思わず、息を止める。
すると、いきなり顎をそっと掴まれた。
「君、面白いな……それに、かわいいね」
囁くように低く、甘い声。それが斗楽の鼓膜に、直接触れるように流れ込んでくる。
眼球が今にもこぼれ落ちそうなほど、目を見開いたまま固まっていると、浅見の長い指が、額の乱れた前髪に触れた。
指先が、そのまま頬へと滑ってくる。
浅見が肌に触れて、撫でてくる。
その指は、確かめるように何度も柔肌を摘んでいた。
「あ、あの……?」
斗楽の頭の中では、疑問符が乱れ飛び、もう何が起きているのか理解が追いつかない。
──浅見薫が。俺の顔に。触れてる……!
動けない。何もできない。
斗楽は、ただ、されるがままだった。
予想もしなかった行動に戸惑いながらも、勇気を振り絞って声をかけた。
「あ、あのっ!」
浅見の視線が、はっきりと斗楽に定まる。
その虹彩が光を反射して、眼鏡のレンズ越しにまっすぐ自分を見ている。
「ああ。ごめん、ごめん」
口では謝りながらも浅見の指は、まだ斗楽の頬に触れたままだ。
どうしていいかわからず、体を固くしていると、人が近づく足音を拾う。
次の瞬間、まるで鳥が羽ばたくように、その指は、ふっと離れていった。
「じゃあな、斗楽君」
その一言とともに、浅見の完璧な背中がエレベーターホールへと向かっていく。
斗楽はただ、呆然とその後ろ姿を見送るしかなかった。
しばらくの間、動けずにいた足は踏ん張る力を失い、タオルをたたむように、その場にへたり込んでしまった。
「……な、何だったんだ……?」
さっきまで浅見の手があった頬をつねってみる。
「いたっ……ってことは、夢じゃ……ない……?」
この場に、あの浅見薫がいた。
忙しさのあまり、自分は幻でも見ているんじゃないかと疑ってみた。
けれど、頬の痛みが現実だと教えてくれる。
「しかも……俺の名前、呼ばなかった?」
あの、甘くて柔らかい声で。
「斗楽君」──と。
耳に焼きついた記憶が、今も繰り返し再生される。
じわじわと実感が込み上がり、誰かが見たら引くんじゃないかってくらい、顔がニヤけた。
「でも、なんで名前──あっ、これか!」
首から下げていたIDカードに、再び表情筋がだらしなく歪んでしまう。
憧れの浅見薫が、自分の名前を呼んだ。
頬に、触れた。それが、どれだけ嬉しいことか。
もし、ここがホテルじゃなく海岸だったら、間違いなく水平線に向かって思いっきり叫んでいる。
──浅見薫が大好きだっー!
中学生のとき彼を初めて知って、その日からずっと好きだった。
斗楽は、今でも変わらず『浅見薫ファン」を続投している。
尊敬、憧憬、恋情──
すべての『好き』を植え付けたその人は、斗楽に取って特別な存在だった。
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