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第4話

 忘年会から一週間が経つというのに、斗楽の頭の中には、いまだに浅見薫が住み着いたままだった。  少し低めで、甘い声。  煩悩を刺激してくるあの声音で、自分の名前を呼ばれた記憶が、何度も胸を締めつける。  眠れない日々が続くのも、仕方がない。  だって、自分の人生で〝出会えるはずがない〟と思っていた人に、実際に……触れられてしまったのだから。  あの夜、浅見の指先が残した刻印は、まるで火傷のように熱を帯びている。  でも、こんな傷なら──治らなくてもいい。  リアルな微笑みは、とてつもない破壊力で、 目を閉じたくらいでは到底消えてくれない。  それはもう、斗楽を翻弄し続ける呪文みたいに心に残っていた。  あの日の出来事は、斗楽にとって生涯忘れられない宝物になった。 「すいませんっしたーッ!」  朝イチの職場に響く、元気な謝罪の声。  すっかり体調を回復させた松田朝日(まつだあさひ)の登場に、斗楽は現実に引き戻される。  忘年会の代役を務める原因になった張本人。  元気な後輩を見た瞬間、あの衝撃的な出会いがフラッシュバックしてしまった。  ──ああ、俺、かなり重症だ……。  長身を折り曲げ、朝日が申し訳なさそうに上目遣いで覗き込んでくる。  くっきりとした二重が悲しげに垂れ下がっていて、思わず「余裕だったぞ」と言ってやった。  でも、本当は謝らなきゃいけないのは、こっちの方かもしれない。  みんなには申し訳なかったけれど、あの夜は、浅見との出会いが衝撃的すぎて、忘年会どころじゃなかったのだから。  斗楽の勤める会社は、横浜駅近くにある『アヴェクトワ株式会社』。  広告代理店として、あらゆるジャンルの案件を請け負っている。  斗楽は大学卒業後、プランナースタッフとして入社し、今年で4年目。  今もいくつかの広告案件を抱えたチームの一員として、忙しい毎日を過ごしている。  年末までの目まぐるしい日々がようやく落ち着きを見せはじめたのは、週末を目前に控えたまさに今日。  斗楽は肩で大きく息を吐き、デスクに体を預ける。  今日は一日中、会議資料とにらめっこ。  肩も腕も、パソコンと格闘した疲れでガチガチだ。 「斗楽先輩、今日はもう終わりっすか?」  まるで散歩を待ち望んでいるワンコみたいに、朝日が笑顔で席にやってくる。 「うん、終わりそう。今日は久々に定時で帰れるかな」  斗楽は天井に向かって両手を伸ばし、思いきり背筋を伸ばした。 「あ、だったら、帰りに飯でも──」 「去来川!」  ピンッと張った弦のような声が、オフィスの空気を切り裂く。 「ごめん」と片目をしばたかせ、斗楽は朝日に合図を送ると、上司のデスクへと向かう。 「日下部さん、どうかしたんですか? そんなに慌てて」  あまり取り乱すことのない日下部が、珍しく眉根を寄せていた。  ──日下部亨輔(くさかべきょうすけ)、34歳。  長身・正統派イケメン・独身。  社内でも評価が高く、広告制作部の中でも数々の実績を誇る、斗楽にとっては憧れの上司だ。  幹部からの信頼も厚く、後輩の指導力にも定評があって、『優良物件』と密かに囁かれているのも頷ける。  そんなベテラン上司が焦っているのだから、余程のことだろう。 「悪いけど今から、アイルジャパンに見積もりを取りに行ってくれないか」 「アイルジャパンにですか?」 「ああ、駅ビルの広告塔に出す見積もりだ」 「それだったら、来週月曜に打ち合わせを兼ねて受け取る予定じゃ……」  鞄から手帳を取り出し、ページをめくって日程を確認する。 「その予定だったんだが、先方の担当者から今、電話があって、急な出張で月曜から不在になるそうなんだ。打ち合わせの日も変更してほしいと言っている」 「急ですね。わかりました、今から行ってきます」  返事をしながら自席に戻ると、手早く出かける準備をした。 「悪いな、定時過ぎてるのに。今日は直帰していいから」  日下部が申し訳なさそうに言う。  上司なのに偉そうにしないし、おごらない。 それどころか、気の利いた労いの言葉を、タイミングよくくれる。  今みたいに、予定外の仕事を頼むことにも気を遣ってくれる、部下に近い位置にいてくれる秀逸な人だ。  ──そりゃ、女子に好かれるのも無理ないよな。  もう次の作業に没頭している背中を横目で見ながら、斗楽はちょっとだけニヤけた。  周りからの熱視線に本人がまるで気づいていない。  ……それがまた逆に、そそられるんだろうな。 「ありがとうございます。じゃ、行ってきます」  コートを手に部屋を出ようとしたら、朝日が、「行ってらっしゃい、気を付けて」と、声をかけてくれた。  可愛い後輩に見送られ、斗楽はふと思った。  ──自分も、日下部さんみたいに、頼れる先輩にならなくちゃな。  斗楽は返事の代わりに、満面の笑みで手を振った。

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