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第5話

 無事に見積書を受け取った斗楽は、本来ならそのまま直帰する予定だった。  ──なのに、なぜかタクシーに乗って会社に戻っている。  理由はこうだ。  重要書類を持ち帰るのが不安なのが半分。 それから、上司に目を通してほしいという気持ちが半分。  そんな気分で乗り込んだタクシーだった。  会社の前に着き、財布を出そうと鞄を引き寄せた。  だが、口がちゃんと閉まっていなかったのか、膝に乗せた拍子に、鞄の中身が零れるように足元へ滑り落ちた。  書類も一緒に落ちてしまい、一瞬ヒヤッとする。 「やばっ……す、すいません、ちょっと待ってください!」  運転手に詫びながら、暗い足元を手探りでかき集める。  どうにか支払いを済ませて、斗楽は急いで社内へ戻った。  まだ明かりのついたデスクの前で、日下部がパソコンと格闘していた。 「よかった、日下部さん……まだいらしたんですね」  安堵に似た声をもらすと、日下部がふっと顔を上げる。 「どうした? トラブルか?」  瞠目した目が、斗楽を心配そうに見つめてくる。 「いえ、大丈夫です」  そう言いながら、斗楽は見積書をそっと日下部のデスクに置いた。 「会議の前に、日下部さんに目を通してもらいたくて。金額、これで間違ってないですよね」  LEDビジョンのサイズ変更に伴って、金額がやや上がっている。  自分の判断でこのまま進めていいのか、正直ちょっと自信がなかった。  その不安から直帰を捨て、気づけばやっぱり日下部に頼ってしまっていた。 「……うん、大丈夫だ。これでいいよ。でも、せっかく直帰できたのに。律儀なやつだな」  自席に鞄とコートを置きながら、実は──と、本音を口にした。 「月曜に持ってくるの、忘れそうだなって。ほら、俺って、肝心なときにやらかすでしょ。……あ、でも、日下部さんに見てもらいたかったのは本当ですよ?」  へへっと頭をかきながら、ついこの間も、自宅で作成したSP広告用の資料を忘れた前科をよぎらせた。 「そそっかしいって自覚があるだけマシだな。 忘年会のときもやらかしてたし。あんなデカいお面つけてはしゃいでたら、転ぶのは無理ない」 「それ言わないでくださいよ。一応、反省はしてるんですから。でも、みんなが楽しんでくれたなら……結果オーライです」  人を笑わせてなんぼ、って精神論じゃないけれど、みんなの笑顔が見られると、やっぱり嬉しい。  それにらこんなふうに砕けたやり取りを許してくれる、ふところの深い上司がいてくれるからこそ、自分も安心して笑えるのだ。 「にしても、もし俺に今夜予定があったらどうするつもりだったんだ? たまたま居たからよかったけど、無駄足になってたかもしれないぞ」 「本当に! でも……日下部さんは居た。予定なくて、よかったです」 「お前な。もうちょっと包み隠して言え。まるで俺が週末に予定もない寂しい人間みたいじゃないか」  そう言いながら、日下部は手にしていた書類をパン、と叩く。 「でもまあ──悲しいかな。現実はこうして月曜日の準備をしてるってわけだ」 「俺も、予定ゼロ男ですから」  斗楽は、ぺろっと舌を出して破顔する。  男二人が寂しいな、と日下部が微笑むから、斗楽も一緒になって笑ってしまった。 「会議は朝イチ、九時からだからな。遅刻するなよ」 「大丈夫ですよ。ドジな俺には賢いスマホがついてます。ちゃんとスケジュールを音声で知らせてくれますから」  鞄の中に手を突っ込み、機種変更したばかりの相棒を自慢しようとした。  それなのに、あるはずのものがない。 「おっかしいなー」と呟きながら、中身を一つひとつ机に並べてみる。 「どうかしたのか?」  首を傾げながら、「いえ……あれ、ないな」と、今度は鞄をひっくり返した。 「スマホ、ないのか?」  日下部の問いに頷き、肩を落とした。 「机の引き出しとかに忘れてないか?」  肩越しから日下部が机の上を覗き込み、心配そうに尋ねてくれる。 「いえ、アイルジャパンに向かうとき、電車の時刻を調べるのにスマホ使ったんで、持って出たのは確かなんです……」  心許ない顔で斗楽が感嘆を漏らした。 「あ、だったら一度スマホに電話してみたらどうだ。もしかしてもう交番に届いてるかもしれないぞ」  固定電話の受話器を取って、ほらと差し出してくれた。  上司の提案に、「そっか」と、すぐに自分の番号をダイヤルした。  けれど、コール音が虚しく鳴るだけで繋がる気配がない。  諦めて受話器を置こうとしたとき、『もしもし』と男性の声が聞こえてきた。 「も、もしもし! すいません、そのスマホ、俺が落としたものなんです!」  前置きもなく本題に入ってしまい、相手の息を呑む音が電話越しに聞こえた……気がした。 『……そうですか。スマホ、タクシーに落ちてましたよ』  低くて落ち着いた声が、斗楽の慌てた様子を察してか、ゆっくりと話してくれる。 「タクシー……そうだ、鞄を……! あの、拾っていただいて、本当に助かりました。ありがとうございます!」  斗楽はホッとして、日下部にピースサインを送る。  上司も安心したのか、席へ戻ってパソコンに向かっている。 「あの、ご迷惑かと思いますが、ご都合のよい日に取りに伺ってもよろしいでしょうか?」  恐縮しながら尋ねると、『今からでも、かまいませんよ』と、穏やかな声が返ってきた。 『ディヴァインホテル、わかりますか? 横浜駅から少し離れたところにあるんですが』 「ディヴァインホテル……はいっ、わかります!」  斗楽はホテル名をメモしながら、どの駅で降りるんだっけ、と路線図を頭に思い浮かべる。 『では、そこのロビーに八時半で』 「八時半ですね、わかりました。あの……本当にありがとうございます!」  見えない相手にお辞儀をしながら、肝心なことを聞いていないことに気付く。 「あの、何か目印を……」 『黒い、フレームの眼鏡です』 「眼鏡ですね。あっ、すみません、他に何か……もうひとつくらい」  眼鏡だけでは、見つけられないかもしれない。  斗楽は急いで追加の情報を求めてみる。 『鶴を……』 「えっ?」 『折り鶴を目印に』 「折り鶴って……折り紙の、あの?」 『そう。それで、目印になるでしょう』 「は、はぁ……わかりました」  想定外の答えに少しだけ戸惑いながらも、 スマホが戻ってくることにホッとする。  斗楽はもう一度礼を言って、そっと電話を切った。

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