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第6話

「ここが、ディヴァインホテル……」  ホテルに到着した斗楽は、建物を目にした途端、スマホを諦めようかと本気で考えた。  場所を知っているとは言ったものの、通勤電車の車窓から遠目に見る程度だった。  いざ目の前に立ってみると、その圧倒的な外観に、足がすくむ。  セレブ以外お断り! みたいな場所を待ち合わせにするなんて。  拾ってくれた人は社長とかCEOとか、そんな肩書きの人かもしれない。  うっかり手土産も持たずにきたけれど、身分が違う相手だと、逆に何を渡せばいいのかそれも悩ましい。 「もしかして、『御前』とか呼ばれてたりして。部下も、『御意』っなんて言ったり──」  いやいや、時代劇じゃあるまいし。  それに、電話の声はそんな年齢じゃなかった。  ひとりボケツッコミで、怯む気持ちを奮い立たせたけれど、やっぱり足は重い。  それでも時間は刻々と迫っていた。  ここは腹を括るしかない。  見つけてくれた人にお礼を言って、さっさと帰ろう。  斗楽は意を決して、ホテルへと一歩を踏み出した。  自動ドアが開くとスイッチが入ったように、そばにいたスタッフが、丁寧なお辞儀をしてくる。  斗楽もあわてて頭を下げ返す。  そのまま顔を上げると、磨き抜かれた大理石のフロアが目に入り、さらに緊張が増した。  隠密のように忍び足で歩きながら、周囲をそっと見渡す。  香水とはまた違う、どこか高貴な香りがふんわりと漂っている。  鼻をひくつかせていると、コンシェルジュに微笑まれた。  やばっ、変なやつだと思われたかも。  スーツを着た挙動不審なやつがいると、追い出されるかもしれない。  わざとらしい咳払いをすると、胸を張って颯爽とロビーを歩いた。  白とブラウンを基調とした、清潔感の漂う内装。  シンプルで品のある照明や装飾品。  日常とかけ離れたここは、忘年会を行ったホテルとはまた違う趣だ。  向こうはゴージャスだったけど、こっちは上品で高貴な雰囲気って印象だ。  斗楽はなるべく目立たないよう、ロビーを観察する。  大きめのソファには、上品な老夫婦が一組。他にはスーツ姿の男性二人が、商談らしき会話を交わしている。  あとは外国人のグループと、読書をしている男性だけだ。  斗楽は長い足を組んで、本を読む背中へと静かに近づいた。  眼鏡をかけているかは、後ろ姿では分からない。  けれど、この状況からして、後ろ向きの男性しか考えられない。  目印を確かめようと、斜めからそっと覗き込むと……  黒いフレームの眼鏡が見えた。  さらにテーブルに目をやると、そこには小さな赤い折り鶴が、ちょこんと置かれていた。  ……よかった。絶対、この人だ。  目当ての人を見つけたはいいが、どう声をかけようかと悩むうちに、進みかけた足が止まった。  その緊張が伝わったのか、男性が本から顔を上げる。  ……そして、振り返ったその顔を見た瞬間──  斗楽の丸い目は、最大限に見開かれた。  金縛りにあったように体が動かなくなる。  目の前にいる眼鏡の男性は、紛れもない── あの、浅見薫だった! 「あれ。君、もしかしてこの間の──」  斗楽を見て驚いた浅見だったが、すぐに何かを思い出したのか、肩を震わせて笑いをこらえている。  けれど斗楽の頭の中はパニックで、その理由を考える余裕がない。  忘年会の日に見た浅見は、まるで英国の貴族のようだった。  三十代半ばとは思えない落ち着きと風格。  肌も瞳もみずみずしくて、大人の色気と少年の柔らかさが混じり合っていた。  今夜の装いは、霜降りグレーのセーターに黒のボトム。  フォーマルではないけれど、それがまた、カジュアルな色気を引き出している。  そっくりさんなんかじゃない。  浅見薫本人が、手を伸ばせば触れられる距離にいる。  その現実を脳が理解した瞬間、斗楽の体はぶるぶると震え出した。  まるで生まれたての子鹿のように、おぼつかない足取りで立っている。 「このスマホって──斗楽君のだったんだ」 〝斗楽君〟  確かに浅見が、そう言った。  自分の名前が、ほどよい厚みの唇から丁寧に形作られて放たれる。  その唇は、水を含んだように艶やかで、男なのに、美しいとしか形容できない。  なぜかさっきから、涙目で笑いをこらえている姿も、秀麗な中に可愛らしさがあふれていた。  ファンじゃなくても、彼を見た人は一瞬で悩殺されてしまう。   そんな雲の上の人から名前を覚えてもらい、しかもまた口にしてもらえるなんて。  信じられない……。  斗楽の思考は、遥か彼方の宇宙まで吹き飛ばされて星になった。 「斗楽君?」 「あ! は、はいっ」  再び名前を呼ばれた。  そのおかげで地球に生還することができたけれど、緊張の針はマックスに振り切っている。   その証拠に、不安定だった足はふらつき、まともに立っていられなくなる。  突如、酸欠のような目眩が襲い── 「危ない!」という浅見の声と、ガラスの割れる音が、ロビー中に響いた。  振り向く間もなく、周囲の視線が一斉に自分へと向けられている。  足元には、砕けたグラスの破片が散乱していた。  気付くと、斗楽の右肩から下半身までが水でびしょ濡れになっている。 「申し訳ございません!」  意識がぼんやりと霞む中、頭を下げるウェイターの姿が見える。  すぐに、別のスタッフも駆けつけてくると、全員が、斗楽に向かって一斉に謝罪を始めた。  自分がふらついたせいで、ウェイターに接触してしまった。  トレーのグラスが落ちたのは自分のせいだ。  謝るのは、自分の方で──彼は悪くないっ。 「だ、大丈夫です。こちらがよろけてぶつかってしまったんですから」  斗楽は、自分が引き起こした惨事で周囲に迷惑がかかっていないか、周りをぐるりと見渡した。  ──よかった。  浅見さんも、ほかのお客さんも濡れてない。  安心した瞬間、羞恥が一気に押し寄せた。  今すぐこの場から逃げ出したい。  けれど、まだスマホは受け取っていないし、ロビーの後始末もしていない。 「本当に申し訳ございません! お客様、お怪我はないでしょうかっ」 「平気です。ぶつかった俺が悪いんですから。 それより、あなたこそ大丈夫ですか? お怪我は?」 「は、はい。私の方は大丈夫です。お気遣い、ありがとうございます」  頭を下げるウェイターに、申し訳なくてたまらない、という気持ちがこみ上げる。  斗楽はグラス四杯分の水で濡れたまま、その場にしゃがみ込んで、グラスの欠片を拾い始めた。 「お客様、それは──危ないです」  スタッフに止められると、すぐさま複数人が手慣れた動きで片付けを始めた。  周囲からも、ホッとしたような安堵のため息がこぼれる。 「ここはホテルの人に任せて、君は濡れた服を乾かそう」  浅見が、スタッフから受け取ったタオルをすっと、斗楽の頭にあてがう。  髪を優しく拭かれていることにしばらく気づかないほど、自然な手つき。  我に返った斗楽は、飛び上がるようにして声を上げた。 「だ、大丈夫ですっ! こんなのすぐに乾きますからっ!」  首を振って、手も振って、全力で断る。 「ダメだよ。真冬に濡れたままだと、風邪ひく」  浅見がごく自然な口調で、さらりと言った。 「俺の部屋で乾かそう」  ……え?  ──へ、部屋?  浅見さん、今、俺の〝部屋〟って言った?  部屋って──あの、部屋?  斗楽が間の抜けた顔で硬直している間に、浅見はスタッフと何やら話し込んでいる。  唯一無二の存在を前に、斗楽はその場から動けなくなっていた。  そんな自分を知ってか知らずか、浅見は涼しげな笑顔を向けてくる。  ただ、口角を少し上げて、目を細めただけ。  それなのに、テレビで見る〝浅見薫〟が、その一瞬で仕上がっていた。  そんな神のような人が、自分のスマホを拾ってくれた。 ……これはもう、奇跡としか言いようがない。  なのに、自分の失態で迷惑をかけてしまったなんて。  ああ、今すぐこの場から帰りたいっ。  けれど、まだ、ここにいたいと駄々をこねる自分もいる。  葛藤していると、ふとテーブルに目を向けた。  そこには、小さな赤い折り鶴──。  斗楽は濡れていないことを確認すると、そっとハンカチで包んで鞄にしまった。  ……とりあえず、スマホを返してもらおう。  それからホテルの人に謝って── 「おいで」  ……え?  耳に届いたその声とともに、肩をふわりと抱かれた。  たったそれだけの仕草なのに、思考は崩壊寸前。  何も言えずにいると、そのままエレベーターまで運ばれてしまった。 「あ、あさ……みさん。あの、平気です……」  やっとの思いで訴えた言葉。  けれど、返事はなく、斗楽と浅見を乗せたエレベーターは静かに上昇を続けた。  階数表示が十八階で点滅した。  扉が開いた瞬間、斗楽の腕が引かれる。  廊下一面に濃紺の絨毯が敷かれ、足元灯が静かに揺れている。  ほんのり灯る天井の光。  静寂の中、二人の足音だけが響く。  ──まるで、別世界に誘われているようだ。  呆然とした気持ちでついて行くと、廊下の奥の部屋へと導かれ、浅見がドアを開ける。  斗楽の背中を、そっと押した。 「さあ、早くシャワーを浴びて着替えないと」  ……シャ、シャワー?  ──それはさすがに、ダメだっ! 「い、いえっ! タオルで拭いたら帰りま──うわっ!」  想像を超える浅見の言葉にパニックになった斗楽は、段差もない床でまた躓いた。  倒れそうになったところを、浅見にしっかりと支えられる。 「す、すいません……」  見上げた瞬間、眼鏡の奥にある、優しげな瞳に心を奪われた。  もう、だめだ……意識が、遠のく。    こんな神がかり的な幸運、真面目に生きてきたご褒美だとしても……これは身に余る。  迷惑をかけたのに濡れた体を心配して、部屋へ招いてくれるなんて。  もう、明日死んでもいいと思えるほど、幸せの絶頂だった。  浅見のあとを、遠慮がちに歩いていく。  案内された先にあったのは、落ち着いた雰囲気のリビングと、ベッドルームがセパレートになったスイートルームだった。  その空間は、まさに浅見がくつろぐのにふさわしい場所で、思わず感嘆の息が漏れる。  部屋をそっと見渡すと、ソファの奥にある大きな窓が目に留まった。  ふらっと、窓庭に近寄ると、眼下に広がる高層ビル群の夜景に斗楽の目が、まんまるに見開かれた。  ……すごい。  目が眩みそうに、綺麗だ。 「斗楽君、こっち」  宝石のような景色に見入っていると、名前を呼ばれて心臓がまた跳ねる。  そのまま胸の高鳴りに押されるように、手招きされた先へと進んだ。  パウダールームの奥、浴室の前で浅見が手に何かを差し出してくる。 「はい、じゃこれ使って」  手渡されたバスローブを反射的に受け取ったものの、どうすればいいか頭が働かない。  これ……バスローブ? いや、ちょっと待って。これはダメだって。 「シャワー終わったら服持ってきて。ホテルの人に乾かしてもらうから」  流れるように出される指示に、斗楽は慌てて手を振った。  そこまでしてもらうわけにはいかない。 「い、いえっ、あの、自分でドライヤーで乾かしますっ!」  慌てて訴えた言葉は、浅見の「いいから、いいから」と軽く言い残され、ドアが音もなく閉まった。  焦る斗楽の鼓動も、飛び出しそうな心臓も知らずに。

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