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第7話

「あの、終わりました。ありが──」  そう言いかけて、斗楽は口を噤んだ。  浅見が電話中だった。  通話を終えた浅見が、「もうすぐスーツ取りにく──」と、言葉を切って近づいてくる。  憧れの人との至近距離に耐えきれず、緊張から思わず下を向いてしまう。  一ミリも動けないでいると、そっと髪に触れられた。 「まだ濡れてるよ。乾かさないとだめだ。シャワーしたのにこれじゃ意味ないよ」  水を含んだ毛先を長い指で摘んだまま、浅見が顔を覗き込んでくる。  秀でた相貌(そうぼう)を前にしただけで、喉の奥がきゅっと鳴り、指先がひんやりする。  老若男女を虜にする存在を前にして、平気な人はいるのか? いや、絶対にいない。  こんなに心臓が騒ぐのは、自分だけじゃないはず。  好きという気持ちが、きっと顔にも声にも滲み出ている気がした。  不埒な気持ちがバレないよう、斗楽は目を逸らす。  そんな斗楽をよそに、「ちょっとおいで」と、また手首を掴まれた。  パウダールームに戻されると、浅見がドライヤーを手にして斗楽の髪を乾かし始める。 「あ、あの自分でしますからっ」  浅見薫の手を煩わすなんて畏れ多い!  ドライヤーを引き取ろうとしたけれど、背の高い浅見に敵うわけない。  斗楽の声が聞こえないのか、大きな手は黙々と動いている。  もはや抗えないと悟った斗楽は、小さく息を吐いて前を向いた。  その瞬間──鏡越しに浅見の目と合う。  風に揺れる髪の隙間から、小さく「ありがとうございます」と呟いた。  けれど、この声はきっと、届いていない。  ただ、唇の動きで理解してくれたのか、浅見が鏡に映る斗楽に微笑みかけてくれた。  ドライヤーの熱以上に、胸の内から温められる至福なひと時に酔いしれる。  うっとり目を閉じていると、「はい、乾いたよ」と極上の声で現実に引き戻された。 「か、髪まで乾かしていただいて、ありがとうございました」  額が膝にぶつかりそうなほど頭を下げ、その勢いのまま顔を上げた。 「じゃ、スマホを返さないとね」  浅見がポケットからスマホを取り出し、画面を斗楽に見えるように差し出してきた。 「すいません、本当に助かり──」  浅見の手の中に映った──『浅見薫』。  次の瞬間、体中の血が一気に引く感覚がした。  しまった、見られてしまったっ。  ああ、でも、もう遅い……。 「斗楽君って、俺のファンなの?」 「あ、ちがっ、いえ、違うくは、ない……」 「まさか、自分が待ち受けにされてるスマホを拾うなんてね」  浅見がニヤニヤした視線を向けてくる。  大人の余裕を前になす術もなく、斗楽はうつむくことしかできない。 「もし画面を見てなかったら、そのままタクシーの人に預けてたかもね」 「もう落とすなよ」と、手のひらに乗せてもらった瞬間、面映い気持ちでいっぱいになった。  穴があったら入りたいとはこういうことかと、気落ちしていると、急に立ち止まった浅見の背中にぶつかりそうになる。  肩越しに振り返った浅見と視線が絡み、鋭くも優しい眼差しに射抜かれる。  身に覚えのない視線を受け止め切れず、目を泳がせていると、姿見に映った自分の格好が目に入る。  下着の上に羽織っただけのローブはブカブカで、襟元からは鎖骨が丸見えだった。  着丈は膝をすっぽり覆い、サイズの合わない格好がだらしない。  斗楽は大きくはだけた襟を掴むと、胸元から覗く素肌を慌てて隠した。  おまけに、腰に巻いた紐があまってダラリと垂れ下がっている。  こんな格好、浅見さんに見せるなんて……恥ずかしすぎる。  ため息を吐きながら正面を向くと、浅見の視線はまだ斗楽にあった。  やっぱり俺の格好がだらしないから、気になるのかな……。  憧れの人の視線を浴び続け、恥を含んだ頬が更に熱くなってのぼせそうになる。  息の詰まる空気を払拭しようと、頭の引き出しから気の利いた話題を探したけれど、めぼしいものは見つけらない。  拠り所を求めるようにローブの生地を手の中に手繰り寄せた。  その時、控えめにインターホンが鳴った。 「服、持っていくよ」  救いの一言でホッと力が抜けた。  浅見がスーツを手にドアを開けると、それを客室係に託している。  手持ち無沙汰で待っていると、浅見がワゴンを押してリビングに戻ってきた。  ワインやチーズをテーブルに並べる姿に戸惑っていると、「腹減ってない?」と、グラスを手にした浅見に問われた。 「い、いえっ。大丈夫です! 服が戻れば早々に失礼しますから」  両手を大きく振って申し出を断ったのに、腹から空腹を知らせる音が豪快に飛び出す。  うわー、俺ってばまた。恥ずい……。 「プッハハハ、腹は正直だな。遠慮しないで一緒に食べよう。ほら、ここに座って」  ククッと笑いをこらえながら、ワイングラスを斗楽に差し出してくれる。  受け取ったグラスの中で輝く美酒は、浅見の手によってさらに輝きを増して見えた。 「……すいません、いただきます」  遠慮がちにソファに座り、グラスを受け取る。  ワインをゆっくり含むと、カラカラだった喉に果実の甘みが糸を伝うように真っ直ぐ全身に落ちていく。 「美味しい……」  あまりの美味しさに思わず、もう一口……もう一口と、グラスに口をつけてしまう。  空腹にアルコールが効いたのか、頬はみるみる熱くなり、ふわふわした感覚に浸っていると、左側の座面が沈んで体が重力で傾く。  隣を見ると、向かい側にいたはずの浅見がいつの間にか斗楽の横に移動していた。 「なあ、あのお面庇って斗楽君は何してたの?」  浅見から質問され、「お面?」と小首をかしげる。  熱っぽい顔にグラスを当てて頬を冷まし、脳に刺激を与える。  途端、さーっと血の気が引く音が聞こえた。  忘年会の日の記憶が、全力で脳内リピートされる。 「あ、あれは……ふ、普通にアシスタントするのは面白くないからと言われて……」 「へぇ、面白いこと考えるな。それでお面かぶって変な動きしてたんだ」  肩を竦めて、「はぃ」と、小さく返事をする。  あのとき、自分ではどんな格好をしていたのか、斗楽は知らない。  同僚が面白がってスマホで撮影していたけれど、封印したいくらいの黒歴史を客観的になど見たくない。  きっと出来損ないの盆踊りみたいな、妙な動きをしていたんだと思う。  想像して恥ずかしくなり、斗楽は手で顔を覆うと浅見に背を向けた。  浅見が笑いをこらえているのが背中越しに伝わる。 「わ、笑わないでください。あ、あれは急遽の代役だったんです。打ち合わせなしの本番だったから練習しないと、場をしらけさせると思って……」  背中を向けたまま、ワインの力を借りて声を張った。  顔を見なければこれくらいは言える。 「そ、そうか。クック……わ、悪い」  まだ浅見の笑いが止まらない。  肩越しに一瞥すると、笑うのを我慢しているのか、肩が小刻みに震えている。  破顔する浅見の対処に困惑していると、頭をポンポンと撫でられた。 「耳が真っ赤だな」と、肩を掴まれて体の向きを変えられる。  浅見の仕草があまりにも自然で、胸の高鳴りを一瞬忘れ、斗楽は雄弁を続けた。 「き、緊張してるんですっ。中学のころから浅見さんの大ファンだから!」  大胆に告白してからワインを呷った。  もうどうとでもなれっ。  浅見の目がほんの少し見開き、眉がクイっと上がる。 「へえ、中学から応援してくれてたのか。でも斗楽君の年齢だと俺のことそんなに知らないだろ」  浅見の言葉に対抗するよう「浅見薫は俺のレジェンドなんです!」と、こぶしを掲げて言い切った。  そんな姿もお好みだったのか、浅見がまた笑いながら、「さすが衛兵殿」と茶化してくる。 「わ、笑いすぎです。俺は本気でそう思ってるんですよ。浅見さんは卑屈だった俺を前向きにしてくれたんですから」 「卑屈?」  グラスを空にした浅見が、不思議そうにこちらを見てくる。 「はい。俺にはめちゃくちゃ優秀でかっこいい双子の弟がいるんです。自慢の弟です。……でも、そう思えるようになるまで、ちょっと時間がかかりました」 「それはどうして?」  浅見が重ねて尋ねてくる。  いつの間にか、彼から笑いは消えていた。 「俺ってこんな見た目だから、女子に間違えられることは頻繁で。なのに名前が『斗楽』でしょ? 勇ましい名前に似合ってないってよく笑われました。反対に玲央(れお)──あ、弟ですけど、名前の通り百獣の王って感じで。父は強くて優しい男になれって、名前に願いを込めたそうです。玲央は、その期待どおりに育ちました。でも……俺は、追いつけなかった」  斗楽はワインを一口含んで続きを話した。 「小さなころから何をやっても、俺は玲央には敵わなかった。だからいつも拗ねてたんです。でも中一のとき、父が浅見さんのライブに連れて行ってくれたんです。浅見さんの歌を聴いて、卑屈だった気持ちはあっという間に吹っ飛んでしまったんですよ」  浅見のグラスにワインを注ぎながら話すうちに、いつしか斗楽から緊張は消えていた。 「浅見さんの歌が心に刺さって、ものすごく感動したんです。熱量が半端ない姿に心臓がドクドクして、涙が勝手にこぼれてました。理由なんかなくて、ただ圧倒されたって感じでした。そのとき、自分が凄くちっぽけな人間に思えて、弟に向けていた態度が急に恥ずかしくなったんです。それからの俺は、玲央にも心から笑顔で接することができて、浅見さんのライブも必ず三人で行ってました。でも俺が高校一年のとき、父が病気で他界し──」  言いかけて斗楽は口を噤んだ。  父を失った直後、浅見が歌をやめてしまったことを思い出したからだ。  歌の世界から身を引いた理由も報道されず、突然、浅見が語学留学を理由に渡米してしまった。  芸能活動を休止したことは、当時、業界を騒然とさせた。  父を失ったこととダブルでショックを受けたのを、今でも覚えている。  浅見をそっと一瞥すると、表情に翳りが差しているように見えた。  彼の地雷を踏んでしまったのでは……。  また自分は何かやらかしてしまったのではと、背中に冷たい汗がつっと流れる。  ワインを飲んで気を紛らせようとしたけれど、グラスは浅見に取り上げられてしまった。  戸惑っている手首を掴まれ、そのまま手を引き寄せられる。  斗楽の指先に、浅見の唇が触れた。  突然のことで呆然としていると、「切ったのか」と、今度は指先を舐められる。  慌てて浅見の手から逃げて指を確認すると、小さな傷口に血が滲んでいた。 「グラスを触ったときの傷だろ。シャワーで温まったから傷口が開いたんだな」  再び手を取られると、指先が浅見の口腔に含まれてしまった。 「あ、浅見さん、何をっ」 「何をって止血だ。ここには救急箱なんて気の利いたもんはないからね」  形のいい唇がまるで果実を味わうように、斗楽の指を喰んでいる。  艶かしい舌使いに魅了されていると、頭の中で理性が悲鳴を上げた。 「だ、だめですっ! あ、浅見さんにばい菌がっ」  浅見の胸を押し退けて物理的に距離を取ると、指先を引き離した。  肌に残る舌の感触が心を震わせ、斗楽は指先を隠すように反対の手でそこを覆った。  憧れの浅見に指を舐めてもらうなんて、他のファンが知ったら末代まで祟られる。  嬉しさと焦りを含ませた気持ちで浅見を見ると、なぜかまた彼は笑っていた。  爆笑に近い笑い声だ。 「ブッ、ククック。アッハッハ。ば、ばい菌って。君は自分を病原体か何かだと思ってるのか。相変わらず斗楽君は面白いな」  あー、腹が痛いと、体を前に折って膝に顔を突っ伏すように笑い続けている。 「そ、そんなに笑わなくてもっ。俺の言ったこと、おかしかったですか」  さすがにムッとしていると、浅見が体を起こして顔を近づけてきた。  彼の虹彩には戸惑う自分の顔が映っている。  心臓の音がうるさいくらい逸っている。  思考を酩酊させていると、浅見に頬をそっと撫でられた。 「やっぱ、柔らかいな」  確かめるように何度も指で摘まれ、落ち着かない斗楽の反応を愉快そうに見ている。 「ちょ、ちょっと浅見さん……」  手を払い除けようとしたら、浅見の両手で頬を包まれていた。  手のひらに力が込められると、頬肉が必然的に中央に寄る。  きっと、ひょっとこみたいな顔になっている。恥ずかしくて、やめてくださいと言いたかったけれど、圧迫されてまともに喋れない。  それなのに、こっちの気も知らず浅見はまた笑っている。  もう勘弁して欲しいと嘆いていたら、頬にあった手が斗楽の後頭部に回された。  そこに力が加えられると、浅見との距離がさらに縮まる。  反対の腕で腰を引き寄せられる。  抱きすくめられて、身動きできなくなった。  驚いて顔を上げると、お互いの鼻先が触れ合う距離に顔がある。  浅見に顎を捉えられると、斗楽の唇を弾くように人差し指で何度も弄んでくる。 「ぷっくりして可愛い唇だな」  低音の声が鼓膜に落ちてくる。  からかわれているってわかっているのに、怒ることすらできない──。  浅見がまた距離を縮めてくると、甘い吐息が頬にかかり、次に唇がそこに触れてきた。  驚いて釘付けになっていると、官能的な唇が斗楽の口にそっと重なる。  触れるだけだったキスは、次第に深くなっていく。  唇の熱が、奥の方まで染み込んでくる。  ぬるりと濡れた音が耳元でこだまし、息を奪われて苦しい……。  胸の中で抵抗してみたけれど、唇は一瞬離れただけで、再び重なるとさっきよりも深く交わって身動きがとれない。  熱を孕んだ舌が口腔内を彷徨い、舌先で絡め取るように暴れている。  息が、苦し……。あ、浅見さん……何で──。  唐突に訪れた行為に頭が混乱し、厚い胸板をひたすらこぶしで叩いた。  初めての口づけに勝手がわからず、足をばたつかせていると、インターホンが鳴った。  浅見の力が緩んだ隙に、斗楽は胸の中から脱出した。  乱れた息を隠すよう口元を手で覆って浅見を凝視していると、髪をひと撫でされた。  その流れでドアに向かった浅見が、何事もなかったようにスーツを手にして戻ってくる。 「斗楽君、服戻ってきたよ」  緊張で全身が固まり、浅見の声を遠くで聞いた。 「斗楽君?」  二度目に呼ばれた声でハッと気付く。  斗楽は、「は、はいっ!」と、叫んだと同時にソファから立ち上がった。  体が勝手に動くと、勢いのまま浅見の手からスーツを奪う。 「あ、ありがとうございます、すぐに着替えてきます」  目も合わすことも出来ず、一目散にパウダールームへ飛び込んだ。  ドアを閉めた途端、足の力が抜けてその場に崩れ落ちてしまう。  ──あ、浅見さんとキ、キス……し……た?  スーツを両手で抱え、縋るようにそこへ顔を埋める。  壊れそうなくらい暴れる心臓をどうすることも出来ず、パニックを起こしそうな脳に、冷静になれと言い聞かせた。  これはノリだ……きっと浅見さんはふざけただけだ。  勘違いするなと強く言い聞かせ、両手で頬を叩いてから手早く着替えた。  スーツを着た自分が鏡に映っている。  目の前で動揺する自分の唇に、そっと触れてみた。  ここに、浅見さんが──  ……だめだ。忘れなきゃ。好きになっちゃダメだ……。  浅見さんは、男の俺に悪ふざけしただけだ。  唇に残る甘い感触を無視し、深呼吸をしてからリビングに戻った。  ソファでくつろぐ浅見の背中を見ながら、息を整える。 「あの、今日は色々ご迷惑をかけてすいませんでした。スマホ、ありがとうございました」  深々と頭を下げて礼を言った。 「かまわないよ。それより斗楽君、これ──」 「浅見さんっ」  言下に浅見の声を遮った。  必死で平静を装って憧れの人を見つめる。 「今日は本当にありがとうございました。それと、長居してしまってすいません。これからも俺、浅見さんのことを応援してますからっ」  一気に言い終えると、斗楽はコートとカバンを手にしてドアに向かった。  レバーに手をかける前にクルッと踵を返し、もう一度頭を下げる。 「浅見さん、今夜のことは夢のようで……。俺、一生忘れません。でも浅見さんにご迷惑をかけるようなことは絶対にしませんから、安心してください」  感情が高まって声が震える。  それでもなんとか踏ん張った。 「あと、ドラマの撮影、がんばってくださいね」  胸を突き上げてくる切ない気持ちを押し殺し、レバーを掴む。 「さようなら」と、一方的に別れを告げた斗楽は、駆け出すように部屋を出た。  扉が閉まる音だけが、浅見に残されるように。

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