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第8話

 出勤して早々、槇と給湯室で会った斗楽は後悔していた。  つい、ぽろっとスマホを失くした話をして、槇の逆鱗に触れてしまったからだ。  おまけに名刺入れまで紛失したと白状すると、高々とこぶしを振り上げられる始末だ。  浅見と夢のようなひと時を過ごしたから、きっと浮かれていたんだと思う。 「斗楽っ、あんたはもっと気をつけなさい。変な人だったらどうしてたのよっ」 「へ、変な人じゃなかったし。普通の──」  いや、普通ではない。  超がつく有名人だ。  そんな人と俺はキス── 「あ、痛って。もう、槇ちゃん勘弁して」  惚けた頭に鉄槌(てっつい)をくだされた。  ちょうどそこへ日下部から収集がかかると、天の助けと言わんばかりに、斗楽は会議室へと逃げ込んだ。 「営業から新規の案件がきた。新潟県の雪村酒造から商品の広告依頼だ」  会議室に集められたのは、斗楽の大学時代の先輩でもある、赤坂(あかさか)と斗楽、朝日の三人だ。  今は、このチームで様々な案件を取り扱っている。 「新商品をマス広告で広く認知させたいという希望だ。費用がかかってもしっかり宣伝したいと、CMにも有名人の起用を強くリクエストされた」 「気合い入ってますね。タレント次第では、結構な額に跳ね上がりますよ」  赤坂が資料を見ながら呟く横で、斗楽は『希望タレント二人あり』の文字を見つけた。 「日下部さん、この二人って……」 「ああ。候補者が二人いるらしい。先方から連絡がきたらすぐに交渉に入ってくれ」 「わかりました」  赤坂が代表して返事をしたところで会議を終えた。  斗楽と朝日はそのまま残り、赤坂からの指示を仰ぐ。  三つ年上の赤坂は、跳ね上げ式の眼鏡をトレードマークにした無口なリーダーだ。   いつも的確なアドバイスをくれる、斗楽にとって頼り甲斐のある先輩だ。 「去来川、タレント交渉はお前に任せるからな」 「え? いいんですか? 今まで赤坂さんが担当だったのに」  赤坂がレンズをクイっと上げ、 「去来川にはこれから、重要な業務に携わってもらおうと思っている。これは日下部さんの意向でもあるからな」  入社して四年目ともなれば、仕事に対して多少の欲が生まれる。  斗楽も支持されて動く仕事だけではなく、責任のある仕事をやってみたいと思っていた。  それを先輩である赤坂や、上司の日下部が託そうとしてくれている。  それがとても嬉しい。 「はい、がんばりますっ」  意気込みを声に乗せると、手は自然と握りこぶしになっていた。 「他の仕事もあるし俺もフォローするから。松田も独り立ちできてるしな」  レンズのないフレームから瞳を弧に描き、さりげない微笑みをくれる。  あまり笑うことがない赤坂の笑顔をもらい、俄然、やる気がみなぎる。  二人の期待に応えられるよう、斗楽はこぶしを固く握り直した。         **** 「寒っ! 風キツイなぁ、早く家に帰って鍋でも作ろー」  一時間ほどの残業を終えて退社した斗楽は、外に出た途端、攻撃的な木枯らしに対抗するようマフラーを巻き直した。  いいなぁ、車でお迎えかぁ……。  会社の正面にある路肩に数台の車が路駐しているのを見て、斗楽は脳内で呟いた。  誰かを迎えに来ているのか、週末によく見る光景だった。  歩道にはそんな運転手を退屈させない街路樹が、今年もライトアップされている。  デートするには雰囲気のいい場所だけれど、あいにく斗楽にその予定はない。  独り身の寂しさを紛らわせるよう、鍋の出汁を考えながら駅へ向かおうとしたとき、誰かに名前を呼ばれた気がして顔を上げた。  辺りに目を凝らしていると、再び自分を呼ぶ声を耳にする。  それは道路の方から届いたように感じ、路肩の周りを流し見ていると、ライトアップで輝く黒い四駆が目に留まった。  よく見ると、車体の側に立つ人影がこちらに手を振っている。  知っている人かなと目を凝らした瞬間、瞠目して息を呑んだ。  黒ぶち眼鏡に、グレーのレザーダウン姿の浅見が手招きしている。  何度瞬きしても、自分に手を振ってくるのは、紛れもなく浅見薫だった。  藍色の空の下でも彼の姿は明瞭で、街路樹の輝き以上のオーラを放っている。  さっきまでの寒さが嘘のように消え、頬が焼けるように熱くなった。  な、なんで、浅見さんがこんなところに!  疑問を抱いたのと同時にまずいと思った。  いくら宵闇でも高貴な気配は隠せない。  誰かが『浅見薫』だと気づいて、騒ぎだしてしまうかもしれない。  そう思った瞬間、斗楽の足はかけだしていた。 「あ、浅見さん。どうして……」  自分の職場をなぜ知っているのか──  浮かぶ疑問より先に、周囲の視線ばかりが気になった。 「斗楽君、おつかれさん」  手の届かない世界の住人が、目の前で微笑んでいる。  頭を混乱させながらも、斗楽はこの有名人を何とかしなければと、そればかりが気になった。 「あ、浅見さんこんなとこにいたら──」 「斗楽君、この前これ忘れただろ」  斗楽の心配をよそに、浅見が見覚えのあるネイビーの名刺入れをひらひらと振ってくる。 「あ! 俺の名刺入れっ」  失くしたと思っていた名刺入れが、浅見の手の中にある。  斗楽は安堵よりも、浅見が持っていてくれたことに嬉しさを隠せなかった。 「この前これを渡そうとしたのに、斗楽君、帰ってしまったからな」 「す、すいません。あのときは……。あの、ありがとうございます」  恭しく受け取ろうとしたのに、斗楽の手は名刺入れごと大きな両手で包まれていた。 「冷たい手だな」 「す、すいません、俺、冷え性で」  慌てて手を引っ込めようとしたら、ギュっと握り返された。 「ほんと、冷たい」  あ……ダメだ、こんなの心臓がもたない。  一夜限りだった夢がまたよみがえってくる。 「斗楽君、このあとの予定は?」  唐突に問われた質問に、思考回路はショート寸前だ。  予定はない、ぜんぜんないっ!  頭では叫んだけれど、頷くことで精一杯だった。 「じゃ、拉致ります」と肩を抱かれると、助手席へと押し込められた。  こんな誘拐なら大歓迎だ。  シートに体を沈めながら、運転する横顔にいつまでも見惚れていた。

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