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悪夢のはじまり

 その日はよく晴れていて、王都の上空を大鳥が悠々と舞っていた。小鳥も人間も全部追い払われてしまったように、地上は奇妙な静けさに包まれている。  乾いた喚声とねっとりとした血の生臭さが風に乗って運ばれてきた。だが、幼いアタルクルシュはそんなこと気にもかけずに浮かれていた。今日はお母さまとおでかけをするらしい。母と一緒に出かけるということはつまり、今日はなんかのお祭りの日だ。  もっともその日は、お祭りの朝とはずいぶん様子が違っていた。いつもは乳母にやさしく起こしてもらえるのに、その日は母に容赦なくたたき起こされた。身支度も自分たちでして、朝食は乾いたパンを母と二人で分けて食べた。厨房に火を入れる人間がいなかったから、食べられるものがそれだけしかなかった。乳母も乳兄弟たちも姿をみせず、それどころか召使たちの姿も見当たらない。  アタルクルシュはなんでみんながいないのか母に聞いてみた。母は「暇を与えたの」とだけ言った。「暇を与える」の意味を、今日はおやすみにしてあげたのだと解釈したアタルクルシュは、みんなもおやすみの日には遊びに行きたいよね、と自分なりに納得をした。  朝のお祈りを終えると、母は一振りの剣を抱え、アタルクルシュを呼んで(いえ)を出た。 「なにがあっても大声を出さないで、私のそばを絶対に離れてはだめよ。わかったら、返事をしなさい」  と、怖い顔で念押しをされたが、母が厳しいのはいつものことだったので、アタルクルシュは特に疑問にも思わず「はい、お母さま!」と、叱られないように元気よく返事をした。  車は使わず歩いて出かけるのだと知って、アタルクルシュはますますご機嫌になった。彼はあのまどろっこしい乗り物が嫌いだった。自分の足で歩けば好きなところに自由に行けるし、なんなら走るのも好きだ。  さっそく一人で走っていこうとして、血相を変えた母に首根っこを捕まえられた。それから母はアタルクルシュの手をつかんで放そうとしなかった。彼も手を繋いでもらえる(というか、どちらかというと手首をわしづかみされていた)のは嫌ではなかったので、しばらくは楽しく腕をぶんぶん振り回していた。  神殿に向かおうとしているのは間違いなかったが、母は明らかに迷走していた。母は道を行ったり来たりしていたけれど、アタルクルシュにはその理由がわからなかった。広い道から狭い路地に入ったかと思ったら、またもとの広い道に出たり、同じ場所をぐるぐると回ったり、そんなことを繰り返していたからなかなか神殿にたどり着かない。  無駄に連れまわされることおよそ一刻。日がずいぶん高くなった頃に、ようやく神殿区画に足を踏み入れた。さすがにこの頃には、今日が祭りの日ではないことにアタルクルシュも気づいていた。(いえ)から人がいなくなっていたのと同じように、神殿からも人がいなくなっていたからだ。  明るい初夏の日差しが殺戮の痕跡をあぶりだし、木々を揺らす薫風には確かに死臭が染みていた。  よく掃き清められた石畳の道の真ん中に、生首が唐突に転がっていた。彼だか彼女だか判然としないその首は、鼻と耳を削がれており、苦悶の表情で白目を剥いていた。臭いなと思って振り向けば、二階の窓から首を括られて糞尿を垂れ流している人影が見えた。回廊では上半身だけしかない子供が柱に括りつけられていた。引きちぎれてこぼれた腸の先の血痕を追っても下半身は見あたらない。  下半身を見つける前に、なにものかに視界を奪われた。母に頭を抱き寄せられていた。衣からほんのりと香るいつもの祭壇のにおいでアタルクルシュはほっとしたが、母の体は誤魔化しようもないくらいに震えていた。  殺戮の現場を過ぎると、辺りは一気に平和になった。いままでと同じような石畳の道が続いていたが、心なしか他所よりもきれいに見える。きっとあまり人が立ち入らない特別な場所なのだろう。ずっとぴりついていた母も少し肩の力を抜いたようだった。けれどアタルクルシュはもう家に帰りたくて仕方がなかった。なんかお祭りじゃないみたいだし、この先もあんな怖いところを通るのなら、もうおでかけはおしまいにしたい。でも帰るにさっきの場所を通らないといけないのなら、それはそれでもっと嫌だ。 「ねえ、お母さま。僕たちこれからどこに行くの?」  我が子の不安そうな声に母ははっと振り返り、いくらか躊躇(ためら)ってみせたあと、 「お父さまのところにいくのよ」  と、教えてくれた。 「え、お父さまに会えるの?」  アタルクルシュは半信半疑で聞き返した。もしそれが本当なら、怖いのを我慢して先に進む価値はある。母は一瞬真顔で固まり、それから力なく微笑んでみせた。 「そうよ。あともうすこしだから、私のそばを絶対に離れないで、静かにしているのよ」 「うん、わかった」  アタルクルシュは生まれてこの方一度も父親に会ったことがなかった。乳兄弟たちには父親がいる。たまに乳母が暇をもらって家に帰るのについていって剣術を教わってくる。それがアタルクルシュにはうらやましかった。  お父さまは自ら剣を取るような身分の方ではないしご高齢だ、と母に何度も言われていたが、それでも望みは捨てていなかった。邸の外でアタルクルシュが見かける大人の男はたいてい剣を持っている。お父さまもアタルクルシュのように、お母さまの目の届かないところで楽しく剣を振り回しているにちがいない。  もっともアタルクルシュが隠れて振り回していたのは剣ではなく木の棒だった。真剣は重いからまだ持たせられない、と剣術の先生に言われてしまったのだ。アタルクルシュはそれが不満だったから、お父さまに会えたら剣をくださいってお願いしようと思っていた。大人が持ってるような長くてかっこいい本物の剣がほしい。 「会えるんなら、はやく行こうよ」 「そうね……はやくいきましょう」  と、答えた母の表情はほの暗い。 ▽  人気のない、それでいてよく手入れされた庭園を三つばかり抜けると、母はアタルクルシュの手を引いて白い塔に入った。この塔は何度か遠目に見たことがあったが、中に入るのはこれが初めてだ。土台が広がった円柱のような構造で、建物というよりは墳丘に近い。神殿区画の他の建物とちがって装飾がほとんどなくのっぺりとした印象だ。  中は案外広く、入って正面の通路は奥の螺旋階段につながっていた。階段もまた外観と同じように殺風景だ。ところどころにのぞき窓がついており、そこから王都全体の景色が見えた。また火事でもあったのか街区のあちこちで黒い煙が立っている。  階段を上りきると、そこは聖殿になっていた。ただし神像は見当たらず、ただ空の台座が安置されている。その前面には祭壇が、さらにその前に水を湛えた浅い人造池が二つあり、外からの光を集めてキラキラと輝いていた。  冷たい石壁に二人の足音が鋭く反響する。彼らは二つの水鏡の間を通って祭壇の前まで来た。この浮世離れした空間で、唯一アタルクルシュになじみがあるのが祭壇だった。明神エリュシスが十二の(しもべ)に羽を与え地上に遣わす様子を描いた浮彫が施されているが、(いえ)の庭の祭壇にも似たような絵が彫ってあった。  母は台座越しに空の台座に向かって恭しく跪き、神を讃え、絶対の忠誠を誓った。アタルクルシュも隣に座って見様見真似で拝むふりをした。  ひとしきり知らない言葉で祈りをささげたあと、母は祭壇を指さして言った。 「ここに座りなさい」  アタルクルシュは指示の意味を理解しかねて固まった。母は明らかに祭壇の上に座れと言っている。それはわかるのだが、本当に座ってもいいのだろうか。というのも、ついこの間彼は祭壇に上って怒られたばかりだった。  庭で鬼ごっこをしていた成り行きで祭壇の上に乗っていたところを母に見つかり、いままでにないくらい猛烈に叱られた。頬をひっぱたかれただけでは許されず、おしりもいっぱい叩かれたし、その日は晩ごはんも抜かれた。そのうえで「神聖な祭壇に乗るような悪い子には雷が落ちる」と脅されたので、怖くなったアタルクルシュはもう絶対に上らないと決めたのだ。それなのに、その母が今度は祭壇に上れと言う。 「どうしたの、はやく座りなさい」  と、いつもの厳格な調子で命じられて、アタルクルシュは恐る恐る這い上がった。母の真正面にちょこんと座ったが、いつ神さまに雷を落とされるかと心配で気が気じゃなかった。しかしながら、神罰が下される気配はない。母は持ってきた剣をアタルクルシュに差し出した。アタルクルシュはますます困惑して、上目遣いに母を見た。どういうわけか、母は一瞬たじろいだようだった。  一拍の沈黙ののち、母が聞いた。 「剣の作法は教わっていますね」  アタルクルシュはうなづいた。本物の剣には触らせてくれないけれど、剣の扱い方はひととおり教えてもらった。母が続けて聞いた。 「では、ジジンの仕方は教わりましたか」  ジジンの意味がわからなくて、アタルクルシュはまた母を見上げた。そして、ぎょっとした。いつも凛としている母が、目を潤ませて必死に涙を堪えていたからだ。  母は差し出していた剣を引っ込めると、自分ですらりと抜いてみせた。きらりと光る刀身が目の前に現れてはじめて、アタルクルシュはそれが自分が望んでやまなかった本物の剣なのだと認識した。母は刃を首に添えて、ぐっと押し込むしぐさをした。 「こうやって首筋にあてて、一思いに切るの。切る瞬間は怖いかもしれないけれど、ためらってはだめよ。もっと恐ろしいことになります。ここに来る途中でたくさんの骸を見たでしょう。死に損なえば敵に捕まって死ぬよりももっとひどい目に遭います」  母は剣把をアタルクルシュの方に向け、それを握るように促した。 「あなたはナディンエルサス王の御子です。いたずらに生きながらえて賊に辱められるようなことはあってはなりません」  剣を受け取ったはいいものの呆気にとられている息子に向かって、今度は優しく語りかけた。 「お父さまのもとに参りましょう。大丈夫、お母さまも一緒だから怖くはないわ」  アタルクルシュは訳も分からず剣をかざしてみた。この輝きにずっと憧れていた。けれど、いざ手にしてみると、人の命を奪うための武器は肩にずしりと重かった。清らかな刀身はぞっとするくらい禍々しかった。これを首に突き立てるなんて無理だ。でもお母さまはこれで首を切りなさいと言う。そんなことをしたら絶対に死んでしまう。  言われた通り刃を首にあてようとしてみたが、首筋に冷たい刃が触れたところでぞっとして剣を落としてしまった。母が拾ってまた剣を差し出す。母の引きつった顔に失望の色を見て、アタルクルシュは焦った。慌てて剣を構え直すものの、首に刃を近づけようとするだけで怖くて及び腰になってしまって、どんなにがんばっても首を切れそうになかった。このままではお母さまが呆れ果てて口も利いてくれなくなる。それは嫌だ。でも死んじゃうのはもっと嫌だ。  にっちもさっちもいかなくて涙目になっていたところ、いきなり母に剣を奪われた。いつまでたってもうまくできないから、もう剣は取り上げることにしたのだろう。もしかしたら別のやり方を教えてくれるのかもしれない。  だが母の手が肩にかけられた瞬間、脳天から胴体を貫くようにどす黒い殺気が落ちてきた。 「うわぁあッ!」  アタルクルシュはびっくりして母の手を払いのけた。祭壇から飛び降りて、気がつけば母と対峙していた。高く跳ね飛ばされた剣が甲高い音とともに床に落ちた。母は手首を押さえながら悪鬼の形相でアタルクルシュを睨んでいた。アタルクルシュは訳も分からず見つめ返した。再び沈黙が訪れた。  辺りが静かになると、遠くの方から人の声が聞こえてくるのがわかった。一人ではない。人数はわからないが、少なくない人数が塔の周りに集まっている。母の険しい顔がくしゃりと崩れた。ぽろぽろと涙をこぼしながら、母はその場に(くずお)れた。 「……無理です……ああ、神よ……お助けください……私には無理です……っ…………」  姿なき神像に向かって助けを乞う母の姿は、アタルクルシュの知る厳格な母とは似ても似つかず弱弱しかった。なぐさめてあげなきゃと思いつつも、彼の足は動かなかった。また急に剣を手に取って襲ってくるかもしれない。実際剣は母の近くに落ちていた。  そうこうしているうちにざわめきと足音が螺旋階段を上ってきた。ひょっとして、神殿の人たちをむごたらしく殺した(わるいやつら)だろうか。母も音に気づいたようだ。びくっと肩を震わせて入り口の方を見た。母の態度からして、少なくとも味方ではなさそうだ。はやくここから逃げた方がいい。でもここは塔の最上部で逃げ場はない。だったら悪いやつらと戦って逃げ道をつくるしかない。  アタルクルシュは剣を拾おうと足を踏み出した。けれど先に母に剣を取られてしまった。母は剣を逆手につかんでうなだれたままゆらりと立ち上がった。そのとき、見知らぬ男が入り口をふさぐように立った。もう追っ手がやってきたのだ。 「サノビエ!」  男が大きな声で呼びかけると、ずかずかと母の方に向かってきた。兜は被っていなかったがそれ以外は全身鈍光りする甲冑に覆われている。胴鎧に彫り込まれた神鳥の意匠は明神の第二の使徒クティルのものだ。緋色のマントをまとったこの男はおそらく高位の指揮官だったが、彼に付き従う兵卒はおらず、しかも激しい白兵戦を経た後のように返り血で汚れていた。ぼうっとしていた母は男の声に反応して生気を取り戻したようだった。決然と祭壇に向きなおった。 「明神(エリュシス)よ、この身命を御身に捧げます」  母が剣を首筋に宛がうのを見て、男が叫んだ。 「おい、やめろ!」 「どうかこの子をお守りください」  男が母の衣のすそをつかむのと、母の首から鮮血が噴きあがるのはほとんど同時だった。母の体はぐらりと傾き、剣は血の海に落ちた。男が血が噴きかかるのにもかまわずに母を抱きとめた。この期に及んでようやく、彼の兵らが追いついてきたようだ。状況を読み切れずにいる部下たちに向かって、男が半狂乱で命じた。 「医者を呼べ! 誰かひっとらえて連れてこい、いますぐにだ!」  男が覆いかぶさっていたので母の様子はよくわからなかった。しかしながら、とんでもない量の血とだらりと垂れた白い腕を見て、母の命はもう明神の元に召されたのだということは誰の目にも明らかだった。だから男の部下は誰一人医師を探しに行こうとはせず、代わりに年かさの将校らしき男がぼそぼそと低い声でなにかを話かけていた。だが母を抱えた男は我を忘れて泣きじゃくり、ただ医者を呼べと繰り返している。  アタルクルシュはそんな光景を、奇妙な生き物を見つけたように遠巻きに眺めていた。母の死を理解する前に、あいつは誰だ? という疑問で頭がいっぱいになった。あんなやつは今まで見たことがない。それなのにこの男は母のことをよく知っているようだ。それどころか、とても仲良しだったみたいだ。母の亡骸を自分のもののように抱えて離そうとしない。  もやもやとした疑問で頭がいっぱいになっていたアタルクルシュの二の腕を、誰かががしりとつかんだ。子供がいるぞ、と皆に知らせる声がする。アタルクルシュはなすすべもなく腕をねじりあげられた。母を抱えていた男がはっと顔をあげた。  琥珀色の鋭い視線を向けられて、アタルクルシュは思わずたじろいだ。男の顔は返り血と涙で濡れていたが、それでも目には直視を憚られるような威圧感があった。強くはっきりとした顎の輪郭は、子供の身では太刀打ちできない成熟した男性のそれだった。引き締まった口元は王者然とした意志の強さを帯びている。いや、王者然としているのではない。彼は「王」なのだ。  ひょっとして、お父さま?  アタルクルシュのもやもやとした疑問は唐突に焦点を結んだ。でも、お父さまは自ら剣をふるうような身分の方ではないしご高齢だとお母さまは言っていた。この人はおじいちゃんじゃないからお父さまではないはずだ。  じゃあ、このおじさんはいったい誰?  厳しい眼差しに射抜かれたのは一瞬のことで、琥珀色の瞳はすぐに驚きと戸惑いの色で揺れた。男は母をそっと寝かせると、両腕を広げて近づいてきた。 「サノビエの子か?」  意外にも声はやさしかったが、血まみれの甲冑を身に着けた上背のある男が異様な泣き笑いを浮かべて迫ってくるのはただ恐怖でしかない。  アタルクルシュは絶叫して飛び起きた。

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