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胎動する叛意

 が、現実には飛び起きることができなかった。暖かくてずっしりとしたものが胸の上に乗っていて、彼の上半身をベッドに押さえつけている。甘ったるい香が芬々と焚かれており、空気がねっとりと肌にまとわりつくようだ。どうやら帳の下ろされた寝台の中にいる。  この爛れた雰囲気はよく知っていたが、この場所には心当たりがなかった。アタルクルシュは酒精に侵された頭でぼんやりと考えた。  今宵課せられる務めを思うと耐えられなくなって、目の前の酒壺に手をつけたところまでは覚えている。だが、前後不覚になるほど飲むつもりはなかった。ちょっとだけ憂鬱な気持ちを紛らわせることができればそれでよかったのに、気が晴れるまで飲もうとした結果酔いつぶれてしまったらしい。  彼はもう一度起き上がろうとした。ぼやぼやしている暇はなかった。王が姿を見せてもおかしくない時間だ。勝手に酒を飲んだことはばれるだろうが、寝ころんだまま迎えるわけにもいかない。  しかしやっぱり起き上がることができない。胸の上に乗っているなにかは、明確な意思を持って彼を押さえつけているようだ。アタルクルシュはその邪魔ものを力任せにどかそうとした。すると、息がかからんばかりの至近距離で、けだるげな男の声が囁いた。 「目覚めたか?」  アタルクルシュはぞっと身震いした。 「あ、兄上……」  恐る恐る視線を横にやれば、すぐ隣に横臥しているエサルセネン王と目が合った。幼子の寝顔でも眺めるような慈愛に満ちた微笑みを浮かべていたが、どうしても胡散臭いと感じてしまうのは人間不信が過ぎるのか。 「おまえに会うのを楽しみにして来てみれば、ご機嫌な酔っぱらいが長椅子の下に頭を突っ込んで寝ていた」 「も、申し訳ありません」 「よい」  やっぱり起きようとする弟を、エサルセネンは寝かしつけるように寝台に押し付けた。こうやってずっと子守りのまねごとをしていたのだろう。 「幸せそうな顔をして寝ていた」 「……」 「寝言を言っていたが、夢でも見ていたのか」  アタルクルシュは返答に窮して目をそらした。夢は見た。はじめてこの異母兄と出くわした日の夢だ。だが、それを本人には言いたくない。それと、寝言でなにを口走っていたのかちょっと不安だ。  エサルセネンはアタルクルシュの肩をつかみ、自分の方に向きなおらせた。心の奥底まで見透かすような琥珀色のまなざしに射抜かれた。もう目のそらしようもなくてうつむくと、頭を抱き寄せられて額に口づけされた。  はじめて夜伽に召されたとき、恐怖や嫌悪感を覚える以前に自分がなにをされているのか理解できなかった。抵抗してもあっけなく組み伏せられたし、同衾を拒めば兄弟の誰かの処刑に立ち会わされた。そうすることで兄王は、自分に逆らえばどうなるかを言外に示した。先王の子の中で唯一アタルクルシュだけが殺されずに済んだのは、慰み者として一定の関心を引き続けることができたからに他ならない。  もっとも、こういう形で陛下のお役に立てるのは少年のうちだけだと周囲に言い含められてはいた。大きくなったらもっと別のことで役に立つようにならないと惨殺される。その予感と恐怖とともに大人になった。が、幸か不幸か、兄王は依然慰み者のしての価値を見出しているようである。  なんとなく、このまま黙っていると夢の話を根掘り葉掘り聞かれそうな気がして嫌だった。この異母兄が母のことをどう思っているのか未だにわからなかったし、正直知りたくもなかった。そもそも兄王とまるまる一晩に過ごすような事態は回避したい。どのみちやることは決まっているのだから、さっさと終わらせて冷静になっていただくのが一番だ。そうすれば(あした)を待たずに解放される。  アタルクルシュは兄王の腰帯に手をまわした。が、それは他ならぬ兄王の手で阻止された。  そっと手の甲に手が添えられたかと思ったら、寝衣のゆるやかな袖口からすっと手が侵入してきて、肌の感触を確かめるように腕を撫で上げられる。アタルクルシュはぞっとして手を引っ込めようとしたが、獲物を逃すまいとする猛禽のように腕をわしづかみされた。 「そう急くな、夜は長い」 「ですが」 「おまえが急にいなくなってから、何年経ったと思っている? 聞きたいことが山ほどある」  エサルセネンは穏やかな笑みを浮かべていたが、目は笑っていなかった。アタルクルシュは抵抗の意思と力がへなへなとしおれていくのを感じた。森羅万象を見透かしたような、孤高の獣にも似たこの底知れぬまなざしが苦手だった。  非力だった少年のころとは違い、いまはその気になれば――後先のことを考えなければ――兄王を制圧することは可能だろう。しかしそれをしないのは、この王を推戴する国家に殺されるだけだとわかっているからだ。王の権威を乗り越える術を彼は持たなかったし、これからも一生持つことはないだろう。  腕をつかんでいた手はすっと引っ込められ、代わりにはだけた首元から胸に向かって侵入してきた。胸をさわさわと撫でられてアタルクルシュは不快感に息が詰まりそうだった。彼の願いとは裏腹に、兄王はゆっくり嬲りたい気分のようだ。 「ラッダード派は手ごわいか」 「っ!?」  だしぬけに胸の突起をつまみながらエサルセネンが聞いた。アタルクルシュはびっくりして体を引っ込めようとした。その動きにつられるようにエサルセネンがのしかかってきて、そのまま首筋に吸いつくと、嵐のように口づけを降らせた。 「お、お待ちください」 「ラッダード派は手ごわいかと聞いているのだ」  口を吸われる前にかろうじて防御すると、エサルセネンはいささか気色ばんだように問いを繰り返した。アタルクルシュは観念してうなずいた。  王の御心がわからない。真面目に戦況を問いただすのが目的なら昼間群臣の参集のもと諮るべきことだ。酔っ払い相手に問いただしたところでしょうがないし、寝室で語らうには話題が殺伐としすぎている。  どう答えるのが正解なのか、酩酊した頭で必死に考えたが、思考がふわふわとまとまらず埒が明かなかった。 「ええと……その……難しい相手です」  アタルクルシュは恐る恐る兄王の顔色を伺った。その返答にエサルセネンが満足していないのは明らかだった。怖いくらいの無表情でじっと見つめて、更なる発言を促してくる。 「なにがどう難しいのだ。申してみよ」 「……それは」  エサルセネンが肘をつき、顔がぐっと近づいてきた。いたたまれない気分になって顔を逸らすと、耳に息がかかって耳珠をちゅっと吸われた。腰から脳天にかけてぞくっと寒気が走った。舌先で耳の穴をまさぐられ、獣じみた息遣いをすぐ近くで聞かされながら耳朶を()まれる気色悪さを、アタルクルシュは全身を強張らせながら耐えた。  耳はすっかり唾液で穢され、僅かな息遣いも敏感に受け止める。それをわかっていて愉しんでいるのだろう、エサルセネンがわざと耳元で囁きかけた。ただし、口調は相変わらず詰問じみている。 「敵は小勢だと聞くが、おまえは黒峪(スラバガルム)の祭司どもとの小競り合いに夢中でラッダード派のことは放置していたというではないか」 「……っ……放置はしておりませんっ……」  実際にラッダード派とは一度だけ干戈を交えた。いや、戦ったと認識しているのはこちら側だけで、ラッダード派はただ自分たちの腕に食いついてきたうっとおしい虫けらを叩き落としたにすぎない。  アタルクルシュにとっては貴重な一軍を失い、古参兵たちはかつての自軍の壊滅を思い出していきり立った。激昂する彼らを説得してラッダード派と手を結んだのは、どうあがいても勝ち筋を見いだせなかったからだ。むしろ王畿に対する防壁としてラッダード派は使える、とアタルクルシュは直感した。  そして今、エサルセネン王は弟の表面上の怠慢の裏にはなにかあると疑っているようだ。 「では六年もの間いったいなにをしていた」 「恐れながら兄上、小勢とはいえ侮れぬ相手です」 「言い訳が聞きたいわけではない。おまえに鎮撫する能力がないのなら、ほかの者を遣わすだけだ」  半ばほどけていたアタルクルシュの腰帯を解くと、エサルセネンは自分の衣も脱いだ。兄王の体は相変わらず引き締まっており、日頃から己を厳しく律しているのがわかる。先君を弑して王杖を手にしてからおよそ二十年。内憂外患がなかったといったらうそになるが、国土の大部分が一度も戦火に呑まれず平和を謳歌できたのはこの王の功績に違いない。  だから一か所くらい短所があるのは人として自然なことなのかもしれない。その歪みをアタルクルシュが一身に背負わされているというだけで。 「ほかの者とて同じことです。彼らはただの狂信者の集団ではありません」 「そういう話をおまえはちっとも上げてこないじゃないか」 「いえ、報告はしていたはずです」 「確かに報告あったな。六年のうちに二回だったか? 最後に聞いたのは四年前だったと記憶してるが?」 「あれから状況があまり変わらなかったので、陛下のお耳に入れるまでもないと判断されたのでしょう」  アタルクルシュは苦しい言い訳をしたが、エサルセネンは信じていないようだった。 「少なくともほかの者なら、おまえと違って報告をさぼったり軍監を追い払ったりはしないはずだ」  そして急に真顔になり、首を絞め上げるように顎をつかみあげられた。 「スラバガルムでなにをしている。なぜ戦況が膠着している。なにが原因だ。説明しろ」  目を合わせたら、頭の中をすべて暴かれそうだった。アタルクルシュはうろうろと視線を泳がせた。 「そ、それは……いまはできません」 「なぜだ」 「さ、酒でちょっと、酔っぱらってしまって……」  エサルセネンが口の端を歪ませ、くつくつと嘲るような笑い声を立てた。 「ああ、そうだったな。おまえは一人で勝手に酒盛りをはじめて酔いつぶれて――」  声が低くなるのとともに首を絞め上げる手に力がこもる。 「うっ……」 「わざとだろう」  うっすら紅潮したアタルクルシュは窒息して声も出せず、首を振って否定の意思を示そうとしたがそれもかなわず、ただ途方にくれて目を潤ませた。 「おまえはただ、私を避けるために出奔し、私の目が届かぬことをいいことに辺境で羽をのばしていた。ちがうか?」  口ぶりは返答を求める風ではあったが、その手は声を出すことはおろか、息をすることすら戒めている。その手を外すことは造作ないと頭ではわかっていたが、アタルクルシュはどうしても抵抗できなかった。幼い頃からずっと兄王の力の前に服従を強いられ続けてきたことが、なによりも彼の体を縛っていた。  ふわっと意識が遠くなって、気がついたら背後から抱えられるようにして横になっていた。背中に感じる体温が檻のように感じられた。緊張で心臓が踊っていた。視界の端にもやがかかり、胸を圧迫するような息苦しさに襲われた。けれど兄王の腕の中でアタルクルシュはただ息苦しさから逃れるためだけに浅い呼吸を繰り返していた。 「このまま都に残れ。黒峪(スラバガルム)には戻るな」  これ以上はないくらい近くにいるのに、兄王の声は靄一枚隔てた先に聞こえた。アタルクルシュは首を横に振ろうとした。腕から逃れようとしてもがいたが、自分の体が自分でないようにうまく動かない。それでも嫌がっているのは伝わったようだ。 「おまえに拒否する権利はない。六年もかけて小さな乱すら収められぬものに兵は任せられぬ。それが嫌なら白峨(セナンエリル)を取り戻せ。成果を示せ」  アタルクルシュの体をまさぐりながら、エサルセネンが言った。 「一年だ。一年でラッダード派を消滅させろ。それができなければ連れ戻す。よいな」  抗議の代わりにアタルクルシュの口から漏れ出たのは苦しげなうめき声だった。彼の体を熟知している兄王の手が最も敏感な部分をもてあそんでいた。どこをどう触ればどんな反応をするのか知っていて、わざとやっているのだ。アタルクルシュははじめ体をまるめて耐えていたが、無理やり掻き上げられる快楽に次第に耐えられなくなり、うめき声は艶めいた喘ぎ声になった。ついに耐えきれなくなって目の前が真っ白になりかけたところで、きゅっと締め上げられる。アタルクルシュは脚をつっぱらせて小さな悲鳴をあげた。 「酒といい、一人で勝手に楽しむな。少しは待つということを覚えろ」  生殺しの状態で突き放されてぷるぷると震えているアタルクルシュの耳に、エサルセネンは勝ち誇ったように囁きかけた。 「夜は長い、ゆっくり楽しもうじゃないか」

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