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紅の檻

 砂漠の夜は冷える。だが、イリアの肌に触れる空気は、生ぬるく湿っていた。  細く光る三日月が、奴隷船の甲板を淡く照らしている。鎖に繋がれたまま、イリアは膝を抱えていた。舟は波間を静かに揺れ、時折きしむような音がする。 「……明日には着くって言ってた」  隣に座る男がぽつりと呟いた。痩せこけた体、片目に巻かれた包帯、荒れた唇。  彼もまた、美しかった。だがイリアとは違う種類の美だ。  イリアの民族、リュサ人は「神の花」と呼ばれた。男女問わず、誰もが人形のように整った顔立ちを持ち、雪のような肌と夜のような髪を持つ。  ──だから狩られた。 「箱庭、って言ってたな。王族の島……」  囁く声が、波の音に混じる。 「真紅の箱庭。そこに連れてかれるって」  イリアは何も返さなかった。  唇を噛む。舌に、鉄の味が広がった。  幼いころ、母に抱かれて聞いた民話を思い出す。  世界の果てには、男だけが咲き誇る楽園がある。そこでは歌が、香が、酒が、悦楽が、決して尽きることはない。だが、その花園には門がない。  一度足を踏み入れた者は、決して外には戻れない──。 (そんなの、ただの童話だ)  だが、その幻想のような場所が現実に存在し、自分がそこへ連れて行かれているのだと思うと、皮膚の下で血が凍る。  ──誰かに抱かれる。  ──誰かに使われる。  ──誰かのものになる。  まだ誰のことも知らないのに、身体が勝手に震えた。   ◆ ◆ ◆  翌朝、目を覚ますと、船は静止していた。  船底の格子窓から射し込む光が、やけに赤い。 「降ろせ」  鋭い声が響き、甲板に奴隷たちが引き出されていく。イリアも男たちに腕をつかまれ、無理やり立たされた。裸足の足が、熱い板に焼かれる。  まぶしさに目を細めたイリアの視界に、赤い庭園が広がった。  それは島だった。  遠くに見える砂漠の海岸線と異なり、ここはどこまでも豊穣で、どこまでも紅かった。  赤い花が咲き乱れ、真紅の絹が風にはためき、空気には濃密な甘い香が漂っている。  だが、最も異様だったのはそこにいた男たちだった。  皆、驚くほど美しい。  異なる国や文化から連れてこられたのだろう。金髪碧眼、褐色の肌、緑の瞳、銀髪の双子、絹のような長髪──。だが、彼らには一つだけ共通点があった。  男でありながら、花のように艶やかであること。 「ようこそ、“真紅の箱庭”へ」  低く、柔らかな声が響く。  中央の楼閣から、ひとりの男が現れた。金の刺繍を施した衣を身にまとい、隻眼に金の飾り布を垂らしている。彼の周囲にいる男たちが一斉に跪いた。 「この方が、箱庭の主……ラザール様だ」  誰かが小声で呟く。  ラザールと呼ばれた男は、緩やかな歩みでこちらへ近づき、イリアの前で足を止めた。 「リュサの子か。なるほど……美しい」  あっけなく顎をつかまれ、顔を上げさせられる。  紫の瞳が、イリアを射抜いた。 「この瞳、肌、唇……まるで神殿に飾る偶像だな。私はこういう者が好きだ」  男の口調は穏やかだったが、その言葉の裏にある支配欲は隠しようがなかった。 「今日からお前は、私のものだ」  囁かれた声に、イリアは背筋を凍らせた。  だが、声を出せない。目を逸らすことすらできない。 「さあ、香の間へ通してやれ。まずは身体を洗わせ、香を焚き込ませろ。最初の夜に備えねばな」  イリアは抗おうとした。だが、すぐに両脇を男たちに抱えられ、楼閣の中へと引きずられていった。  その瞬間、見上げた空は青く澄み、どこまでも美しかった。  だが、イリアにはわかっていた。  ──ここは楽園ではない。  悦楽という名の牢獄だ。  扉が閉まる。香の匂いが、濃く甘く、鼻腔を満たした。

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