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香の間の花嫁

 扉が閉まると同時に、甘い沈香(じんこう)の匂いが濃く胸に刺さった。  半ば抱えられるようにして通された回廊は、壁から床まですべて深紅の絹で覆われている。絹の向こうで揺れる無数の灯りが、揺蕩たゆたう焔の獣のように影を躍らせていた。   やがて足が止まる。円形の浴室――“(かぐわ)の間”。  中央に置かれた大理石の湯槽には碧い湯が張られ、薔薇と似た花弁が敷き詰められている。水面から立ち上る蒸気は濃密で、吐く息さえ甘く溶けるほどだった。  「怖がることはありませんよ、リュサの子」   囁き声とともに、長い金髪をひとつに束ねた青年が近づく。しなやかな体に真珠の鎖だけを纏ったその男は、艶やかな紫の瞳でイリアを見つめた。  「私はジュナン。この箱庭で“先に咲いた花”です。今夜からあなたのお世話役――あるいは案内人と呼んでも構いません」   ジュナンは優雅に微笑むと、イリアの手首を取り、鎖を外した。  冷たい金属の重さが失われた瞬間、代わりに湯気と花の香りがまとうように触れてくる。  「さあ、衣を」   躊躇するより早く、数人の侍従がイリアの上着を抜き取り、淡い空気のなかへ放る。布が床を打つ乾いた音。白い肌が灯火に晒され、花弁より薄い紅が頬を染めていく。   湯に沈むと、肌の上を花弁が滑り、薫り高い精油が混じった水が全身を撫でた。  侍従が数人がかりで髪を梳き、指の腹で首筋を揉む。ジュナンは湯縁に膝をつき、イリアの顎を支えた。  「ここでは身体を清めることも、快楽の儀式の一部なのです」   囁きながら、ジュナンの指先が鎖骨をなぞる。柔らかいのに芯を持った動きが、ひどく甘美で、思わず肩が震えた。  「――っ、放せ」   掠れた声は水音に溺れ、ジュナンは楽しげに目を細める。  「嫌がる花ほど、香り立つ。けれど……」   ジュナンが手を止めた。扉の向こうで、杖を鳴らす乾いた音がした。  「ミフリ様だ」侍従が小声で言う。   入ってきたのは長い外套に細い体を包んだ少年のような男――宮廷魔術師ミフリ。銀糸の髪が淡い光を纏い、手には青い水晶壺を抱えている。  「王命。初夜に備え、〈沈睡(しんすい)(くん)〉を焚く」   無表情のまま短く告げると、ミフリは湯槽の縁へ香炉を置いた。壺の口が開くと、水蒸気とは違う白煙がゆるく広がり、頭の奥まで痺れる甘さが忍び込んでくる。   息を吸うたび胸がとくん、と高鳴り、指先が痺れる。  ジュナンがイリアの耳元で囁いた。  「抗わなくていい。ここでは悦楽こそが解放なのだから」   花弁、湯、香、指――すべてが境界を溶かし合い、イリアの輪郭を緩めていく。目の端では侍従たちが薄布と銀糸で仕立てられた衣を用意していた。透ける紅布に金の鎖が絡む、儀式用の“花嫁衣”。   湯から上がる瞬間、花弁が肌に張りつき、冷たい空気がつい先ほどまでの熱を切り裂いた。  侍従は迷いなくタオルを押し当て、滴る雫を拭い、香油を指で広げる。その一つ一つが、秘密の火種を置いていくようだった。   薄衣を纏わされると、身体のラインが灯火に縁取られ、視線が刺さるたび血が逆流する。  ジュナンは嬉々として頷くと、イリアに赤い花冠をかぶせ、静かに手を取った。  「これで準備は整いました。あとは“主”がおいでになるのを待つのみ」   回廊の奥から低い太鼓のような足音が近づく。  先の儀式とは比べものにならない熱が胸を叩き、イリアは思わず衣の端を掴んだ。   扉が開く。  逆光の向こう、金と紅に彩られた影――王ラザール。冷たい紫の瞳が、絡め取るようにイリアを射抜いた。  「花は咲いたか?」   王の声が落ちた刹那、甘い煙がさらに濃く揺れ、視界が赤く滲む。  足が竦むのを、ジュナンの指がそっと支えた。  「さあ、箱庭の新しい花へご挨拶を」   世界が香と鼓動で満たされる中、イリアは硬い床に膝をつく。  今夜、何が始まるのか――それを想像するだけで、体の奥が、今は知らぬ痛みを待ちわびるかのように震えた。   王の足音が一歩、また一歩。  その距離が花弁一枚分まで迫ったところで、場を満たす沈香が夕焼けのように深まり、第二の幕が静かに下りた。

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