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第10話
最寄りの村の唯一の宿で、「今日泊まりたい」と申し出たクレイドとリオンに、宿の女将は申し訳なさそうな顔をした。
「すまないねえ、空いている部屋はもう一つしかないんだよ。一人用の部屋だし寝台が一つしかないんだけど……」
話をしながら、女将はクレイドの顔と胸元のブローチにちらちら視線をやっている。フードを深くかぶったままで顔がよく見えないので、不審に思っているのかもしれない。クレイドは特に気にした様子もなく頷いた。
「その部屋で構いません。いいですよね、リオン様」
クレイドに聞かれ、リオンは「……うん」と頷いた。
どう考えても泊まる以外の選択肢はなかった。外は桶をひっくり返したような土砂降りの雨だし、リオンもクレイドも雨で濡れそぼっている。野宿よりはましだと思わなければならない。
案内された部屋は二階の角部屋だった。狭い一人用の部屋で、中には寝台が一つ、小さなテーブルと椅子が一つずつ。小さな窓の外はうす暗く、強い雨がガラスに叩きつけている。
リオンは部屋の入口に立ち尽くした。わかってはいたが、やはり寝台が一つしかないという光景は衝撃だった。
(ここで一晩、クレイドと過ごすなんて……)
そっとクレイドの方を見ると、同じように衝撃を受けたような顔をしている。
「これは……予想以上に狭いですね」
「……うん」
「まずは……着替えてしまいましょうか」
「……そうだね」
雨が激しく打ち付ける中を馬で駆けてきたので、リオンもクレイドも全身濡れていた。盥にお湯をもらい、それで体を拭き清めながら借りたシャツとズボンに着替える。
「……っ」
お互い背中合わせになり狭い中で着替えていたので、腕と腕がぶつかった。しっとりと湿った肌の感触に、リオンは思わずびくりと肩を揺らしてしまった。クレイドがはっとしたように距離を取る。
「――すみません」
「ううん、こっちこそ……」
リオンはどうしてよいかわからず、顔を伏せて急いで着替えを済ませた。
「リオン様、隣に食堂があるようですよ。行ってみますか?」
クレイドに聞かれたが、リオンは首を振った。食欲は少しも湧かなかった。
「僕は大丈夫。お昼にたくさんご馳走になったからお腹が空かないみたい。クレイドは気にせずに食べてきて」
そう言うと、クレイドは心配そうに眉を寄せた。
「具合が悪いのですか? 長い時間雨にあたっていたので、身体が冷えて風邪を引いたのかもしれません」
「ううん、違う。具合が悪いわけじゃないんだ。ちょっと疲れただけ」
クレイドは少しのあいだ黙り込んでいたが、やがて「わかりました」と頷いた。
「それでは私は食事に行ってきます。何か軽く食べれるようなものがあったら買ってきますね。身体が冷えて疲れがたまっているでしょうから、温かくして先に寝台でお休みください」
「うん、そうさせてもらうね」
リオンはそのまま寝台にもぐり込んだ。「おやすみなさい」と声を掛けてクレイドが部屋の外に出て行く。かちゃんと鍵の閉まる音が聞こえ、ようやくリオンはほっと息を吐いた。
クレイドと同じ部屋に泊まるという状況に、普段のリオンならどきどきと胸を高鳴らせていただろう。だけど今はそんな余裕もなかった。
さっき生い立ちの話を聞いてから、クレイドのことがよくわからなくなってしまったのだ。クレイドを好きな気持ちが変わったわけじゃない。だけど胸の中に小さなしこりのようなものが出来てしまい、どう接していいかわからないし、目を合わせることが出来ないのだ。
もともとリオンは人との交流が極端に少なかった。母親以外にまともに接したのはクレイドとオースティンくらいだ。それなのにクレイドにあんなに過酷な過去があると聞き、この気持ちをどう処理していいかわからなかった。
リオンは寝台の中でぎゅっと丸まって目を瞑った。
(僕はどうしたらいいんだろう。わからないよ)
クレイドの心の中には、きっと大きな穴が空いているのだ。そこから落としてしまったものがたくさんあって、もしかしたらクレイドの心の中は、リオンが思うよりもっと虚ろなのかもしれない……。
少し横になるだけのつもりが、いつのまにか本格的に眠り込んでしまったようだ。次に目を開けたとき部屋の中は真っ暗だった。
雨も風も収まったようで窓の外は静かだ。寝台の横のテーブルの上で、ランタンの小さな光が揺れている。
(えっ、もしかしてもう夜なの? クレイドは?)
驚きながらリオンは部屋の中に視線を彷徨わせる。
クレイドは寝台の足側の方にいた。壁沿いに置いた椅子に腰かけて、身動きもせずにじっと床を見つめている。
(起きてる……)
リオンはじっと目を細めてクレイドの顔を見た。
クレイドは静かに凪いだ表情でじっと一点を見つめていた。その顔にはいつもの生気も穏やかさもない。心を持たない人形のような静かに佇む姿を見た瞬間、リオンにはわかってしまった。
凪いだように静かな表情をしながらも、今クレイドの胸の中を満たしているのは孤独と寂しさだ。
どうして自分はさっき、『クレイドの心には穴が空いている』だとか『そのせいで心の中が虚ろなのかもしれない』などと思ったのだろう。
そんなわけがない。
クレイドは何でもない顔を装いながら、その胸の奥深くに、真っ暗な感情を押し込めていただけなのだ。
どうしようもなく悲しくて胸が軋んで、リオンは起き上がり「クレイド」と声を掛けた。
クレイドが夢からさめたような顔でこちらを見る。
「――リオン様? 起きたのですか」
「うん」
「具合はどうですか?」
「なんともないよ」
リオンがそう言うと、クレイドは安心したように息をついた。
「それなら良かったです。あ、食事にしますか? 隣で簡単に食べられるものを包んでもらいました」
クレイドは立ち上がり、机の上の白い包みをこちらに差し出そうとしたが、リオンは「いらない」と首を振った。
「やはり具合が……?」
「ううん、違うんだ」
リオンは手を伸ばしクレイドの服の裾を掴んだ。そっと引き寄せる。クレイドが驚いたように目を瞬いた。
「クレイド……」
灰色の瞳をのぞき込んだら、感情が高ぶり涙がこぼれそうになった。
「リオン様――?」
「前に言ってたよね、僕とクレイドが似てるって。覚えてる?」
「え? ――ええ。そういえば確かに言いましたね」
「あれってどう意味なのか教えて欲しいんだ。クレイドの本当の気持ちが聞きたい」
「私の……本当の気持ち?」
クレイドが戸惑ったように言う。
「僕ね、ずっとわからなくて考えてたんだ。どうして僕なんかと、立派な騎士のクレイドが似てるのかって。でも今日――」
街で『獣人だ』と差別的な言葉を投げかけられクレイドを見て、そして修道院に行ってお母さんの話を聞いて。
「似てるって思った。本当に昔の自分を見ているようで」
「すみません、気を悪くされましたよね。私のような獣人が、ブルーメ様と似ているなどと」
「そうじゃない。そんなことを思ったんじゃないんだ。ただ、クレイドも『そう』なのかなって」
「そう、とは?」
不思議そうに首を傾げるクレイドを、リオンは見あげた。
「クレイドも……自分のことが愛せないの?」
リオンのその言葉に、はっとクレイドが息をのんだ。
「僕にはわかるような気がする。だって僕も同じだったから。自分が生まれたことで母親から幸せを奪ったんじゃないかって思っていたから。だから――きっとクレイドも同じことを思っていたよね? 違う、今もそう思って苦しいんでしょ? 平気なんかじゃないんでしょ?」
クレイドは何も言わなかった。ただ黙ってほほ笑むように目を細める。それが肯定の返事であるとわかってしまって、リオンはぽろりと涙を流した。
やっぱりそうなのだ。クレイドは自分を大事に出来ず、自分を愛することが出来ない。大切な母親を苦しめた自分を憎んでいるのだ。
少し前の自分もそうだった。でもクレイドに出会い、クレイドのおかげで自分というものが好きになれた。そうであるなら、この人に自分は何をしてあげられるだろう。
自分には何もない。この人に差し出せるものは心しかないけれど――。
「僕もずっと、母親のことを不幸にしたって思ってた。でもクレイドが『母さんの手紙からは僕に対する愛情しか感じなかった』って言ってくれたでしょ? あのときはそう言ってもらえて本当に嬉しかったんだ。勇気が出た。だから――今度は僕が言うよ。あなたのお母さんは恨んでなんかない。あなたのことを、死ぬまで愛していた」
クレイドは目を見張ってリオンの話を聞いていたが、やがて小さく微笑んだ。
「リオン様は強くなりましたね」
「うん。クレイドのおかげだ」
「そんなことはありません。もともとあなたは強かった。隠れていたものが表に出てきただけのことです。ですが……俺は弱い。あのときリオン様にそう言っておきながら、自分はそんなふうに信じることが出来ないんですよ。笑ってしまうでしょう」
その諦めたように静かな笑顔を見て、リオンの胸は張り裂けそうだった。
「ねえクレイド、本当のところなんてわからないんだよ。死んでしまった人の心を知ることは出来ないんだ。真実は死んでしまった人たちが持って行ってしまった。だからね、生きている僕たちには、信じることしか出来ないんだ。『きっと母さんたちは不幸な人生じゃなかった、自分たちはきっと最後まで愛されたんだ』って信じるしかないんだ」
リオンはクレイドの服を掴み、揺さぶりながら懸命に訴えた。
「あなたが自分のことを大事に出来ないというなら、僕がその分あなたを大事にする。あなたが……自分のことを愛せないというなら、僕がそばにいて、その分あなたを愛するから」
「リオン、さま……」
クレイドの顔から、浮かべていた笑みがするっと滑り落ち、消えた。徐々に強張っていく顔でクレイドが小さく呟く。
「どうして、あなたが、そこまで――」
あとは声にならず、クレイドはぐっと息を詰めた。まるで込み上げるものを必死で飲み下すように、喉が何度も大きく上下する。
リオンはその瞳の中を必死に覗き込んだ。
ここを開けて、僕を中に入れて、と願いながら。
「――だってあなたは僕を絶望から救ってくれた恩人なんだ。暗いところから手を引いて明るいところまで連れてきてくれた。この世界の温かさを、美しさを、そして愛を教えてくれた……神様だもの」
クレイドが目を大きく見張った。
少しだけ怯えたように収縮する灰色の虹彩の中で、固く捩じれて固まっていた蕾のようなものが緩み、ほどけて、ぱらりと開く。そっと顔をのぞかせる。
そして、そこから滲みだしてきたのは美しく光る涙の粒だった。
(――ああ、そうか……。クレイドは本当はこういう顔をしていたんだ……)
愛しい、と思った。 目の前の男が酷く愛しい。
リオンは手を伸ばし、クレイドの頬に触れた。びくりとクレイドの身体が震える。それでも構わずリオンは一筋だけ流れた涙の後をそっと拭った。
「リオン様」
切ない声でクレイドが呟き、ふいにリオンの身体を掻き抱いた。
強い力で抱きしめてくる腕も、広い背中も震えていた。それが伝染してしまったかのように、リオンの心もどうしようもなく震える。
(この人に心をあげたい――)
苦しいことや悲しいことを全部、自分の心に移してしまいたい。そうして空いた心の隙間に、温かなものが芽吹けるように。この人の心が明るいもので溢れるように。
リオンは祈るような気持ちで、いつまでもクレイドの大きな身体を抱きしめ返した。
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