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第12話
ヴァルハルトとの国境付近で小競り合いが起きてから三日。王宮は落ち着きを失ったままだった。城の中を常に騎士たちが慌ただしく行き交っていて、侍従たちも一様に不安な顔をしている。
そんな異様な雰囲気の中、リオンは不安を抱えながらいつも通りの生活を続けていた。というよりも、何も出来ることがなかったのだ。
クレイドやオースティンに状況を聞きたかったが多忙な二人に会うことは出来ず、話が出来るのはリオンの部屋付きの女官や護衛の騎士だけ。
だが、何を聞いても皆一様に「リオン様が心配なさらなくても大丈夫ですよ」などと言って質問に答えてくれないのだ。しかも「出来るだけお部屋か中庭でお過ごしください」と言われてしまえば、外に出て聞きまわることも出来ない。
それならば自分で情報を集めよう……と図書塔から国史についての本を何冊か借りてきてもらったが、書物はどれも難しく、なかなか一人では読み進めることが出来なかった。
万策尽きて困り果てていたが、ある日の午後散歩に出た先で、見知った騎士が中庭の警護にあたっているのを見つけた。以前護衛についてもらい、顔なじみになっていた若い赤毛の騎士だ。
(もしかして、この人なら教えてくれるかな……)
彼は今、リオンの護衛の任務についていないので、箝口令が敷かれていないかもしれない。
リオンはそんなことを考えながら、背後に付く護衛の騎士たちを伺った。彼らはリオンから少し離れたところに立って話し込んでいる。中庭にはたくさんの警備兵がいるので、気を抜いているのだろう。
今しかない、とリオンは赤毛の騎士に声を掛けた。
「あの……。ヴァルハルトとの間に何があったのか……今ノルツブルクの国はどうなっているのか教えてくれませんか?」
挨拶もそこそこにリオンがそう切りだすと、赤毛の騎士は困ったように首を振った。
「いえ、それはちょっと……。ブルーメ様に余計なことを話してはいけないことになっていますし」
この騎士にまで口止めをされていたのか……と驚きながらも、リオンは懇願を込めて彼の顔をじっと見つめた。
「お願いします。あなたにしか頼れないのです」
「え? わ、私ですか!?」
騎士は何故か顔を真っ赤にして驚いていたが、やがて「私から聞いたってことは言わないでくださいね」と念を押して教えてくれた。
ノルツブルクの国境警備隊が、ヴァルハルトとの国境沿いの森で不審な賊を発見し追跡し、その際に攻撃を受けたとのことらしい。
接近して剣を交えた騎士が相手の剣にヴァルハルト伝統の彫りを見たと証言していて、さらに落ちていた矢尻の形状からを見ても、相手がヴァルハイトの兵士である可能性が高いという。
だが当のヴァルハルト側は『自国の兵ではない』と頑なに言い張り、それどころか言いがかりだと主張して、ノルツブルクへ抗議を申し入れているそうだ。
「まさか……そんなことになっているなんて……。このまま戦争になったりしないですよね?」
話を聞いたリオンが不安を口にすると、騎士は安心させるように微笑んで言った。
「ブルーメ様、心配には及びません。ヴァルハルトとの和平交渉に、宰相が向かうことになっています。護衛にはクレイド隊長が付くとのことなので、いくらヴァルハルトでもおいそれと手出しは出来ませんよ」
「え?」
クレイドが宰相とともにヴァルハルトに向かう――?
「あれ、大丈夫ですか、ブルーメ様? なんか顔青いですが……」
「う、うん。だいじょうぶ、です……」
ありがとうございますとその騎士に礼を言って別れる。
中庭を出て自分の部屋へと戻りながらも、リオンの心臓は狂ったように冷たい鼓動を打っていた。
(クレイドがヴァルハルトに向かう? 緊張状態の、戦争に発展するかもしれない国に? 嘘だよね?)
自室に戻ってもクレイドのことばかりを考えてしまい、気が付くと部屋の中は薄暗くなっていた。
(あ……そろそろランプをつけなくちゃ……)
リオンがのろのろと椅子から立ち上がったとき、部屋の扉がノックされた。
「リオン様」
扉越しのその声にリオンは一瞬息を止め、それから急いで部屋の入口に駆け寄った。扉を開けると、そこにはクレイドが立っていた。
「クレイド……!」
夢か幻かと思い一瞬呆けてしまったが、そんなはずはない。本物だ。
(やっと会えた……)
言葉にならない気持ちが込み上げて声が出ない。涙をこらえて見上げるリオンに、クレイドは微笑んでくれた。
「中に入ってもよろしいですか?」
「う、うん。もちろん。入って」
クレイドは少し頬がこけたようだった。目の下にも黒ずんでいる。きっとかなり疲労がたまっているのだろう。
部屋に入ってきたクレイドはしばらく窓の外を見つめていたが、ゆっくりと振り返った。
「明日からしばらくこの国を留守にします」
その言葉にさっと血の気が引いた。
「ヴァルハルトに……行くの?」
クレイドは一瞬だけ驚いた顔をしたが、顔を引き締めて小さく頷いた。
「ご存じでしたか。そうです。和平交渉へ向かう官僚の護衛を任されました」
リオンは静かに唇を噛んだ。やはりさっき若手の騎士に聞いた話は本当だったのだ。
「でも心配ありませんよ。ヴァルハルト側も今回の件については後ろ暗いところがあるので、強弁な態度はとらないでしょう。戦争に発展するような事態にはならない。危険なことはありません」
危険がないなんて思えなかった。震える声でリオンは尋ねる。
「本当に……行くの?」
「大丈夫ですよ、リオン様。この国は何があっても守ります」
クレイドの言葉にリオンは首を振った。
「そうじゃないんだ……。僕はクレイドのことが心配なんだよ」
初めはこの国のことを心配していたはずなのに、クレイドがヴァルハルトに向かうと聞いた瞬間から、クレイドのことしか考えられなくなってしまった。
「私は獣人ですよ? 大丈夫です」
「うん、だけど……」
クレイドが強いことはわかっている。だけど理屈じゃないのだ。自分の好きな人が危険のある場所に出向き、自分の知らないところで傷いて血を流すかもしれないと思うだけで恐怖なのだ。
「それは、本当にクレイドが行かなくちゃだめなの?」
「え?」
「他の騎士じゃ駄目なの? どうしてもクレイドが行かなくちゃいけないの?」
「獣人である私が同行することに意味があるのです。それに私は第一騎士団の隊長です」
「でも――」
ふいに王宮の広間の中で泥と血に濡れて蹲っていた騎士の姿を思い出し、その瞬間ぞっと背筋が冷えた。リオンの瞳からはぽろぽろと涙が零れ始める。
(クレイド、行かないで……)
その言葉は声にならなかった。しゃくりを上げて泣き出したリオンの肩に、クレイドが優しく触れる。
「リオン様、何度も言いますがこれは戦ではないので、そんなに心配することは――」
「わかってるけど、心配でしょうがないんだよ……!」
クレイドは人のためなら自分が傷ついてもいいと考える人間だ。自分を守ることよりも先に、他人を守ろうとする。
「もしあなたが傷ついたらと思うと、いてもたってもいられないんだ……情けないけど怖くて堪らない。僕にとって、何よりもクレイドが大事だから」
「リオン様……」
クレイドは固い顔で黙り込んでしまった。
その顔を見ていると少しずつ頭が冷えてきた。国のためにこれから危険な任務に向かうクレイドに、こんな身勝手な言葉をかけるなんてどうかしている。
リオンは深呼吸を繰り返し、必死に気持ちを静めた。
「――ごめんなさい、取り乱して……。あなたは国のために務めを果たそうとしているのに」
リオンは涙を拭き顔を上げた。いつも首から下げている十字架を外し、クレイドへと差し出す。
「これを……返すね。クレイドが優しいから甘えてずっと持っていたけど、この十字架はクレイドの大事なお守りでしょう? 僕は一緒に行けないけど、ずっとクレイドのことを考えているよ。無事を願ってる。そばにはいられないけど」
耐え切れずリオンの瞳からは再び涙がこぼれ落ちた。
「お願い……無事に戻ってきて」
「――っ」
クレイドが低い声で呻いた次の瞬間、リオンはクレイドに抱きしめられていた。
太くたくましい腕がリオンの背中に回り、息が出来ないほどに強く抱擁される。クレイドの熱い吐息が首筋に当たる。分厚い胸が、そこから伝わってくる早い鼓動が、「……リオン様」と呟く声の切なさが、リオンの身体を芯から熱くさせる。
腕の力が緩んだ。リオンの頬に大きな手のひらがかかり、上を向かされる。そこに熱い唇が降ってきた。
何度も角度を変え、クレイドは情熱的にリオンの唇を吸う。何が起きているのかわからず、リオンは身体を強張らせ目を見開いた。
(キス……されてる……?)
信じられない。どうしてクレイドが自分にキスをしているのだろう。
茫然としているあいだにクレイドの唇が離れていく。抱擁を解いたクレイドは、数歩後ろに下がって距離を取ると、深く俯いてしまった。
「クレイ、ド……?」
「――すみません、忘れてください」
「え?」
その言葉に頭が真っ白になった。火照っていた身体の熱が一気に引いていく。
「わ……忘れてくださいって……どういうこと?」
「言葉のままです」
クレイドは固い顔で俯いたまま。視線も合わせてくれない冷淡なクレイドの態度に、かあっと頭に血が上った。
「なんで……? 忘れるなんて嫌だよ……! 僕はクレイドが好きなのに……!」
激情に任せて吐き出してしまった告白に、クレイドが目を見開き、それからすっと視線を逸らした。拒否するかのような硬い表情にリオンの胸はずきっと痛む。
「クレイド……? なんで何も言ってくれないの?」
「私は……この国の騎士です」
「そんなのわかってるよ? 僕があなたを好きだと言っているの!」
何も言わないクレイドに悲しみが込み上げてきた。こんなに近くにいるのに心はとても遠く感じる。
「お願い、何か言ってよ……」
「――私はあなたの気持ちには応えられない」
「え……?」
「その十字架は、あなたが持っていてください」
そう言うと、クレイドは身を翻し部屋を出て行ってしまった。一人残され、リオンは茫然と呟いた。
「それだけなの……?」
自分はクレイドに好きだと言った。クレイドだってキスをしてくれたということは、自分に好意を持ってくれているのではないのか。
それなのにクレイドは『気持ちには応えられない』と言う。
(わからないよ、クレイド……。どうして……?)
リオンは部屋の真ん中に佇み、静かに涙を落した。
そして次の日の朝、クレイドは宰相と数人の騎士とともに、ヴァルハルトへと発っていった。
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