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第1話

「……あ、義兄さん、ちゃんといる……!」  少し風が冷たくなり始めた夕刻。最寄り駅から続く道を曲がり、自宅に面した通りに入ったところで、高宮(たかみや)彬(あきら)は思わず独りごちた。  首都圏近郊にある亡き両親が残してくれた家の、やや古めかしい門柱の脇で、姉・高宮麻衣(まい)の夫である高宮昭(あきら)が自転車の車輪に空気を入れている。  麻衣が保育園に預けている子供たちを引き取って仕事から帰ってくるのには、まだ早い時間だ。昭は確か今日は夜勤の予定だったから、ちょうど出勤するところなのだろう。  いつもどおり快活な様子だし、何も問題は起きていなさそうだと安堵する。 (よかったぁ。虫の知らせってやつかと思った!) 筆で引いたような綺麗な形の眉と、黒目の大きなぱっちりとした目。  さらりと軽い黒髪を真ん中で分けて額を出したさわやかな髪型と、すっと通った鼻筋。  まだ少しだけ十代の雰囲気を残す、健康的な赤味を帯びた口唇――――。 彬は都内の大学に通う二十一歳の学生で、姉夫婦とその二人の子供たちと一緒に暮らしている。今日は金曜日で、普段なら講義が終わってから遊びに出かけることが多いのだが、いつものメンバーが急な体調不良や家庭の事情などで早退してしまった。  それならと、図書館でレポートの調べ物でもしてから帰ろうと思ったら午後から閉館で入れず、立ち寄ろうと思った行きつけのカフェや書店も臨時休業で、それ以上どこか回ろうという気がそがれてしまった。  それで、もう今日は家に帰ろうと駅に向かいながらスマートフォンを見たら、気づかない間に麻衣から何回も着信があり、慌てて折り返したが通じない。昭にも家の固定電話にもかけてみたが留守番電話になっており、もしや何か良くないことが起こっていて、とにかく早く帰宅するよう、何者かに導かれているのではないかと不安になり始めたのだ。  ちょうど両親が車の事故で亡くなった、中学生のときのように。 「おう、お帰り彬。金曜だってのに、珍しく早く帰ってきたな?」  彬が視界に入るなり、昭が明るく人懐っこい笑みを見せて言った。  偶然にも名前の読みが同じ「あきら」で、婚姻時に高宮姓になってくれた義兄。  彬の七歳年上の麻衣とは同級生で、二人の子供たちにとってだけでなく、彬にとっても親のような存在だ。家にいてくれるだけで、安心感を覚える。 「ただいま。なんか早く帰ることになっちゃった。義兄さん、これから仕事だよね?」 「ああ。麻衣とチビたちが帰ってきたら、風呂とか頼めるか?」 「オッケー。任せて」  昭は家事育児はまめにこなすほうだが、ネットワークエンジニアをしていて、たまに夜勤がある。麻衣もフルタイムで働いているので、彬は甥と姪が生まれたばかりの頃から面倒を見てきた。もしかしたら先ほどの麻衣からの電話は、保育園に迎えにいってほしいとか、そういう要請だったのではないか。 「さっき姉ちゃんからめっちゃ電話あって、家にも義兄さんにもかけたんだけど通じなかったんだよね」 「そうなのか? 悪い、気づかなかったよ。……っと、なんだこりゃっ!」  昭が携帯電話をジャンパーのポケットから取り出そうとしたら、中から小さなゴムのボールがいくつも転がり出てきて、四方八方にばらばらに跳ね落ちた。昨日の夜寝る前に、甥と姪が飴玉だと言ってポケットに突っ込んでいたことを思い出し、彬は言った。 「あー、昨日遊んでたときのやつだ。パパ疲れてるだろうから飴あげるんだとかなんとか言って、いっぱい入れてた」 「はは、そうか。危うく職場の床にぶちまけるところだったよ」  昭が笑い、激しく弾んで門の外まで転がっていったボールを拾いに通りに出る。  彬も拾おうと屈んだところで、通りの曲がり角のほうから嫌な音が聞こえてきた。  猛スピードで走る車のドリフト音だ。何やら胸騒ぎを覚え、はっと顔を上げると、昭が音がしてくるほうを見ながら通りに立ち尽くしていた。 「……義兄さんっ、危ないっ……!」  昭が車に轢かれると思い、駆け出そうとした瞬間。  なぜだか目の前が真っ白になり、体がそれ以上動かなくなった。昭を助けに行かなければ、彼がはねられてしまうかもしれないのに――――! 『……むむ? 本当にこの男でいいのか? 馬車か戦車にはねられると書いてあるが』 『確かに馬車でも戦車でもない気がするが……。まあこの時代の車ってやつには、いろいろな形があるからな』 (……っ? なんだ、こいつらっ?)  霧が晴れるように視界が開けたと思ったら、目の前に不思議な格好をした男が二人、こちらに半ば背を向けて立っていたから、危うく叫びそうになった。  その向こう、通りで立ち尽くす昭に今にもぶつかりそうなところには、まるで時が止まったように静止している車が見える。  ぞっとする光景と彬との間で、西洋の中近世の装束ふうの二人が、顔を突き合わせて巻物のようなものを見ながら立っている。彼らは聞いたこともない、でもどうしてか彬にも理解できる言語で、何ごとかごにょごにょとしゃべっているのだ。  彬は文学部で歴史を学んでいて、専攻は西洋史なのだが、そんな彬から見ても、二人の時代考証がまったくわからない。日本人が思いつく西洋っぽいファンタジー、いわゆるナーロッパ的世界のコスプレでも見ているかのようだ。これは幻覚なのか。 『こいつもまた、ベータかな?』 『そうなんじゃないか? 死亡時刻も合ってるし、「たかみやあきら」で間違いないだろ』 「なっ? ちょ、ちょっと! 何の話をしてるんですか、あんたたちはっ?」  思わず声を発すると、男たちがびくりと身を震わせた。  それから二人してまったく同じ動きで、ゆっくりとこちらを振り返る。 『……おい、まさかあやつ、我らが見えているのか?』 『あり得んだろ。時の流れは止まっているはずだ。見えるわけがない』 「いや見えてるよっ! ていうか、あんたたち何者なんだ! 死亡時刻ってっ?」  彬の問いかけに、男たちが困ったように顔を見合わせる。 『どうすべきだと思う?』 『俺にわかるか。こんなことは今までなかった』 『ここにほかのやつがいるということは、取り違えの可能性もあるぞ?』  二人が腕組みをして、うーん、と首をかしげる。  幻覚にしては妙にリアルな存在感だ。取り違えとは、いったい……? 『なんにしても、我らは職務をまっとうせねばならん』 『ここで死ぬ運命の「たかみやあきら」を連れ帰る。それが我らの責務である』 「……えっ、つまりあんたたち、死神ってことっ?」  コスプレ衣装みたいな格好なのに、ずいぶんと重い職責を担っているようだが、死者を迎えにきたのなら死神といっていいだろう。  時の流れとやらがまた動いたら、あの車は昭にぶつかり、彼は死ぬ運命なのだ。  それがわかって、急に寒気がしてくる。 (義兄さんが死ぬなんて、姉ちゃんとチビたちがかわいそうだ!)  大学生のときに両親を失った麻衣は、彼女を優しく頼もしく支え、深く愛してくれている昭と結婚し、自身も懸命に働いて、彬を大学にまで行かせてくれた。  可愛い子供たちを授かって、これからもっと幸せになろうというときに、最愛の夫を失うなんて。まだ就学前の幼い子供たちが、大好きな父親を奪われるなんて。  そんな理不尽なことがあっていいはずがない。 (だったらいっそ、俺が身代わりになればよくないか?)  今日一日、彬は何かに導かれるように過ごしてきた。昭がここで事故に遭うのを運命だというなら、自分が今ここにいるのだって運命だ。

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