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第一話 壊れた日常と出会い

『ミウさんと一緒に生きます。お前は一人でも生きていける。後のことはよろしく頼む』  家に帰って見つけた、テーブルに置いてあった置き手紙にはそう書いてあった。 「……は?」  悠の脳味噌は理解を拒んだ。父の文字で書いてあることがなにもわからない。  まずミウさんとは誰だ。悠は十八歳になったばかりの専門学生で、とうていひとりで生きていける力は持っていない。金のことは心配しなくていいからやりたいことをやれと言う言葉に甘えて、バイトだってしたことがなかった。こんなあっさりと放り出されて、どうしろというのだろう。家の家賃は、生活費は?  何より──大好きだった父が、急に自分を置いていったことが信じられなかった。 「…………」  人間はあまりにもショックな出来事があると、それを受け入れることができないらしい。だから悠は、いつものように買ってきたものを冷蔵庫に入れて、料理を作り始めた。  今日のメインは鮭のホイル焼きだ。父は特製のタルタルソースが好きで、悠はその研究をし続けていた。けれど、それを食べてくれる人はもういない。 「…………」  何も考えずに、考えられずに料理を完成させる。いつもの癖で、二人前を作ってしまった。 「……いただきます」  両手を合わせてひと口食べる。いつも通りおいしい。おいしいのに、それをわかちあってくれる人がいない。  ──そっか、俺、父さんに捨てられたのか。  ようやくそこで、事実が頭に入ってきた。  その瞬間だった。  ピンポン、とチャイムが鳴る。宅急便でも頼んでいただろうか。そう思っていると、もう一度チャイムが鳴った。 「は、はいっ!」  せっかちな宅配業者なのかもしれない。そう思って急いでドアを開けると、そこには強面の男たちがいた。 「は……?」 「中野さん?」 「あ、え、はい。中野ですけど……」 「中野幹彦さんの借金、五千万、払ってくれる?」 「え……?」  幹彦というのは悠の父の名前だ。父が、借金をしているなんて聞いたことがない。 「な、なんかの間違いじゃないですか。父は普通の会社員で、借金なんて」 「テメェの親父がうちのシマのキャバ通って借金したんだよっ!」  男はいきなり悠を怒鳴りつけた。あまりの迫力に一歩引き下がる。すると、男たちは土足で部屋に入り込んできた。 「な、え、なんなんだよっ……」 「あーくそ、逃げやがったか」  男は置き手紙を見てチッと舌打ちをする。まさか父が書いていた『後のこと』というのは、借金のことだったのか。 「おい、ガキ」 「え、あ」  男にがっと胸倉を掴まれる。呼吸がうまくできない。 「っ、ぅ……!」 「五千万に追加だ。テメェの親父と一緒に逃げたキャバ嬢の借金も含めて、五千五百万。今すぐ用意してもらおうか」 「っ、そんなお金、あるわけが……!」 「いいから出せっつってんだよ!」  男に乱雑に床に叩きつけられる。全身に衝撃を受けて、悠は呻いた。 「ねえってんならテメェの身体で稼いでもらう。顔は悪くねえからホストかソッチ系のビデオか……」 「あ、う……」  怖い、怖い、怖い、怖い。これからどうなってしまうのだろう。悠は何の変哲もない子どもだ。ちょっと料理が得意なだけの平凡な人間。それが、どうしてこんなことになったのか。 「残念だなあ。テメェの父親がキャバ嬢に本気で惚れて、実の息子を捨てるなんてよ」 「────」  捨てられた。誰よりも大好きだった父に。悠がこんなことに巻き込まれることを、わかった上で。 「とりあえず来てもらおうか」 「っ、ひ……!」  男に腕を掴まれて思わず振り払う。すると男は容赦なく悠の頬に拳を入れた。 「ぶっ!」 「いいから来いって言ってんだ!」  力の入らない身体を無理やり引きずられる。自分がもう平和な日常に戻れないことだけはわかった。 「おーいこらー。いきなり手出すなっていつも言ってるだろー?」 「っ、凛さん!」 「カシラ!」  張り詰めた空気に似つかわしくない間の抜けた声。玄関からゆっくりと入ってきた赤髪の男は、悠を見て哀れなものを見る視線を向けた。 「うわーかわいそー。ほっぺ腫れちゃってるじゃん」 「こ、こいつが抵抗したんで……」 「あのさ、ヤクザが簡単にカタギに手出すって思われたらよくないでしょ?」 「す、すみません!」  やはり男たちはヤクザだった。そしておそらく、凛と呼ばれた男はこの中で一番の格上だ。 「……あ、メシある」  凛と呼ばれた男は、食卓に置いてあった少し冷えたホイル焼きをひょいと手で摘まんで食べた。 「ん、んま」 「り、凛さん! 誰か作ったかわからないもの食ったら……!」 「普通の家の食事に毒なんかないだろ。ちょっと薄味だけど悪くないじゃん」 「あ、その……それ、横にあるタルタルつけるから……」  悠は、思わず自分が借金を背負った身であることを忘れて喋ってしまう。 「勝手に喋るんじゃねえっ!」 「こら酒井、怒んない。これつけて食えばいいの?」  こくこくと頷く。凛という男はタルタルを零れんばかりに鮭に乗せて、ぱくりと頬張った。 「……うわ、うまいわ」  凛は驚いていた。まるで人生で初めて美味い物を食べたといわんばかりの顔。それを、嬉しいと思ってしまった。だって悠は、人に喜んでほしくて料理の道を進んだのだから。 「……ね、これアンタが作ったの?」 「……はい」 「料理得意?」 「それなり、に……」 「……ふうん、ね、酒井。離してやって」 「で、でもカシラ」 「おれの言うこと、聞けない?」  凛の声が一段冷たくなる。酒井と呼ばれた男は急いで悠から手を離した。凛という男が何を考えているのかまったくわからない。 「名前、何だっけ?」 「な、中野……悠」 「ユウちゃんか。可愛い名前だね。顔も可愛いし」  そう言って凜は、悠の前にしゃがみこんで。 「は……?」 「ね、ユウちゃん、おれに毎日メシ作ってくれるなら、おれが代わりに借金払ってあげていーよ?」 「…………え?」  彼は意味不明なことを言って、にっこりと笑った。

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