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第二話 はじめてのキッチン
「ここおれの家ね。今日からユウちゃんの仕事場」
「……は、い」
荷物を纏めてついてこいと言われ、悠は現実味を感じることのないまま、マンションの一室にたどり着いた。
一階にはコンシェルジュがいて、中は何部屋あるのかわからない。ヤクザというものはこんなにも稼げるものなのだろうか。
「部屋は空いてるところ使っていーよ」
「……はい」
「……ねー、なんか固くない? そんなに緊張しなくていいのに」
──ヤクザとふたりっきりで緊張しないわけないだろ!
そんなことを言えるはずもなく、すみませんと謝罪を口にする。
「で、キッチンここね」
「はい……」
オープンキッチンは想像以上に綺麗だった。だがそれは手入れされている綺麗さではなく、使っていないからこその綺麗さだ。
「……ちなみに、普段の食事は何を?」
「んー? 部下に買ってこさせたり、カップメン?」
「……そう、ですか。冷蔵庫見てもいいですか」
「うん。いーよー」
冷蔵庫を開けると食材は何もなかった。代わりに酒がいくつか冷えている。
「あの、この近くにスーパーってありますか」
「あるよー。行ったことはないけど」
「じゃあ、食材買ってきます」
「あ、じゃあユウちゃんの得意料理食べたいっ!」
「ま、まだ食べるんですか!?」
凛と呼ばれていた男は結局父の分の夕食をぺろりと完食した。それなのに、まだ食欲があるなんて。
「だってうまかったんだもーん。ね、作って作ってー」
子どものように駄々をこねる成人男性。ここで断ったらきっと命はない。
「……わかりました。けど食べすぎもよくないので、夜食くらいでいいですか」
「うん。ねえユウちゃん、おれ敬語やだなあ」
「えっ」
凛は悠の命を握っている立場だ。それにどう見ても年上。そんな人間に敬語なしで話せと言うのだろうか。
「家でも敬語使われるの固くってやだ。タメで話して?」
だが悠に拒否権などない。この男の気分ひとつで悠は殺されてしまうのだから。
「……わ、かった。あと、聞きたいんだけど」
「ん?」
「名前、凛さんでいいのか?」
「そだよ。けどさん付けやめてね。次言ったら怒っちゃう」
「……じゃあ、凛。苦手な食べ物とか、アレルギーとかあるか」
「んー、アレルギーは調べたことないからわかんないや。嫌いなのは辛いの。麻婆とか食えない」
「わかった、辛いのが駄目だな。すぐに買ってくるから少しだけ──」
「ねえねえ、おれもスーパーついていっていい?」
「は?」
「行ったことないんだよね。それにユウちゃんが逃げないか監視しないと」
凛の目がすうと冷える。彼が何を考えているのかわからない。従わなければきっと──。
「そんなに面白いもん、ないと思うけど」
「うん。じゃけってーい。行こっ」
凛は悠の肩に腕を回して玄関へと向かう。彼からは、隠しきれない血の匂いがする気がした。
凛の家の近くのスーパーが大型の調理器具も置いている店で助かった。自炊をしない凛は当然調理器具も持っておらず、必要なものを買い揃えることになった。
「使うなら何買ってもいーよ。けどそれで変なの作らないでね」
凛はそう言って売場にある調理器具を片っ端から買っていった。そして必要な材料を買い揃えて、ようやく家に戻ってきたのだった。
「じゃあ、今から作る」
「うん。何作るのー? なんか鶏肉買ってたよね、細長いやつ」
「……ささみな。雑炊にしようと思ってる。ちょっと小腹が減った時にちょうどいいんだ」
悠は手を洗って調理を始めた。ささみをタッパーに入れて、酒と塩を加えレンジにかける。その間に鍋に火をかけて、水と電子レンジで温めるパックご飯を入れた。
電子レンジが終わりの音を鳴らしたので、ささみを取り出して、熱いのを我慢しながらほぐしていく。やがて鍋がくつくつと煮えだしたので、少し火を落として、鶏ガラスープの素を入れ蓋をした。
「次は何するのー?」
「これで後は少し煮て、味が染み込めば完成だ」
「へー、早い。料理ってもっと時間かかるもんだと思ってた」
「そりゃ時間かかるのもあるけど……これは簡単なレシピだからな」
「じゃ、できるまでの間に、ユウちゃんのパパが何したか教えてあげるねっ」
凛は、気になっていたが知るのが怖いことを平然と言ってのけた。
「そ、れは……」
「知りたくない? なんで自分が捨てられたのか」
悠が答える間もなく、凜は語りだす。
「ユウちゃんのパパはね、うちが持ってるキャバクラに通ってたんだよ。酒にも嬢にもハマっちゃって、お気に入りの子一位にするためにツケで遊びまくっちゃってさあ」
優しくて家族思いの父が、そんなことをするなんて信じられなかった。悠の母は病気で悠が中学生の時に亡くなった。父の部屋には彼女の写真が置いてあって、死に別れても尚母を愛しているのだと思っていたのに。
「で、借金でヤバくなった時に、ハマってた嬢を連れて逃げたってワケ。ちなみにその嬢もうちに借金抱えてたの。似た者同士お似合いだね」
「………………」
「今うちの組員が探してるから、そのうち見つかると思うよ。会いたい?」
「……いや、父さん、捨てた息子に会っても困るだろ」
父は悠に全ての後始末を押し付けた。ヤクザから逃げたらその家族が巻き込まれることだって、充分想像ができたはずなのに。
わかった上で、悠よりも、女性を選んで。
「っ…………」
頬に雫が伝う。悠の頭は今になって、ようやく捨てられたのだという事実を受け入れ始めた。
「あらら、泣いちゃった。パパ許せない?」
「わ、かんない……でも、もう、父さん、俺のこと、いらなくなったんだなって……」
優しく頭を撫でてくれる手が好きだった。料理を褒めてくれたのが嬉しかった。勉強も運動もできない悠を、大事な息子だと大事にしてくれた。
父が大好きだった、いや、今だって大好きなのに。
「……っ」
涙を拭う。泣いても父は戻ってこない。今は生きるために、凛が食べるものを作らなければ。
煮込まれた雑炊の味を確かめて、薄かったのでしょうゆをひと回しする。深い皿に盛りつけて、凛に手渡した。
「……できた。鶏ささみの雑炊。熱いから気をつけて」
「わ、うまそ」
凛はいそいそとスプーンを取り出して、ふうふうと冷ましてからひと口を含む。
「んー! うまっ!」
凛はぱあっと顔を綻ばせる。その笑顔を見た瞬間、悠は心が満たされた気がした。
──嬉しい。俺のメシ、こんなにうまそうに食ってくれるなんて。
「なんか優しい味って感じするー。めっちゃうま!」
「……そ、か。ならよかった」
気に入らなければ殺されるかもしれないのに、今は凛がおいしそうに雑炊を頬張っているのがたまらなく嬉しい。
明日の朝の分まで作ったつもりだったのに、彼は鍋の中を全て空にしてしまった。
「ん、んまかった!」
「……口に合ったなら、なによりだ」
「じゃ腹もいっぱいになったことだし寝よっか。おれ誰かと一緒に寝るの初めてー。ユウちゃん寝相悪い?」
「え? いや……そんなことはない、と思うけど……何で?」
「だっておれんちベッドひとつしかないからさ。蹴とばされたりしたら嫌だなーって」
「……はあ!?」
悠はその日、人生で出したことのない大声をあげてしまった。
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