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1  地中海に浮かぶ小さな島国、スーフィル王国。その王都フィナーハに建つリファディア宮殿は、いま、花の盛りだ。  夏のつよい陽差しを受けて目にも眩しく輝く白亜の宮殿を、はっきりとした原色の、色鮮やかな南国の花々たちが彩る。  この島にしか咲かないというフィアの花をはじめ、大小さまざま、色とりどりの花弁が咲きこぼれる庭園を見ながら、佐々木祐市(ささき ゆういち)は片手にしたアタッシュケースの取っ手を握り直した。  暑さのせいだけでなく、手汗がにじむ。 (なんで俺、こんなとこにいるんだ……)  日本との時差は六時間。直行便はなく、トルコを経由して、空からこの島に入った。空港から王都フィナーハまではバスが通っており、交通の便はわるくない。  目に痛むほど真っ白な門の前には、ちらほらと観光客の姿も見られる。賑やかに声を掛けて写真を撮り合う彼らとは違い、自分は今からこの門の内側へと入れてもらわねばならない身だ。考えるだに胃が痛い。  ライフルを携えた門兵に、この国の第二公用語であるはずの英語で話しかけた。だがはたしてきちんと通じていたのだかは、よくわからない。返答をすべてスーフィル語でされたのだ。  それでもなんとか門の内側へ案内され、厳重なボディチェックをクリアした後で、祐市はユーリー・イヴァーニと名乗る銀髪の男と引き合わされた。 「ようこそ、ミスターササキ。王の間へ案内致します」  綺麗な英語を話す彼は、緊張しきった祐市のようすを見かねてか、思うよりも柔らかな笑顔をくれた。  リファディア宮殿は大きく五つの区画にわかれており、そのそれぞれに王や王子の住まいがある、とはこの国のガイドブックから得た知識だが、むろんガイドブックには事細かな平面図など載せられていなかった。  わかるのは、想像以上にこの宮殿が広大だ、ということだけだ。  前を行くユーリーはこちらのことを気遣ってくれているようで、案内の足を止めることはなくとも、宮殿の時代がかった建築様式の特徴や、見目麗しい中庭(パティオ)、ヨーロッパの避暑地として愛されているこの国の気候のことなどを、わかりやすく取り上げては丁寧に説明してくれた。  おかげで幾分か緊張もやわらぎ、祐市はユーリーの指し示すまま、つよい陽差しの照りつけるパティオを眺める。剣のかたちをしたしなやかな緑の葉と、それらが合わさった中央に、うすい花びらを幾重にも重ねたような可憐な花が咲いていた。あれがフィアの花だろう。  それを確かめようと口を開いたところで、庭を駆ける人影に気づいた。 「ユーリー!」  こちらを目指して庭を横切ってくるのは、メイドだ。  ふんわりと風をはらむ、裾の長い黒スカート。フリル付きの白いエプロンを合わせ、頭にはヘッドドレス。足元にぴかぴかのエナメルの靴を合わせたその姿は、かつてこの国は英国に支配されたことでもあっただろうか、と自分の認識を疑ってしまうくらいには、ちゃんと『メイド』だった。 「ユーリー、いま仕事?」 「(あずさ)さま……」  梓と呼ばれたメイドが発するのは、はっきりとした日本語である。それに答えるユーリーも、日本語を話した。 「私は基本的にいつでも仕事中です、梓さま」 「でも、そろそろシエスタじゃない? 休憩しようよ」 「残念ながら応じかねます。王がお待ちですから」 「おーさま?」  切りそろえられた前髪の下で、くりくりの瞳がまばたく。すっきりと整っていながら、愛らしさを感じる顔立ちだ。不思議に蠱惑的な魅力を見せるその容貌は、夏の陽に散らばるプリズムのようにきらきらと輝いて、見る者の胸を刺す。  どき、と己の心臓が大きく跳ねるのを感じて、祐市は不可思議な心地とともにスーツの左胸を押さえた。  まっすぐの黒髪は、華奢な肩を越え、胸元まで垂れている。「梓」と呼ばれたメイドは、ざっくばらんな話し方をする、ハスキーな声音の少女だ。 (いや、少女……、では、ない?)  自然、その黒髪の先で止まってしまった祐市の目線が捉えるのは、お世辞を述べようもないほどに真っ平らな胸――ボーイッシュな女の子、の限度をどうしようもなく越えた、平たい板だった。つまり、梓は、男なのだ。そうと気付いてみれば、確かに細身ではあっても、肩のあたりの骨格は男のもので間違いない。 「おーさまならさっき、ブロッダのおっさんが急いで会いに行ってたよ。だからたぶん、いまはほかの誰も通さないと思う」 「──」  梓の言葉を聞き、ユーリーはわずかに眉間を険しくする。彼はすぐに、スーツの内ポケットからスマートフォンを取り出した。 「失礼致します、ミスターササキ」  無意識だろう、日本語で祐市にそう断ると、手早くどこかにコールを繋げる。……ああ、これは予定変更だな、と祐市は察してしまった。  たしかに、そう気軽に会えるものではないはずなのだ、王様なんて。 「あんたはさ、オレと来よう?」 「え?」  梓に腕を取られ、祐市は面食らった。心持ち見下ろす間近に、堂々の美少女顔が迫っている。  彼(?)はにこりと微笑み、艶やかな黒髪を揺らして、可愛らしく小首を傾げるのだった。 「だって暇じゃん?」  こちらの腕をしっかりと捉えて引っ張る一之宮(いちのみや)梓が自分を招き入れたのは、廊下の果ての一室だった。  まず出迎えたのは、腰くらいの高さまである大きな香炉だ。やわらかな香りがくゆらされているのを横目に進めば、パーテーションとともに置かれた濃い緑の観葉植物たちが並ぶ。壁際には、食器や調理器具の並ぶカウンターもある。  ゆったりと広がるフロアに、小ぶりなテーブルと椅子の組み合わせが三セットほど。……ここは、つまり。 (店……? だよな?)  いずれも、調度品は最高級の物ばかり。その煌びやかさには視界が眩むが、それらの値を考えないことにすれば、この部屋に広がっているのはおよそ不足ない飲食店の光景だ。  この場所に足りないものがあるとすれば、それは客の姿だろう。誰もいない。 「一名様、ごあんなーい!」  梓はそれを気にしたようすもなく、機嫌良く発しながら、祐市の腕をなおもぐいぐいと引っ張った。 「お帰りなさいませ、ご主人様」  梓と似たようなメイド服姿の女性が一人、入店(?)した祐市へ向けて折り目正しく頭を垂れる。 「……」  特徴的な挨拶。特徴的なコスチューム。……これはもしや、メイドカフェ、というやつか。  戸惑う祐市をよそに、梓は窓辺のテーブル席まで到達すると、「いちばんおすすめの席!」と笑顔で案内してくれた。促されるままに座してみれば、なるほど、眺望が完璧だ。  大きな掃き出し窓の傍らには、たっぷりと枝葉を伸ばす大樹が立っている。開け放された窓のむこう、白いテラスには燦々と南国の陽光が降りそそぎ、屋内との温度差をくっきりと見せつけていた。 「ご注文は?」  梓はまた小首を傾げ、にこやかに尋ねてくる。だが、さて、どう答えたものか。 「……お、おすすめで」 「はーい。じゃあ、南国フルーツのジュースかな」  梓は迷うことなくオーダーを決定し、自分で用意するのか、カウンターのほうへ取って返した。  ほどなくして、すらりと背の高いグラスが祐市の手元に出される。祐市は出されたジュースに「いただきます」と口を付けた。とろりとしたマンゴーの舌触りに、柑橘類の心地よい甘酸っぱさがすうっと、喉の奥へ落ちる。  かろん、と氷が音を立てた。  知らず、はあ、と満たされた息が洩れる。祐市はうっかり、だいぶ幸福になれそうな心地を覚えてしまった。 「そういえばさ、ゆーいち」  ここへ連れられてくるまでに自己紹介を済ませたせいか、梓はこちらを呼び捨てにする。たしかに彼は自分とは同学年のようだった。つまり二十六歳だ。二十歳にも満たない美少女にすら見えるのに、ざっくりくくればアラサーなのだ。……そんなおかしなことがあるだろうか。 「ゆーいちは、何しにここに来たわけ?」  梓は存外まじめな口調で尋ねてくる。祐市は答える前にまず、自分の中の混乱を宥めなければいけなかった。一口、ジュースの甘みを吸う。 「何しに……と言うと、まあ、商談です。この国の南西に、ガラ山岳地帯という地域がありますよね。そこで採れる鉱石に、うちの社長がいろいろな意味で惚れ込んでいます。建材であるとか、研磨剤であるとか、あとはシンプルに装飾品や置物として愛でるだとかですね。石マニアとして愛でるのはともかく、商用利用が出来るかどうかは一度……サンプルを戴ければ戴いて、それを社へ持ち帰ってしっかり検討してみなければわからないことなんですが。そういったサンプルの採取も含めて、ガラの鉱石についてお話が出来ればと」 「ガラ山は聞いたことある。へー、良い石が採れるんだ。どんな石?」  梓に尋ねられるまま、祐市は自分のスマートフォンを取り出して、鉱石の写真を見せた。  そうして取り留めもない話をするうちに、梓は対面の椅子を引き、自身の腰をそこに落ち着ける。彼がそうするのと前後して、メイド服姿の女性がこちらの席まで歩み寄り、梓の手元へと飲み物を差し出した。「ありがと」と受け取った梓に、彼女はそっと一礼を返すのだ。  そうして元の立ち位置へと戻ってゆくしなやかな背を見送りながら、祐市はこっそりと胸中に呟く。 (一之宮の方が、よっぽど謎だよな……)  大多数の日本人は、この国の存在すら知らないはずだ。その温暖な気候と、地中海内という立地から、ヨーロッパの避暑地として人気の観光地。欧州では『花と癒しの国』として有名で、島の東側へ赴けば、その名のとおりぐっと賑やかで華やかな街並みが広がるという。  スーフィル王国。  王都フィナーハに建つ、リファディア宮殿。その一角でなぜか開かれている――メイドカフェ。 「一之宮は、なんでここで、こんなことをしてるわけ?」 「……」  会話が切れたのをきっかけに祐市が尋ねると、そこにはぽつんと沈黙が落ちてきてしまった。それまでどんな話題でもすらすらと乗りこなしてきた梓とは思えぬほどに、不自然な沈黙だ。 「……い、一之宮? ごめん。話したくないことなら……」 「ゆーいちオレね」  口を開き直した梓は、眉をめいっぱいひらたくし、神妙な表情をしている。そうして、いわゆる驚愕の事実というやつを打ち明けたのだった。 「拉致監禁されてる最中だったりする。実は」

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