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「ミスターササキ」
そこへ、ユーリーが戻ってくる。彼は足を止めるなり、深く頭を垂れた。発するのは英語だ。
「誠に申し訳ありません、ミスターササキ」
「へえっ?」
梓の爆弾発言に呆然とするばかりだった祐市には、ユーリーの言わんとすることがとっさにわからず、口を衝いて出たのは情けないような奇声だけである。
ユーリーはゆっくりと頭を上げ直すと、謝罪の理由を述べた。
「本日はせっかくご足労頂いたところ、誠に恐縮なのですが……王への謁見は、諦めていただくほかありません」
言葉どおり心苦しげに眉を寄せ、ユーリーは平身低頭の態度を崩そうとはしない。そこまでの賓客だった覚えなどない祐市は、逆に恐れ多くなってしまい、椅子から腰を浮かせた。
「あの、そんな。そんなのは、いいですから。……こちらこそ、どうしてお約束できたのかが今となっては謎すぎるというか、いえ、とてつもなく光栄な話ではあったんですが、その……つまり、明日、また同じ時間に伺っても……今日の代わりにお会いすることは……さすがに、叶いませんよね……?」
図々しくもちらりと打診してみるが、結果は火を見るよりも明らかだ。ユーリーは済まなそうに眉を寄せたまま、ちらともその表情を変えようとしない。
さすがに、王族のスケジュールは分単位で決められている、とも噂に聞くほどだ。今日が駄目だったから明日、というわけにはいかないのだろう。
だが、そうなると、自分は何をしにこの国を訪れたと言うのか。
「ミスターササキ」
ユーリーはわずかに声色を整え、祐市と向き直った。
「王の代わりに、第二王子がお会いになられます。王子は公共事業と都市開発を担当されておられ、王からも厚い信頼を得ている、優秀なお方です」
「お、おうじ?」
間の抜けた声を出してしまってから、祐市はは、と居住まいを正す。希望の糸がつながったのだ。
「はっはい、よろしくお願いいたします……っ」
「では、このままお待ちください。王子は間もなく、こちらにおいでになられます」
ユーリーは一礼した後、店の入り口へと向かっていった。王子の出迎えをするのだろう。
「じゃ、オレも本業っと」
梓もおなじく出迎えをすると見え、独り言のようにこぼすと、軽い足取りでカウンターの方へ立ち去ってゆく。
一人取り残された祐市は、ひとまず椅子に座り直した。足元のアタッシュケースが目に入る。……そうだ。すっかりペースを乱されてしまっていたが、この国で果たすべき、自分の仕事というものがあるのだ。
ゆっくり深呼吸をしてから、アタッシュケースを開く。チーム全員で寝る間を惜しんで作成した、英語の書類が待ち構えていた。これを無駄にするわけにはいかない。
祐市はこの後の交渉に必要と思われる資料をいくつか取り出し、テーブルの隅にきっちりとそろえて置いた。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
そうこうするうちに、メイドカフェお決まりの奇妙な挨拶が店の入り口に立つ。
そちらへ目を遣れば、店の入り口には、長身の美丈夫の姿があった。あれが王子だろう。百八十を優に越える上背に、スーツの上からでも鍛えていることがわかる引き締まった体躯。とろけるようにきらめく見事な金の髪を持ち備えた彼は、遠目でも隙なく整ったことが窺い知れる容貌をしている。
そこにはいま、ふわりと笑みが刻まれるところだった。
「ただいま。梓」
王子は言い、梓の細い腰をやわらかく抱き寄せる。そうして、相手のこめかみよりすこし上、ヘッドドレスの載るあたりにそっと唇を押し当てた。
親愛のキスの後、梓からわずかに身を離した王子は、けれど傍らのメイドへ向けた目線を決して剥がそうとはしない。腰を抱く腕もそのままに、見ているこちらが照れくさくなるほどの甘やかな眼差しで一之宮梓を包み込む。
「今日は、いつもよりも早く会えたね」
「え、仕事じゃん?」
ばっさりと切り返す梓の声音と態度だけは、おそろしいくらいに変わりがなかった。そのそっけない対応でさえも嬉しいのだというように、王子はやはりふわりと、極上の微笑みを浮かべる。
「そうだね。でもきっと、神からの贈り物に違いない」
「レオンが機嫌良いってゆーのはわかった。で、何にする? なんか飲む?」
「どうかな。これからすぐ、仕事だからね」
やんわりと断りを入れる王子の言葉に、梓は「それもそうか」と頷いたようだった。それからまた長身の相手を見上げ、気さくな笑顔を見せる。
「じゃあアイスティーにしとく。邪魔になんないように」
「ああ、いいね。ありがとう」
「すぐ用意するから、席で待ってて」
そう言い置いて、梓はひらりと王子の腕から抜け出た。黒スカートを翻し、カウンターの内側へ入ってゆく。
その背を愛おしげに見送った後、王子の足取りはこちらへ向かった。彼の後方には、ユーリーの姿もある。
「ミスターササキ。本日は父の予定が急に変わり、大変なご迷惑をお掛け致しました」
王子はまずはユーリーと同じように、丁寧に謝罪を述べた。
梓との会話ではよどみない日本語を用いていた彼は、祐市と相対したとたん、その使用言語を英語に切り替えている。
祐市も席を立ち、英語で応じた。
「本当に、どうかもうお気になさらないでください。それよりも、改めて貴重な機会を設けて頂きましたこと、誠に感謝いたします。ありがとうございます」
恐れ多くもこちらから手を差し出し、王子と握手を交わす。祐市の目線をしっかりと捉えた王子は、とたん、ふふっと笑みを零すのだった。
「あの、なにか……?」
「ああ、いえ。失礼致しました。ミスターササキは日本人だと伺っております。であればさぞ、あの子は喜んだだろうな、と思いまして」
「あの子、と言うと……」
「アズサですよ」
その名ひとつも宝物なのだと言うように、王子は微笑む。祐市に席を勧めながら、自身もそれに腰掛けた。
「大喜びでミスターササキをこちらにお連れしたのだと聞いています。強引な子で申し訳ありません」
「いえ、そんな」
「多少のわがままなら通すよう、私から宮殿内に命じているせいもあるのです。あの子は、羽のない天使のようなものですから」
照れもせずにそんなことを言い、王子は組んだ脚の上に手を載せる。祐市はリアクションに窮してしまった。
「は……ねのない天使というと、それは、また……」
「あの子の羽は、私がもぎとりましたからね」
「……」
どこまでが本気なのだろう。
一笑に付することなどもちろんできないが、もしかして一流の冗談だったりするのだろうか。それに、そうだ。先刻、梓自身が言ったのだ。
自分は『拉致監禁されてる最中』なのだ、と。
(え? それって、つまり)
「レオン。ゆーいちのこと困らせてるだろ、なんか」
見れば、トレイにグラスを二つ載せた梓が立っている。気のせいか、どこかうろんげな目で王子のことを見遣るようだ。
「梓」
王子が彼を呼ぶ声音は、やはりきれいな日本語の響きだった。
「ありがとう。アイスティーを持ってきてくれたんだろう?」
「うん」
頷くと、梓は手慣れた仕草でテーブルに二人分のアイスティーのグラスを置く。手際よくストローも付けると、祐市へなぜか同情混じりの目線を向けてみせた。
「つかゆーいち、このおーじさまの言うこと、あんま真に受けんなよ」
「え?」
「ひとのこと天使とか花とか言って、いちいち夢見がちだし、なにより大げさだからさ。まともに取り合うだけ、損だから!」
「ああ、ええと……」
正面に座る件の『おーじさま』は、梓の台詞のなかみもすっかり理解しているだろうに、にこにこと微笑むままだ。
梓の言葉どおり、天使だの何だのが大げさなのだとしても、そう言いたくなるほど可愛がっているのだ、ということは誰の目にも明らかだった。
「ま、二人とも根詰めすぎない程度に。ゆっくりどうぞ」
祐市がなんとも答えられずにいる間に、梓はぺこりと一礼した。ふわりとスカートを翻して歩き去ってゆく。その背中がカウンターまで辿り着くと、そこに立つ女性メイドへ「今日はもう終わり」と告げる声音がこちらにも届いた。
いかにメイドカフェとはいえ、いったん商談場所として使うと決めた以上、梓を含めメイドたち部外者は、邪魔になる。梓はそのことを、きっちりと理解してくれているようだった。
「そういえば、挨拶もまだでしたね」
王子のほうもビジネスモードへ切り替えるようで、その表情から笑みは拭い去られている。彼は「僭越ながら、父に代わりお話を伺わせていただきます」と話した。
礼節と適度な親しみの色を載せた青い瞳が、やわらかに細められる。
「初めまして。レオン・ロジオーフィノ・スーフィルと申します」
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