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第9章 好きだからこそ 第26話

 そして稜の誕生日当日。その日もいつも通り、真澄は午前中の空いた時間で家事代行のバイトをし、大学に行くところだった。初めて使う駅は慣れず、あちこち見回していたのもあったかもしれない。多くの人が行き交うなか、ある人物と目が合う。  その瞬間、真澄の心臓が大きく跳ねた。相手も驚いたような顔でこちらを見ていて、人違いなどではないと悟る。  忘れる訳がない。真澄に大きな傷を付け、消息を絶った元同級生……空天(そら)がそこにいたのだから。 「真澄? ……嘘でしょ?」  こんなところで会えるなんて、と言いながらこちらに来る彼は、まだ暑い季節だというのに長袖を着ていた。相変わらず少女のように小さくかわいらしい出で立ちで、言葉が出ない真澄の前まで来る。 「すごい偶然。……元気してた?」  今更何を、と真澄は思う。すると空天は真澄の両手を取って握った。こうして物理的に距離を縮めてくるのも嫌だったんだ、と今になって初めて気付く。 「……元気だよ」  そっちは? とは聞かなかった。知りたくなかったし、真澄の手を握ったその甲に、無数の傷跡があったからだ。握られた手をそっと外すと、彼は驚いたような顔をし、苦笑した。あの時から変わったんだね、と言われて、「まあね」と返すに留める。 「……ごめんね」  気まずい雰囲気にどうしようか迷っていると、そんな声が聞こえて驚いた。空天を見ると眉を下げた彼がいる。 「会うつもりなかったから言えないと思ってたけど。真澄には謝りたくて……」 「……別に……」  どうせなら、金輪際会えなくていいと真澄は思っていた。謝られても真澄の傷が癒える訳でもないし、起きたことがなくなるわけでもないのだから。 「全部真澄のせいにして逃げたこと、本当に申し訳なかったと思ってる」 「……っ、だったら……!」 「うん、本当にごめん。真澄なら、全部受け止めてくれると思ってた」  でも、当時の真澄には空天に何があったのかも知らなかったし、知ろうともしなかった。到底抱え切れるものではなかったのだろうと思うのは、彼の傷跡を見ればわかる。当時空天は自分の問題を、真澄に押し付けようとしていたのは明白だったし、それを曖昧にしてのらりくらりと躱していた真澄にも問題はあっただろう。 「……この地域は人が優しいね。今は療養しながら定時制の高校に行ってる」  真澄は? と聞かれたけれど、答えたくなかった。また執着されるのかと思ったら、気軽に今の状況なんて話せない。 「そっか……。生きてるならよかった」  質問には答えず真澄はそう言うと、空天はサッと俯く。 「……ホントに変わったね。前なら……」  その声が揺れたのを聞いて、真澄は視線を逸らす。今の忘れて、と言った空天は顔を上げた。 「ううん、ごめん。僕ね、真澄のこと好きだった。けど、今後付き合いを再開しても、お互いのためにならなさそうだね」  視界の端で苦笑する彼は、何か大きなものを乗り越えたような、そんな気さえする。以前の空天なら、今も苦しんでいるから助けて、と言うだろうからだ。彼もまた、会わない間に成長したのだろう。 「……話せてよかった。ありがとう」  そう言って、真澄の返事も待たないで空天は歩き出す。しばらく呆然としてしまい、雑踏の音が聞こえてきてハッとし、真澄も歩き出した。  ありがとうのひと言で済ませられるほど、あの時の苦しみは軽くはない。けれど空天が生きていて、今は前向きに生活していることを知って、言いようのない複雑な気持ちになった。嬉しかったのか、執着されずに済んでホッとしたのか判断できず、ただただ溢れそうになる涙を堪えるので必死だった。  ――真澄は、本当に嬉しいと戸惑うんだな。  脳裏で稜の言葉が蘇る。感情が遅れて出てくるのも、押さえつけられていたからだといつか稜は言っていた。  確かに当時は嫌だったし苦しかった。けれど、彼が生きていたということだけで、もう自分を責めなくていいんだ、と許された気がした。  生きていてくれてありがとう、と思えたのだ。  もう、余程の縁がない限り会うことはないだろう。だからこそ真澄がしっかり、彼を傷付けることなく拒否できたことは上出来だと思う。もしまた付き合いを再開していたら、彼の傷が増えることになりそうだから。 ◇◇  空天との出会いで不安定な心を宥めつつ、真澄は午後の講義も真面目に受ける。ここのところ、一緒につるんでくれる人たちに別れを告げ、真澄は真っ直ぐ稜の家に向かった。  九月も下旬になれば、日が落ちるのも早い。すっかり暗くなった道を歩き、稜の家の明かりを見つけてホッとする。  家のインターホンを鳴らしてから鍵を開けた。すぐに稜がリビングから出てきて「おかえり」と言ってくれる。 「ごめん稜、遅くなって」 「六限まであるなら仕方ない。むしろ今から作ってもらうの、申し訳ないな……」  リビングの時計を見ると、時刻は八時半を回っていた。確かに今からきちんと作れば時間がかかるけれど、こうなるとわかっていたので事前に仕込みをしていたのだ。 「大丈夫。あとは焼くだけ炒めるだけ。稜は座ってて」  バックパックを下ろしてエプロンを着けると、真澄は下味をつけておいた鶏もも肉を冷蔵庫から取り出す。ガッツリ肉と言われたので、チキンソテーにする予定だ。あとは耐熱皿に入れておいたベーコンとほうれん草のキッシュ、カット野菜とサーモンのサラダ――それぞれ盛り付け、焼くだけで完成だ。 「いつの間に仕込んだんだ?」  座っていてと言ったのに、稜はいつも通りカウンターからこちらを覗いている。合間にちょこちょこ来てやってたんだ、と答えると、そんな手間のかかることしなくてもよかったのに、と言われた。けれどその顔が笑っていたので、嬉しかったらしい。 「そりゃあお祝いだし。……牛肉じゃなくて申し訳ないけど」 「真澄と食えるならなんだって良いんだよ」 「……」  本当にこの人は。臆面もなくこういうことを言うから心臓に悪い、と真澄は赤面する。 「でもこうするとね、パリパリジューシーに焼けるから美味しいよ」  気を取り直して真澄は手際よく準備をしていく。実際今から作るのはピラフと、オニオンスープだからそう時間はかからない。キッシュはオーブンレンジ、鶏もも肉はグリルに入れて焼き始める。ピラフの具材はミックスベジタブルだから、あとは玉ねぎを切るだけだ。 「真澄」  すると、稜がこちらを窺うように呼ぶ。 「……何かあった?」  真澄の手が思わず止まった。いつも通りにしていたのに、どうしてわかるのだろうと苦笑する。  でも、せっかくの稜の誕生日だ、陰鬱な雰囲気にはしたくない、と真澄は再び手を動かす。 「……またあとで話すね。今はご飯を作らないと」 「……わかった」  真澄の反応で、込み入った話になると悟ったのだろう、稜はそれ以上聞いてこなかった。ありがたいと思いつつ、一品一品仕上げていく。 「さあ稜、お待たせ」  できたものをカウンターに置いていくと、稜が慎重にテーブルまで運んでくれた。料理を並べ終え、仕上げにグラスをふたつ持って、買っておいた桃フレーバーのチューハイを冷蔵庫から出す。なんせ二人とも初のお酒だ、どんな物があるのかすらわからず、何が飲みやすいのかわからなかったため、真澄が調べて買った。 「色的に……洋風?」 「そう。僕の時は和だったからね」 「そんなこと気にしなくてよかったのに」  でもありがとうな、と稜は席に着く。真澄も席に着くと、チューハイをグラスに注いだ。 「はい、お酒。二時の方向」 「サンキュー」  そう言ってグラスを持つ稜。少し浮かせた彼のグラスに、「乾杯」と自分のグラスを合わせると、二人でその中身を少し飲む。 「……どう?」 「……ジュースみたい。これなら飲めそう」 「とか言って、飲みすぎて転ばないでよ?」  ただでさえ視界が悪い稜なのだ、酒に酔って前後不覚になるのは危なっかしい。真澄はそう言って笑う。 「そんなの、飲みすぎたら誰でもフラフラするだろ? 視覚障害は関係ない」 「……ふふ、それもそうか」  誰だって、浴びるほど飲みたい時もあるだろう、そこに障がい者、健常者は確かに関係ない。ただ、どんな人であれ自衛は必要だろうけれど。 「チキンソテー、ナイフとフォークが難しければ切るけど、どうする?」 「いや、大丈夫」  早速カトラリーを取った稜は、ナイフを顔に近付けて見て、「こっちがナイフか」と呟いている。少し肩に力が入っているものの、問題なく食べ始めたので、真澄も安心して食べ始めた。 「ホントだ、カリカリジューシー……! 美味いこれ!」 「ありがとう。二日前から仕込んだかいがあったよ」  チキンソテーの作り方はSNSで話題になっていたレシピなので、真澄は何ら特別なことはしていない。けれどこれだけ喜んでくれるなら、学校の合間に来て準備した苦労も報われる。 「え? 二日前? そんな手の込んだことしてたのか?」 「って言っても、肉の重さの一パーセントの塩をまぶして、キッチンペーパーで包んだだけ」  それだけでこんなに味が違うものなんだな、と稜は感動してくれた。毎日これでも良いと言うので、どうやら大好きを伝えるための、彼の常套句らしい。 「……真澄にも毎日会いたいけどな」 「もう……。じゃあいっそ住み込みで雇ってもらおうか?」 「それはなー。なんか恋人におんぶにだっこされてるみたいで嫌だ」 「ふふ、言うと思った。けど、今とどう違うのそれ?」  食事をしながら会話をすることが、こんなに楽しいことだと思い出させてくれた稜。そのほかにも、彼は真澄自身も知らなかった一面を教えてくれたので、感謝してもしきれない。だからこそ、自分がやりたいことは逃げずにやり切りたい。気骨稜稜という言葉を、体現している彼に恥じないように。 「真澄」  稜が名前を呼ぶ。さっきの聞かせてくれと言われたので、真澄はチューハイで喉を潤した。 「午前中に新規さんのところへ行ったら、駅で会ったんだ」 「誰? 内藤?」  一気に緊張した声音になった稜に、真澄は苦笑した。内藤くんはもう学校でも挨拶しかしないよ、と返す。 「……僕が重くなりたくないって思うようになった元凶、元同級生」 「え……まさか真澄を探しに来たとか?」  真澄はううん、と否定した。向こうも驚いていて偶然だと言っていたので、その可能性は低いだろう。 「ってか、生きてたんだな……」 「うん。そこは僕もびっくりしたよ。ただ見た目にも傷がいっぱいあって……」  あれは怪我だとか、そういう類の傷じゃない。だからこそ当時の真澄には抱えきれなかっただろうし、真剣に向き合わなくてよかった、と真澄は話す。 「そっか……。じゃあもう、真澄は自分を責めなくていい訳だ」 「……っ」  稜の言葉に、真澄は目頭が熱くなった。どうしてこの人は、真澄の心の裡を見ることができるのだろうか。  そう、もし空天が亡くなっていたら、真澄は間違いなく自分のせいだと責めていた。彼への罪悪感もあり、人と付き合うことも怖くなったのだから当然だろう。 「空天……元同級生に会った時、許されたんだって思った」 「……その元同級生は、真澄を責めてたか?」  真澄は思わず稜を見る。柔らかい眼差しの彼は、ちゃんとこちらを見ていた。稜と出会ったころから何度か彼が言ったセリフ……相手が真澄を責めていたのか、稜はいつも確認していた。  真澄は思い出す。いつも空天は真澄になんと言っていたか。 「ううん……別れる前も、言葉にしなかったけど【こっちを見て】とか【助けて】とかだった。【偽善者】とは言われたけど。……今日会った時は、責めるどころか謝られた上に感謝されて……」 「つまりそいつは、真澄のせいだと思ってないってことだろ?」  当時、できる最良のことをしたんだよ、と稜に言われて、今度こそ涙が溢れた。自分では逃げてばかりだと思っていたのに、ほんの僅かでも空天の役に立てていたのならよかったと、真澄は零れ落ちる涙を拭う。 「……ごめん、せっかくの誕生日なのに……」 「良いって。今話してくれた方が、あとで良い雰囲気に持っていきやすいから」 「え?」  何かとんでもない発言を聞いたような気がしたけれど、稜は笑って「食べよう」と促してくる。そしていつものように、美味い美味いと言って料理を頬張る彼に、真澄は笑った。

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