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第27話
「あー酒が回ってきたかな、顔が熱い」
作った料理を食べ終わったころ、稜はそう言って大きく息を吐く。彼の言う通り顔が赤くなっていて、酔っているのは本当のようだ。対して真澄は一応仕事中なので、控えめにしていた。
「片付けやっておくから。……ソファーで休んでる?」
真澄がそう促すと、悪いけどそうさせてもらう、と稜はソファーに移動した。ちなみに今回は、真澄の料理をたらふく食べたいという稜の希望で、ケーキはない。
「もしかして弱いのかな? あんまり飲まない方が良いかも」
「そうだなー」
飲んだと言っても量は缶チューハイの半分だ。真澄は最初に口を付けたくらいで、それからはほとんど飲んでいない。
テーブルの上を片付け、空いた食器を次々と洗っていく。料理も掃除も洗濯も、奥が深くて楽しいと思い始めたのも最近の話だ。これからは田口に教えてもらった家政士の資格を取るために、本格的に動き出そうと思っている。
流されるまま曖昧にしてきた自分が、やりたいことを見つけるなんて、何が起こるかわからないな、とこっそり微笑んだ。それもこれも稜のおかげだと思うから、やっぱり好きだなぁ、と思うのだ。
片付けをすべて終え、キッチンを軽く掃除してエプロンを取る。リビングのソファーに座る稜を見てコップに水を入れ、彼に持って行った。
「稜、お水飲む?」
「ん? ああ、サンキュー」
真澄は彼にコップを持たせてあげると、稜は一気にそれを飲み干した。空になったコップを受け取り、それを洗って再び稜の元へ行く。
「稜、お風呂入りなよ。準備してくるから」
「……真澄さぁ」
いつも通りに声をかけると、彼は不満そうに声を上げた。何かしてしまったのかとビクッとすると、稜はぽんぽん、と彼の隣を叩く。
「俺の誕生日なんだから、そんな母さんみたいなこと言うなよ」
「え、だって……」
いいからここ座って、と言う彼に、真澄はおずおずと座った。いつもはダイニングテーブルの対面に座って話すので、距離の近さにドギマギする。
「違う。恋人なんだからもっと近くに来てよ」
「い、いきなりどうしたの? いつもはこんなことしないじゃないか……っ」
真澄は稜に身体の側面が密着するほど近くに来られ、手を握られた。しかも指を絡ませられ、動揺する。
「いきなりじゃないだろ? 手を繋ぐことくらいはしてた」
狼狽える真澄が面白いのか、稜は笑う。そして彼はその笑顔のまま、こう言った。
「真澄、俺、真澄の顔をちゃんと見たい」
好きな人の顔を、ちゃんと見たい、と稜は身体をこちらに向ける。
そこで真澄は思い出した。彼が人の表情を見たがっていたことを。――真澄がどんな顔をして稜と接しているか、知りたがっていたことを。
けれど、稜が自分の目で見るためには、思い切り顔を近付けることになる。その先どうなるか、想像しないほど真澄も初心ではない。
「嫌なら【嫌だ】って言って?」
「……ずるい」
真澄が嫌だと言えないのを良いことに、稜はクスクス笑いながら真澄の首筋を撫でた。そっと両頬を手で包まれ、彼は再度「嫌か?」と尋ねてくる。
真澄は一呼吸のうちに考えた。……嫌じゃない。それに、恋人なら遅かれ早かれ、こういう展開になったはずだ。
「……嫌じゃ、ない」
掠れた声でそう言うと、稜はそっと顔を近付け、額を合わせる。途端に目の前の切れ長の目が潤み、感嘆したような声を彼は上げた。
「ああ……、やっぱり真澄は美人だ……!」
ずっと見たかった、と彼は目を閉じる。真澄も目を伏せると唇に吐息がかかり、すぐに柔らかいものが触れた。途端に胸が甘く締めつけられ、吐息も甘くなる。
今まで、外見のことを言われるのは嫌だった。そのはずなのにこの時は嬉しいと思ったのだ。
好きな人が、自分の姿を見て感動している。それだけで、自分の容姿も何だか受け入れられるような気がした。
(稜……酔ってるからかな?)
普段から、こういう雰囲気にはあまりならないから、稜が気遣ってくれているのだとわかる。でも人生初のキスが、稜の誕生日でよかったと思った。彼は今日まで待ってくれたのだろうし、彼の思い出になったのだとしたら、とても嬉しいと思ったからだ。
唇が離れて目を開けると、稜は額を合わせたまま真澄の手を探って握り、もう片方の手で後頭部を撫でる。小さなリップ音がした。
他人とこんなことをするなんて想像していなかったのに、割とすんなり受け入れている自分がおかしくて笑うと、稜は吐息がかかるほど近くで呟く。
「真澄の声、くすぐったい……」
あまり煽らないで、と言われて、真澄の余裕は一気に吹き飛んだ。かあっと全身が熱くなり、真剣な眼差しで見てくる稜の視線に耐えられなくなる。
「あ、煽ってなんか……」
逃げるように俯くと、稜はこっち見て、と優しいけれど有無を言わさない声で囁いてきた。今更ながら心臓がドキドキしてきて、稜がまともに見られない。
「真澄……」
どうしよう、と真澄は思う。誕生日だし、お酒も飲んだし、この雰囲気は絶対キスだけでは済まないだろう。でも……緊張するけれど、稜に触れたい、触れられたいと思う。
「し、心臓が爆発しそう……」
声が震えて掠れた。その声に触発されたのか、稜も掠れた声で「俺も」と言う。
稜が握った手に指を絡めてきた。再び軽く唇を吸われ、とても緊張しているとは思えない、と真澄は口を尖らせる。慣れてる? と問えば、まさか、と返ってきた。
「嘘だ……」
躊躇わずキスに持ち込むことといい、自然に指を絡めて握ってくることといい、そこにたどたどしさはない。これが恋愛経験者の余裕なのか、なんて思っていると、額を合わせたまま離れない稜は笑った。
「まあ、そこそこ? 今言うのもあれだけど、怖くてできなかった」
見えないから、とまた唇を啄んでくる稜。なるほど、と思いながら真澄はそれを受け入れる。
相手の大切な部分に触れることは、お互い好きなら機会はそれなりにあるだろう。けれど、大切だから傷付けたくない、怖い、という稜の気持ちもわかる。
稜の歴代彼女は、大事にされていたんだな、と感じた。そして現在進行形で、真澄も大事にされている実感がある。
(どうして別れたのか、気になるけど……)
それを真澄から聞くのは野暮だろう。でも、言うことはストレートだけれど、人と真摯に向き合う彼がお付き合いを終わらせる理由って、なんだろうと思う。
真澄がそんなことを考えている間にも、稜は何度も唇を吸い上げてきた。時折後頭部にある手が軽くそこを撫で、次第に真澄の身体から力が抜けていく。
すると、唇に温かい何かが擦れた。
「ん……」
唇とは違う、ぬるりとした感触に思わず声が出てしまった。恥ずかしくて顔を背けると、稜は耳を甘噛みしてくる。近くで聞こえる稜の吐息に、今しがた唇に触れたのは稜の舌だとわかった途端、身体の奥のスイッチが入ってしまったのを自覚した。
「やだ稜、変な声出た……っ」
「変じゃない。もっと聞きたい」
聞かせて、と耳に直接吹き込まれ、真澄の肩が震える。さすがに声を上げるのは恥ずかしい、と口を手で塞ぐと、気付いた稜がその手をそっと外した。
「やばいかわいい……もっと触って良い?」
そう言いながら、彼は真澄の指にキスをする。先程から稜は真澄の顔を近くでじっと見てばかりだ。それもあって恥ずかしさが倍増する。
「あんまり見ないでよ……」
「なんで? こういう時に見なくてどーするの」
稜が頬を撫でてきた。くすぐったくて肩を竦めると、フッと笑う彼の声がする。
「ぼ、僕はっ、経験豊富な稜と違って初心者なん……うわっ」
からかわれたと思って真澄は騒ぐと、いきなり体重をかけられソファーに押し倒された。上にのしかかってくる稜は、細いくせにビクともしない。しかも真澄の太ももに、確かな存在感を放つ稜のものが当たって慌てた。
まさか稜が、このわずかな時間に完全に欲情しているとは思わなかったからだ。
「さっきも言っただろ? 怖くてできなかったって……」
確かに聞いた。聞いたけれど自分相手にそんなに余裕がなくなるとは思っていなかった。――こんな風に、押し倒されるとは思わなかった。だって彼はいつだって余裕で冷静で、真澄の理想だったのに。
けれど同時に思い出す。稜は見栄っ張りだということ。咲和が、真澄の前では大人しいと言っていたこと。
「真澄お願いだ、これ以上待てない……」
「……待ってた……?」
「当たり前だろっ、こっちは自覚してから毎日自分との戦いだったっつーの!」
でも真澄は人嫌いの傾向があるし、ビビらせたら二度と寄ってこないだろうから、ちょっとずつ距離を縮めようとしたんだ、と稜は言う。
「咲和と会ってから真澄の態度が急に変わって……、あの時はマジで焦った」
そういえば真澄が熱を出して倒れる直前、理由を教えてくれと縋られたことを思い出した。あれが稜の素に近いのだとすれば、彼は本来、もう少しお喋りなのかもしれない。
そう思ったら、目の前の恋人が急にかわいく見えた。好きな人の前ではかっこよくいたい。真澄は、その気持ちもわかるなぁ、と胸がくすぐったくて温かくなった。
「……ふふ」
「……っ、だから真澄の笑い声反則」
腰にくるんだよ、と稜はまた唇を啄んでくる。真澄はそれを大人しく受け入れ、さらに自ら腕を稜の肩に回して、引き寄せた。
「……っ、真澄……」
「うん。稜、好きだよ……」
それからは二人とも言葉はなかった。稜は真澄を高めるようなキスを何度も何度も繰り返し、真澄も見よう見まねで返す。深く、浅く、吐息と舌を絡ませながら、長い間口付けに耽った。
煌々と明かりがついているリビングで聞こえるのは、エアコンの音と小さく響くリップ音、そして二人の乱れた呼吸の音だけ。不思議なのは、ただキスをしているだけなのに、身体は昂り、胸が切なく苦しくなっていくのだ。同時に腰の奥も切なくなり、吐く息もさらに甘くなっていく。
真澄は稜の背中に回した手で、彼を撫でた。少し息を詰めた稜はやっぱり真澄を間近で見ていて、切なげに顔を顰める。
その顔が色っぽくて好きだな、と思っていると、シャツの中に彼の手が入ってきた。肌の上を這う感触が心地よくて首を反らすと、顎に噛みつかれて笑う。
「そんなところ、噛まないでよ……」
「そんなところってどこ? 俺見えないから」
いけしゃあしゃあと言う稜がおかしくて、さらに笑った。けれどその笑い声もすぐに甘い声に変わる。大きな手が真澄の胸を掠め、切なく胸を締めつけられるような感覚に、真澄は稜に縋りついた。泣いているような声を上げ、それを抑えようと腕に力を込めると、稜は優しいキスで真澄をグズグズにしていくのだ。
やっぱり慣れていないなんて嘘だ、だってこんなに気持ち良い、と訴えると、稜は顔を顰めながら笑う。
「真澄が気持ち良いなら俺も嬉しい。真澄が笑うと俺も幸せ」
稜の言葉に、本当にその通りだなと思った。服を脱ぎ脱がされ、素肌を合わせる幸福感はほかの何からも得られないものがあると、真澄は稜の肩に吸い付く。湿った肌に彼の気持ちと身体の昂りを感じて嬉しくなり、彼の猛りに触れた。同じく真澄のものにも触れられ、さらに頭が熱く燃える。
――人と、こんなに深く関わることなんて、ないと思っていた。文字通りすべてをさらけ出し、ありのままを受け入れ受け入れられることが、人と繋がることの最大の喜びなのかな、なんて霞む意識でそんなことを思う。
「真澄……」
やがて来る激情の頂点に、真澄は辿り着こうとしていた。稜に呼ばれて彼を見ると、酒のせいだけでなく上気した顔でこちらを見ている。
どちらからともなく、唇を合わせた。深い口付けに真澄の意識は一気に霞み、身体の中からうねりを上げて、熱が吐き出される。遅れて稜も達し、唇に痛いほど噛みつかれた。
乱れた呼吸音がしばらくリビングに響く。真澄はいつの間にか泣いていたらしく、滲んだ視界で天井を眺めながら、稜の背中を撫でた。汗で湿った肌が愛おしくて、胸がきゅう、と締めつけられる。
「ありがとう……」
稜はそう言って、またキスをくれた。真澄もこちらこそ、と言って笑うと、彼はまた額を合わせてくる。
「……」
「……っ、もう……っ」
小声で囁かれた言葉に、真澄は稜の背中を叩く。いてっ、と声を上げた稜は笑いながら顔を擦り寄せ、耳を食んできた。
――今は怖いけど、いつか、最後まで。稜は確かにそう言った。今後こういうことをするのもやぶさかではないと思った真澄だが、なんせ慣れていないので顔から火が出そうになった。思わず彼を叩いてしまう。
(けど……うん。稜となら良いかな)
まだ熱が冷めない身体は、どうやら思考をお花畑にしているらしい。でもそれだけがお付き合いじゃない、と真澄は思う。なぜなら二人で乗り越えるべき問題は、多分普通のカップルより多いだろうからだ。
(僕もまだ、やりたいことが見つかっただけ……スタート地点もこれから)
けれど稜といれば大丈夫だと、そんな気がした。自分と稜にちゃんと向き合っていけば、道は自ずとわかるはずだと、根拠もないのにそう思う。以前にはなかった自信だ。
「稜、重たい」
「んー? 真澄って肌も綺麗だよな。触り心地が……いって!」
まだ飽きもせずペタペタと真澄に触っていた稜。今度こそ本気で背中を叩くと、稜は背中を押さえて上から退いてくれた。素っ裸でいつまでも抱き合っているのは恥ずかしいし、何より早く汗とか色々流したい。
真澄は起き上がると、頬にキスをされた。見ると、機嫌が良さそうな稜が笑ってこちらを見ている。
「俺、今日はたくさん色んなものもらったな。ありがとう」
そして真澄の手を探って握り、膝の上に置いた。その両手に稜も指を重ねてきたので、読み取るために集中する。
ゆっくりと、彼の指が動いた。
【だいすき】
読み取れた真澄は笑う。もっと恥ずかしいことは口で言ったのに、こういう告白はどうして指点字なんだと。
真澄がそう言っても、稜は嬉しそうに笑うだけだった。だから真澄も指点字で返す。たどたどしいけれど、稜が好きな指点字で。
【ぼくも】
たった三文字だけれど、気持ちは稜と同じだと伝わったはず。その証拠に稜は、笑顔で真澄の両手を握って、握手のように一回、腕を振った。
「真澄……キスして良い?」
「ふふっ、良いよ」
やっぱりそこは口頭なんだ、と笑うと、稜は笑顔のまま顔を近付けてくる。
優しく啄まれたキスの味は、なんだかデザートのように甘かった。
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