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結婚5
夜が更け、灯が落とされ、屋敷が静まりかえると真夏はようやく1人の時間を得られる。
「今宵も会えるでしょうか。博嗣さま……」
人知れず懐に手を差し入れ、笛をなぞる。博嗣の母の形見であり、今は博嗣の面影そのものとなった笛。温もりを確かめるように触れた指先に、わずかな熱が灯る気がした。
眠りにつくと、風が頬を撫でる。都の風ではない、山の風。草と木の匂いに満ちた懐かしい風。
「また来てくれたのか、真夏」
その声に心がほどける。いつもの岩の上に博嗣がいた。変わらぬ銀の髪、優しい目。時が止まったかのようなその姿に、真夏は静かに歩み寄る。
「夢でしか会えぬのは、苦しいものですね」
「それでも来てくれる。それだけで私は……」
博嗣は続きを飲み込み、真夏の髪にそっと触れた。今日は都で整えられた大人の結い上げではなく、博嗣に初めて会ったときの霞若であった頃の結い髪だ。
「今日だけは、この姿でも良いですか? 今は霞若でいたい」
「ああ。どちらの姿でも、お前はお前だ」
博嗣の手がそっと肩を引き寄せる。真夏はその温もりに身を預け、目を閉じる。現の世界では決して許されることのないこの近さが、夢では確かに存在する。
目を覚ましてしまえば全てが消えてしまうとわかっていても、それでも夜が来るたびに真夏は願わずにはいられないのだ。
もう少し夢の中で、あなたと共に在れる時間を……。
それは恋という言葉では収まりきらぬ、魂の一部を委ねるような深い想いだった。
「……今日は三夜目だったな」
「……はい」
「婚姻は成立したのか?」
「……はい」
「そうか……」
「とても……とても優しい方なのです。私がどこかに心を置いたままだと知っていてもなじるでもなく、ただ包み込んでくれるのです。それが、とてもありがたくて、だけど同時に苦しいのです。私は、なにも返すことができないので」
「……そうか。私と会うのをやめるか?」
博嗣の小さな呟きに、真夏は身を離す。
「そのようなこと……そのようなこと、仰らないでください!」
「悪かった。私もお前と夢で会うことを望んでいる」
「博嗣さま……」
博嗣は真夏を静かに包み込む。衣からは沈香の香りが微かにし、それが博嗣に抱きしめられているのだとわかる。
真夏は博嗣にしがみつく。ここから離れたくはないと。現では叶わないから、せめて夢の中で……。
「……なぜ私は人間に生まれてきたのでしょう。鬼に生まれれば、博嗣さまと共にずっといられるのに」
「真夏……。私もそう思うよ。なぜ半分とはいえ鬼なのか、と。鬼ゆえに人間とは違う能力を持っている。人生も長い。人間のように簡単には死なない」
「博嗣さま……。それでは、私が死んで生まれ変わっても、また博嗣さまとめぐり合うことはできますか?」
「お前が望むのなら、めぐり合えるだろう」
博嗣の言葉に真夏が顔を上げる。現ではもう会えぬ。それなら来世で、と思ったのだ。現世ではもう夢でしか会えないとしても、来世まためぐり合えるのなら、それはどれだけ幸せだろうか。
「それでは博嗣さま。約束です。来世でもまた、会ってください。現で」
「……わかった」
小さな約束かもしれない。けれど、真夏にとってはとても大事な、大きな約束だった。
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