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全てを知って1

 真夏は朝の光に包まれながら、キャリーケースを引いて家を出た。アスファルトがまだ熱を帯びていない時間帯。静かな住宅街の空に、蝉の声が遠く微かに響いている。  数日前に兼親と会った、あのカフェでの朝をふと思い出す。「いってらっしゃい」兼親はそれだけを言って真夏を見送った。多くを語らなかったその表情は、優しくて、少しだけ寂しそうだった。  電車のホームに立つと、朝の光がホームの端から差し込み、キャリーケースの影が長く伸びた。駅は既に人の波ができ始めていて、真夏はその流れにのって電車に乗り込んだ。  東京からまずは京都へ向かう。新幹線の車窓にはビル群が次第に遠ざかって行き、やがて広がるのは田園と山並みの風景。真夏は静かに外を眺めながら、心に浮かんでくる様々な記憶と向き合っていた。  風景が流れる中、駅構内のカフェで買ったコーヒーの香りがふと鼻腔に止まった。この香りは、兼親がよく飲んでいたコーヒーの香りに似ていた。少し深めで香ばしくて、それでいてどこか優しい。そんな香りだ。思えば、真夏がどんなに無愛想でも、夢にうなされていても、兼親はそれを責めることは1度もなかった。ただ隣にいて、無理に聞こうとせずにいた。「なにも言わなくていいよ」そんな沈黙の言葉がいつもそこにあった。  思い返すと、自分は随分と助けられていたのだと思う。記憶が曖昧で、悪夢にうなされ、朝には憔悴していた時期。博嗣の存在が輪郭を持ち始めるまで、真夏はずっと不安定な日々を過ごしていた。そんな中で、何気ないやり取りや、同じ空間にいることの穏やかさが確かに心を支えていた。 「俺は1人じゃなかった」  車窓に映る自分の顔に、そう呟いてみる。少し痩せたように見えるその顔は、数ヶ月前の自分とは少し違う気がした。  大江山に行くと決めたのは突発的とは言えない。記憶が蘇って行くにつれ、夢と現実の境が曖昧になっていった。博嗣のこと、自分が命を落とした過去、何度も繰り返し見た場面。それらがただの幻ではなく、自分の中に残された事実だと確信して、全ての記憶が戻ったら行こうと思った。そして、今の真夏は全部思い出したのだ。今度大江山へは死にに行くのではない。生きるために。過去を断ち切るのではなく、抱きしめて前に進むために行く。  やがて新幹線は京都駅に到着し、ローカル線へと乗り換えて山へと向かう。ローカル線のホームで電車を待っていると、生ぬるい夏の風が頬を撫でた。その風の中に、ふと沈香のような香りが混じっている気がして、真夏は胸の奥をそっと押さえた。  ――あの人も、きっとこの風を覚えてる。  まだ何も始まっていない。だが、既に始まっている気もする。過去と現在がゆっくりと重なっていくような感覚が、確かに胸に息づいていた。道のりはまだ遠く。けれど、真夏の足はもう迷わなかった。  あの人のところへ行くということは、現世の繋がりはどうなるのだろうと思う。友人たちとはもう会えなくなるのだろうか。どんな友人たちに会えなくてもいい。けれど、兼親にだけはまた会いたいと思う。子供の頃からずっと隣で笑っていてくれたのは兼親だけだ。「いってらっしゃい」と言って見送られた。そうしたら「ただいま」と言って会えるだろうか。大江山と東京は遠く離れているけれど、それでも通える距離なのだ。今までは辛い顔ばかり見せていたと思う。でも、今度会う時は笑顔で会いたい。幸せに暮らしているよ、と。

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