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全てを知って3
緩やかだった登山道が、少しずつ傾斜を強める。石と土の混じる足元に注意しながら、真夏は一歩ずつ歩を進めていく。汗が薄らと額に滲んでいるのに、空気はどこか冷たい。風が吹く度、肌を撫でる感触がひんやりとして、夏とは思えないほどだった。
やがて木々の隙間から岩肌が見えて来た。あの岩――。
胸の奥で何かがきしりと音を立てた。痛みの予感。脳がそれを察知するよりも早く、心が反応している。
近づけば近づくほどに空気が変わるような気がした。山の木々の緑が鈍く、灰色に沈んで見える。風が止まり、世界が一瞬とまった。
――ドン
何かが体にぶつかるような衝撃が、真夏の胸を貫いた。痛いというより、息が止まった。
「……っ」
足がもつれ、地面に膝をついた。手も土に触れる。小石が皮膚に刺さる。けれど、そんな痛みよりももっと深い場所で疼いている何かがあった。
矢が自分の胸を貫いた。脈打つような苦しみが喉元までこみ上げる。視界が揺れる。光が滲む。血の気が引いていく感覚。寒い。指先が震える。
「博嗣、さま……」
薄い水色の単衣、銀色の髪。それは自分が命をかけてまで庇った博嗣だった。
「生きてくれ」
声がした。耳にではなく、心に直接響くような叫びだった。涙まじりの掠れた声。それでも真夏にははっきりとわかる。あの人が自分の死を心から嘆いてくれた。それがどれだけ救いだったか。過去の自分にとっても、今の自分にとっても。
呼吸が浅くなる。胸が苦しい。千年前と同じように、またこの岩場で崩れ落ちるのではないか。そんな錯覚に陥る。けれど、今回の真夏は死ぬためにここに来たわけではない。
「違う……」
声にならない声が唇を震わせる。
「あの時は何も選べなかった。でも、今は……」
思考が揺れながら、記憶の奥から別の景色が浮かび上がる。心がすり切れそうだった日々。夢にうなされ、過去の記憶に苛まれていたあの頃。ただ、コーヒーを淹れてくれた人がいる。
「兼親……」
そうだ。兼親も何も言わずに、ただ隣にいてくれた。真夏が何度も夜中に目を覚まし、涙を流しても。朝になれば何事もなかったかのようにコーヒーを手渡してくれた。俺は守られて生きてきたんだ。
この千年。死んだあの日の続きとして、ひとりぼっちで生きてきたわけではなかった。誰かがいつも傍にいてくれた。それが兼親であり、過去の博嗣であり、そして今、自分の足でここまで来た”現代の真夏自身”だった。
「ありがとう……」
ぽつりと零れた声に風が応えた。葉がざわめき、頭上から木漏れ日が差し込む。真夏はゆっくりと顔をあげた。岩場の先にほんのわずか白い光が揺れている。祠の方向だろう。まだ距離はあるけれど、あの場所が呼んでいる気がした。
痛みは残っている。けれどそれは過去の呪いではなく、自分の記憶の一部として刻まれたもの。もう逃げない。逃げてはいけないと思えた。
「もう一度、歩こう」
心の奥底でそう誓って、真夏は土を払って立ち上がった。掌に残り傷が、生きている証のように感じた。千年越しの想いは、まだ終わっていない。ここから始まるのだ。
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