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全てを知って4
歩こうと立ち上がったけれど、しばらくの間立ったまま動けずにいた。
胸の奥に残る痛みは、矢に射られたときの痛みだけではない気がした。そこで、ふと気配のように心をかすめた感情があった。
今の自分には”戻る場所”がある。迎えてくれる人がいる。決して1人ではない。
あの夜ー兼親の家に泊まった日ー熱に浮かされたように夢を見て、布団をはねのけて目を覚ましたことがあった。その時、兼親が冷たい水を持って来てくれた。
真夏はそっと目を閉じた。思い出すまでもない。あの夜の空気、寝汗に濡れた肌、喉の奥に残る渇き。その全てが今でも手のひらの中にあるようだった、あれはまだ記憶が曖昧で、夢と現実の区別もつかない夜だった。恐ろしくて、でも何が恐ろしいのかもわからないまま震えていた。自分が誰かだったこと。自分が何かを失ったこと。その断片だけが胸の奥を引き裂いていた。それでも兼親は何も言わなかった。ただ、そっと冷たい水の入ったグラスを手渡してくれた。手が震えていたから、こぼれないようにと指先をそえてくれていた。その手の温度は今も忘れない。
「兼親……」
思わず名前を呼ぶと、風が木々の隙間を抜けて頬を撫でた。まるであの夜、窓を少し開けたときに感じた夜風のようだった。兼親は何も強いことは言わなかった。でも、甘い言葉も言わなかった。ただ、寄り添うように傍にいてくれた。それがどれほど支えになっていたか。真夏はようやくそれを真正面から認めることができた。
出発の日の朝も、いつものカフェの窓際の席でコーヒーを飲んでいた。
「いってらっしゃい」
それだけ言って兼親は穏やかに微笑んだ。問い詰めることも、止めることもなかった。けれど、その微笑みの奥に「もう迷っていないんだな」という確かな理解があった。
兼親は何も求めなかった。真夏が壊れるようになっても、思い出せなくても、ずっと見守ってくれていた。真夏がどこに向かうのかを選ぶまで、ただ待っていてくれた。
「俺は……守られてきたんだな」
自嘲ではなく、実感として呟いた言葉が、静かに胸の奥に染みていく。そして今、ようやく気づいたのだ。自分はもう、ただ守られるだけの存在ではない。あの時とは違う。もう、誰かを守る側に立てる。いや、立ちたいと心から願っている。
「俺は自分の意思で生きる」
風が強く吹いた。木の葉がざわめき、陽射しが揺れる。胸の奥からじんわりと、熱のようなものが立ち上がってくる。それは誰かの背中を追うための熱じゃない。誰かと”並んで”生きるための熱だ。
誰を想って生きるのか。その答えを、もう迷わず選べる。そう思えた瞬間、一歩、真夏の足が自然と前に進んでいた。ずっと傍にいてくれた兼親を思うと強い勇気が湧いてくるようだった。兼親は子供の頃から今日に至るまで変わることなく傍にいてくれたのだ。だから真夏は頑張れる。そして、同時に思う。申し訳なかったと。
「昔も今も、ずっとずっと好きだったよ」
そう言った時の兼親の心の痛みはどれほどのものだったか。兼親は今世だけじゃない。きっと平安時代の頃から見守っていてくれたのだろう。真夏は兼親に何もしてあげられない。だから、そんな兼親に素晴らしい日が来ますように。それを心から願った。
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