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全てを知って5
岩場を越えたその先にそれはあった。
木々の隙間から漏れる光の中に、祠は静かに佇んでいた。まるでこの森がそっと抱くようにして、ずっとそこに在ったかのように。
真夏は息を呑んで立ち止まった。その場所を夢では何度も見てきたはずだった。それでも実際に目の前に立った今、その祠の放つ空気はどこか異質で、どこまでも深くて、胸の奥に知らぬ感情を呼び起こした。足元の土は少しだけ軟らかく、湿っている。風が音もなく吹き抜けてた。沈香と丁子、龍脳の微かな残り香が鼻先をかすめ、真夏は目を閉じる。
思い出すのは血に濡れた日。矢の痛みと、博嗣の叫び。体が冷たくなっていく中で、抱きしめてくれた温もり。そして最後に交わした視線。その全てが、今なお彼の中で終わっていなかったのだと知る。この祠はその証だった。博嗣が自分の死をきっと何度も、何年も何百年も悼んできたのだ。ひとりきりで。姿を隠し、時を超えて。
「あなたが作ったんですね」
思わず呟いた言葉が木立の中に吸い込まれる。彼が千年の時を超えて守り続けた祠。その前に、今、自分が立っている。それが偶然なんかではないことを真夏は深く理解している。
あの日、自分は死んだ。でも、ただ死んだのではない。誰かを守るために。博嗣を守るために命を差し出した。言葉も届かぬほどの衝動で、ためらいも恐れもなく。けれど――
「俺はもう、あの日のようには終わらせません」
言葉が風に乗って消える。けれど祠は確かにそれを聞いてくれたようだった。
「死ぬためじゃない。今度こそ、生きるために来たんです」
ここへ辿り着いた意味が、今静かに真夏の中で形を成していく。過去の記憶、痛み、後悔。そして長い時間を経てようやく得た”今の自分”という存在。それら全てを携えて、祠の前に立つ自分自身の足元が、しっかりと地に根ざしているように感じられた。
胸の奥に確かに熱が灯っていた。風が一層強く吹き、梢を揺らす。葉の擦れる音が重なって、どこか懐かしい音楽のように響く。その旋律の中に、かつて博嗣が吹いていた笛の音の記憶が紛れ込んでいる気がして、真夏は目を閉じた。そのまましばらく動けなかった。祠の前に立つということは、すなわち過去と向き合うということだった。死の記憶と、再会の痛みと、これから進む道の全てを背負う覚悟がなければ、ここには来られなかった。だが、真夏は、ようやくその準備が整ったと感じていた。
「あなたに会いたい。もう一度。現実の中で」
その言葉を心の中で繰り返しながら、真夏はそっと祠の前に進んだ。手はまだ伸ばさない。ただ立ち尽くし、静かに深呼吸をする。白い息が微かに空に滲む。
結界の気配が確かにそこにある。祠の奥、空気が違う。温度も音も、全てがこちら側とは異なっている。けれど、真夏はもう怖くなかった。そこにいるのが、あの人だと知っているからだ。そして自分が選んだ未来が、あの人と共に歩む未来だと知っているからだ。
目を開けた真夏は、まっすぐ祠を見つめた。その視線には、もう迷いはなかった。
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