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選んだ未来1

 山の空気は午後になってもどこか冷たい。雲の切れ間から零れる陽の光が、木々の葉を透かして地面に揺れ落ちていた。  祠は想像よりもずっと小さく、静かにそこにあった。木と石で出来た簡素な造り。だけど、その静けさはどこか凜としていて、訪れた者の心を問いただすような重みがあった。真夏は祠の前に立ち尽くしていた。まるでそこに時間が何層にも重なっているようだった。現代の夏の午後と、遙か昔の命が終わったあの日と。そこに流れた幾千もの季節がこの場所に刻まれていた。目の前の祠は真夏の死後、博嗣が建てたものだ。けれど真夏にはなぜか、それ以前からこの祠を知っていたような感覚があった。そんなことはないのに。  風が吹く。沈香と丁子、そしてわずかに龍脳の香が湿った木々の匂いと混ざって鼻先をかすめた。知っている香りだ。それはかつて、山で博嗣の着物の袖からふと漂ってきた香りだった。静かで揺るぎなく、そして寂しげな香り。あの時、自分はその香りの奥に誰にも言えないような哀しみと優しさを感じ取った。  今再びその香りを感じた時、真夏は目を閉じ、深く呼吸をした。吸い込んだ空気が肺に満ちていくたび、心音がゆっくりと深くなっていく。  ――ここに来たのは、あの人に会うため。  それだけはずっと揺るがなかった。博嗣と交わした「現で会おう」という約束。それは夢ではなく、自分の人生の続きを歩くための意思だった。  心臓の鼓動が、遠い記憶の鼓動と重なっていくのを感じる。平安の昔、この場所で前世の自分が同じように風に耳を澄ませ、月の昇るのを待っていたことが確かにあったように思える。山の夜の冷たさも、月明かりの鈍色も全てが蘇る気がした。  真夏はゆっくりと片膝をついた。手を祠の前の小さな石に添える。石の感触は乾いていて、けれどその奥に誰かの体温の名残があるような気がした。 「……ここに、あなたがいたんですね」  誰に聞かせるでもない、静かな言葉が唇から漏れた。  祠の奥には何も見えない。ただの木組みと石の祭壇。けれどその奥には何かが「ある」としか思えなかった。空気が密かに震えていて、祠の中に差し込む光さえ、まるで息を潜めているようだった。  ――時が、重なっている。  その感覚は、言葉では言い表せない種類のものだった。過去と現在が、香りと風と光と共に結びつき、自分という存在の輪郭を少しずつ明確にしていく。  遠くで鳥の鳴く声がした。風がざわめき、葉擦れの音が囁く。自分の心音と、世界の鼓動がぴたりと重なるような錯覚。 「今、ようやく来られました」  そう呟くと、胸の奥が微かに熱くなる。泣きたかったわけではない。ただ、ずっと迷って、揺れて、過去を思い出し、誰かを想い、自分を選び直してきた日々の全てがこの静かな瞬間に繋がっていることが、たまらなく尊く感じた。 「博嗣さま……あなたがずっとここにいてくれたんですよね」  祠は真夏で真夏は再び立ち上がった。今度は背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま。風は吹いていたが。もう肌寒くはなかった。むしろ胸の奥に広がる熱が、それが遠くからの合図のように思えた。風が一瞬止まり、周囲の音が静まり帰る。真夏は祠に一歩近づいた。まだ結界の境界には触れていない。ただ立っているだけなのに、もうこの世界の色が、どこか変わり始めているようだった。時間がほんのわずか軋みながら重なり、ずれ、響き合う。そんな感覚に包まれていた。  自分が死んだ場所に、今、自分の足で立っている。それは恐ろしいことではなかった。むしろ優しく抱きとめられているような安心感され感じられる。  祠の木橋らにそっと手を伸ばす。けれどまだ触れない。その前にもう一度深く息を吸う。ここから全てが始まる。

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