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選んだ未来2

 触れようとした瞬間、風がふと止んだ。まるで空気が一瞬だけ息を呑んだような沈黙。その直後、ざわりと音を立てて木々が揺れ、風が真夏の頬を撫でていった。枝が軋み、葉が鳴る。その音が、どこか水音にも似た響きで反響し、山の空気をゆっくりと湿らせていく。  真夏は思わず後ろに下がった。立ち止まったわけではない。ただ、その変化に体が反応したのだ。光が揺れていた。空は厚い雲に覆われているはずなのに、木々の合間から差す陽光がまるで水面に反射するように揺れながら、足元の苔を照らしている。その光と影が反転するような錯覚に包まれて、周囲の景色がわずかに揺らいだ。  ――ああ、境が動いている。  そう思った瞬間、遠くから幻のような声が聞こえてきた。   「また作ります。博嗣さまのために」  幼い自分ー霞若ーの声だった。優しく、どこか恥ずかしげで、それでも真っ直ぐな声音。竹を削りながら、うまくできるかと不安に思いつつ、それでも一心に願っていた。どうかこの音が博嗣さまに届きますように、と。  笛を渡した時、博嗣は微笑みの奥に込められた優しさが、今も心に灯りのように残っている。  重なるように別の声が響いた。 「戻って来い。忘れるな」  それは博嗣の声だった。霞若が山を下りる前日、龍笛を渡された別れ際の言葉。脳裏にあの日の情景が広がった。日が暮れる中、風が静かに吹いていた。笛を差し出す博嗣の手は少しだけ震えていたような気がする。言葉にしない想いがその手から痛いほど伝わってきた。今、その声が風に乗って真夏の耳に届いた。記憶の再生ではない。過去と現在が交差する一瞬だ。  空気がまた変わった。風が渦のように木々を巻き込み、ざわざわと音を立てて通り抜けていく。葉がさざめき、頭上の枝が揺れる。光が反転し、苔の緑が一瞬、夜のように沈んだかと思えば、次の瞬間には再び淡い光が差し込む。  視覚だけではない。匂いも音も、全てが揺れていた。沈香と丁子、龍脳が溶け合った香り。遠い過去でしか感じたことがないはずのあの香がほんの一瞬、風の中に漂った。  葉擦れの音に混じって、遠くで鳥が鳴いた。現実の音なのか、それとも記憶の中の音なのか判断できないまま、真夏は立ち尽くした。  祠の前にある苔むした石段に視線を移す。その段差が、まるで真夏が今住む世界と鬼である博嗣が住む世界の結界のように見える。ここから先に進めば、もう戻れないかもしれない。それは何度も考えた。けれど、その先にこそ、きっとあの人がいる。夢の中で何度も逢ったあの姿に会える。言葉を交わせる。今度こそ触れられる。 「博嗣さま……」  小さく呼んだ名前が、すぐに風に溶けた。それでも胸の奥にはっきりと熱のようなものが宿っていた。結界は揺れている。今、この瞬間、確かにそれは真夏の前で開きかけている。 「もうすぐ、会えますね」  真夏のその言葉が風に導かれて、祠の奥へと吸い込まれていくような気がした。

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