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選んだ未来3

 祠の前に立つ真夏の指先が、ゆっくりと空に向かって伸びる。それはまるで、ずっと触れてはならなかったものに手を伸ばすような、或いは、今この瞬間を境に過去も未来も変わってしまうことを知っている者の動きだった。呼吸が浅くなる。鼓動が喉元までせり上がる。空気が不穏な静けさをたたえているのを肌で感じた。  ふいに風が止んだ。さわさわと揺れていた木々がぴたりと動きを止め、葉擦れの音が消える。世界が一瞬息を潜めたかのようだった。その直後、枝がざわりと軋み、風が戻ってくる。強い気流が頬を打ち、髪を巻き上げ、真夏の体温を一気に奪っていった。  空気が変わった。それがはっきりとわかる。湿度が高くなり、空間の輪郭が滲むように感じる。目の前の光と影が反転し、視界の端がゆっくりと波打つ。まるで世界そのものが呼吸をしているかのようだった。  祠の台座の前で、真夏は立ち止まる。小さな祠はひっそりとそこに佇んでいた。長い年月の中で風雨にさらされた木の色が褪せ、土台の石には苔がびっしりと広がっている。その石の台座にのることはできないので、ただその前で手を伸ばす。苔の匂い、湿った空気。境界はもうそこにある。  この先に行けばもう戻れないかもしれない。けれど、ここに至るまでの道のりを思えば、迷いはなかった。過去と現在が交わり、失われたものと取り戻したいものが全てここに集約されている。そんな気がした。  指先が祠の木の表面に触れた。その瞬間、体の芯を冷たいものが突き抜けるような感覚があった。同時に皮膚の表面には熱がじわりと滲んでくる。熱と冷気が同時に押し寄せ、体が一瞬宙に浮いたように感じた。 「……っ!」  膝が抜けそうになるのを踏ん張って立ち尽くす。目の前の空間が水面のように揺らぎ、音が遠ざかっていった。風の音も鳥の声も消えて、代わりに別の音が響いてきた。矢の音。血が噴き出す音。地面に倒れた時の体の重さ。そして泣きそうな声で何度も名を呼ぶ声。 「真夏!……真夏!」  博嗣の声だ。過去の死の記憶が波のように押し寄せてくる。胸の奥に、その時の痛みが蘇る。体を貫いた矢の感触。視界がぼやけていくあの絶望。けれど……。 「俺はあの日のようには終わらせない」  強くそう思った。歯を食いしばり、祠の表面に触れた手に力を込める。あの日、自分は博嗣を庇って死んだ。でも、今は違う。もう2度と同じ終わり方はしない。死ぬためじゃない。生きるためにここに来たのだ。 「生きる……生きるために……」  そう呟いた瞬間、波紋のように揺れていた空間の中心が静かに開いていく。祠の奥から、吸い込まれるような気配が滲み出る。世界が二重に重なっているような、時間の継ぎ目がゆっくりと開いていくようなそんな感覚。  再び風が吹き抜けた。さっきまで揺れていた草木が静かに身を伏せるように静まり返る。静寂の中で真夏はもう1度深く息を吸った。この先にきっとあの人がいる。夢の中で何度も会ったあの姿が、もう幻ではなくなる。今度こそ言葉を交わせる。触れられる。  真夏は静かに目を閉じ、胸に手を当てた。自分の鼓動がゆっくりと静かに脈打っている。過去と現在がそこに重なっていた。 「今行きます。博嗣さま……」  その言葉は祠に向けたものでもあり、自分自身の決意の宣言でもあった。目を開けた時、結界の気配はすでに真夏の周囲を静かに包み始めていた。真夏はゆっくりと手を祠から離し、ひとつ息をついて前を見た。結界の内側――その先に、もう一人の自分が待っている。

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