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選んだ未来4

 足元の土がわずかに沈む感覚とともに、真夏は一歩結界の内側へと足を踏み入れた。  空気が変わった静寂の中に、音にならない気配が満ちている。夕暮れにも似た光が、山の輪郭を染め、木々の葉が鈍く光を反射している。時間がずれたような感覚。ここは現実とは違う。けれど確かに「在る」場所だった。  足元には霧が広がっている。周囲の景色も、少し先を見ようとすれば霞んでしまう。時間が止まったような重苦しく、それでいて優しい空気。その相反したような感覚はおかしいと思うはずななのに、決しておかしくはない。むしろ、それがこの場所の”自然”なのだと感じた。  そして、もう少し先へと進むと霧の向こうに、誰かがいる気配がした。いや、”誰か”なんて言わなくてもわかっている。だって、この結界の中にいる人は限られている。普通の人間がいるはずがないのだ。それなら、なぜ自分は入れたのだろう。それはわからなかったけれど、きっとあの人がいるからだろう。  さらに一歩一歩足を進めると、濃い霧の中、岩の上に佇む人影はもっとはっきりと見えた。銀色の長い髪、白いシャツ、黒いパンツ。服装こそ違うけれど、あの人であることに間違いない。そして今は結界の中だからか角は見えるし、瞳は赤い。夢の中では着物を着ていたけれど、それは真夏が見てわかるようにだったのだろう。けれど、今は違う。今日、真夏が来ることは知らない。だからいつもの服装なのだろう。それに、見間違えるはずがなかった。だって、先ほどから沈香と丁子、龍脳と言った博嗣からいつも香っていた香りがするから。千年前から変わらぬままそこにいる。  博嗣はどこか遠くを見ている。真夏がいることには気づいていない。霧が濃いのだからそんなに遠くは見えないだろうに、と思う。見ているのは今、現在の何かではなく、過去の何かなのだろうか。なんとなくそんな気がした。そしてその横顔には、なんだか簡単に声をかけてはいけないような気がして、真夏は声をかけられなかった。そう思って、声をかけずに、黙ってその横顔を見ていた。  辺りは静かだった。風も止み、鳥の声さえ聞こえない。怖いくらいの静寂に包まれていた。  こんな風に黙ってその横顔を見ていることなんて、千年前にもなかったように思う。千年前の、元服前の自分は、遠くから博嗣の姿が見えると嬉しくて、すぐにその名を呼んでいた。会えることがただ嬉しかったのだ。そして、元服を機に山を下りて都へと行き、夢通うようになった。ああ、その頃は綺麗な横顔を黙って見つめることはあっただろうか。それでもやはり、早くこちらを向いて欲しくて、声をかけていた気がする。千年前の鬼の博嗣と、今の博嗣。変わったのは服装だけだろう。その髪も、目もあの頃と変わらない。  今、声をかけたらびっくりするだろうか。帰れというだろうか。でも約束した通り全部思い出したから会いに来た。 「あなたに会うため、ここまで来たんです。ここで、あなたと生きるために」  心の中でそう繰り返す。そして、こちらに気づいてくれないかなとその横顔を見て思う。あなたに会いに来ました。だから、気づいて。

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