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選んだ未来5

 霧の中を真夏はゆっくりと進んだ。足元の霧は濃く、踏みしめる土の感触すらどこか現実離れしている。けれど、その一歩一歩は確かだった。自分の意思で歩いている。それだけははっきりしていた。  濃い霧の向こう、岩の上に見える姿は夢で見たあの姿とは少し違う現代的な服装だけど、その佇まい、その気配、そして微かに香る沈香と丁子、龍脳の混じったあの香りは千年前と同じだった。  霧の向こうから、その人がゆっくりとこちらを振り返った。顔が見える。目が合う。博嗣だ。目が合った時、その目がほんのわずかに揺れたように見えた。信じられないものをみたような。けれど、すぐに深く飲み込んで、理解したかのようなそんな色。 「来たのか」  博嗣が静かにそう言った。その声は、まるで何度も反芻してきた言葉のように自然で、しかし胸の奥を打つ重みを持っていた。真夏は頷いた。心が静かに震えた。ついにこの時が来たのだ。そう思った。 「来ました。あなたと生きるために」  霧の中でその言葉が溶けていく。真夏の声は震えていなかった。迷いもなかった。ただひとつ、意思だけがはっきりと響いた。風は緩やかに2人の間を通り抜けていく。木々がざわめき、霧がゆっくりと動いた。博嗣は微かに目を細め、その視線に熱のようなものが宿る。けれどその想いはまだ言葉にはならなかった。彼の唇は動かず、ただ静かに真夏を見つめている。真夏もまた、そのまなざしを受けながら立ち尽くしていた。言葉よりも何よりも、目の前に”いる”という事実が胸を満たしていた。  ゆっくりと博嗣が岩から下りる。音ひとつ立てず、地を踏むその足取りには確信があった。もう逃げるつもりはないのだと真夏は理解する。むしろ彼もまた、待っていたのかもしれない。この再会の時を。博嗣の姿が少し近づく。そのたった一歩に、千年分の時が込められているように感じた。真夏もまた、静かに一歩を踏み出す。言葉を交わさなくても伝わるものが、確かにここにある。  あの時、何もできずに別れた人。命をかけて庇い、そして置いてきた人。けれど今、こうして目の前に立っている。千年を超えて、いつものあの場所で。言葉が足りなくてもいい、時間がかかっても構わない。これが始まりだ、と真夏は思った。失ったものを嘆く時間ではない。これから得るものと、生きるための時間を刻んでいくのだ。2人の間にあった沈黙は痛みではなく、祝福のようだった。再会は静かに、けれど確かに果たされた。  博嗣はほんのわずか目を伏せた。それが何を意味するのか真夏にははっきりとわかった。言葉にならない感情がある。再会の喜びも、迷いも、傷も。それらが全て、その眼差しの影に宿っていた。かつてと同じ瞳だった。真夏を最後を見届けたあの日に、震えながら名を呼んでくれたその人の眼差し。その痛みが、今も消えていないのだと気づいた。だからこそ、ここに来たのだ。もう、あの痛みを繰り返さないために。  風が2人の間を抜ける。その風は懐かしさと予感の匂いを含んでいた。真夏はほんの少し微笑んだ。大丈夫と言いたかった。まだ言葉にはならないけれど、そう伝えたかった。自分はもう逃げない。思い出しただけでなく、選び取るために来たのだと。  博嗣は、その視線をそらさないまま、静かに一歩を踏み出した。その歩みは慎重で、けれど確実だった。真夏は息を呑みながら、その一歩を見届ける。次の瞬間、真夏の足元の落ち葉が風でふわりと舞った。まるで道が整えられていくかのように。過去の記憶と今、現在とが少しずつ一致していく感覚があった。  もう、過去ではない。これは「再会」ではなく、「始まり」なのだ。千年前叶わなかったことを、こんどこそ生きて果たすための。  言葉は少なかった。けれど、それでも十分だった。目の前に立つその人が、再び自分の世界に姿を現してくれた。それだけでもう十分すぎるほどに胸が満ちていた。

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